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ばらえてい テレビファソラシド
日本のテレビ番組 ウィキペディアから
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『ばらえてい テレビファソラシド』は、NHK総合テレビで1979年4月3日から1982年3月13日まで放送されていたバラエティ番組である。一般的には、単に「テレビファソラシド」と呼ばれていた。ステレオ放送、文字多重放送を実施していた。
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概要
要約
視点
音楽やスポーツの話題、漫才、歌舞伎、日本の自然探訪など、多彩な構成で綴っていた新趣向のバラエティ番組であった。
永六輔が久々に出演したバラエティ番組であり、音楽バラエティショーの先駆けとなった、NHK『夢であいましょう』の演出を担当した末盛憲彦が手掛けた。永は民放初の冠ラジオ番組『永六輔の誰かとどこかで』(TBSラジオ)がスタートした1967年以降はテレビよりもラジオに活動の重点を置いており、テレビ出演には距離を置いていたが、『夢であいましょう』の頃から信頼関係のある末盛と番組を制作できるのならということで出演を許諾。1978年12月27日に年末特別番組として放送された(この際の司会アナウンサーは、加賀美幸子と伊集院礼子が担当した)。
NHKは、従来4月から10月までのプロ野球シーズン中には土曜日に野球中継を行うことが多かったが、1979年にはこの期間を芸能およびスポーツの特集枠に変更し、野球中継だけでなく芸能番組も積極的に放送していく方針を固めた。それに伴い、火曜日20時台に放送の『ビッグショー』を土曜日に移動させることも決定。火曜20時台の枠が空くため、そこに新たなバラエティ番組を作るということで特番で好評だった『テレビファソラシド』の放送が決定した。
レギュラー放送の開始は、1979年4月3日20時であった。第1回目のゲストは、金田正一、井上順、石川さゆり、長谷川きよしであった。
以降、芸能人やその他著名人だけでなく、学者・教授などバラエティに富んだゲストが出演。永の得意とする知的エンターテインメント番組として評判になった。
1年後の1980年4月に火曜日から木曜日へ移動した際には、タモリ、小堺一機、近藤真彦をレギュラーに加え、番組は成熟期を迎えた。
さらに1年後の1981年4月に土曜日へ移動したが、この時既に土曜日の放送はプロ野球中継中心のプログラムに戻っており、選挙特番なども重なって放送は極端に少なくなった。また、永自身も以前のようにラジオ中心の活動に戻りたいという考えを持っていたことなどから、開始から3年後の1982年3月13日に番組は終了した。
司会は女性アナウンサー
番組の大きな特徴として、複数の女性アナウンサーが司会を務めたことが挙げられる。
それまでの女性アナウンサーは、番組の中でアシスタント的な役割に徹することが多かった。また、ニュースなどの原稿を読む仕事がメインで、番組内で自分の意見を言ったり、素顔を披露したりするという機会もほとんど無かった。しかし、この番組は2人から5人の女性アナウンサーたちを司会に据え、永がアシスタントを務めるという従来には無い新しいスタイルで放送。NHKの女性アナウンサーがバラエティ番組のメイン司会を務めるというのも初めての試みであり、当時大きな話題を呼んだ。
番組スタート時、永は「こんなに有能なアナウンサーがいるのに、テレビにあまり出さないのは宝の持ちぐされ。彼女たちの魅力を引き出せるような番組を作りたい」と抱負を語っており、台本のみならずアドリブも交えた司会を期待。事実、放送が始まるとこれがNHKのアナウンサーかというような発言が随所に飛び出し、永の思惑通りの展開となった。
服装もそれまでとは違い、当時のNHKらしくない華やかな服装で登場。ただ、一社員扱いで手当(衣装代)は全く出ないため、ロッカーに自前の衣装を2・3着用意しておき、出演の時に着替える者が多かった。
毎回レギュラー出演していたのが、ベテランの加賀美幸子と新人の頼近美津子(頼近は当初は不定期出演、1980年2月より正式にレギュラー司会に昇格)。頼近は初めてのレギュラーの仕事がこの『テレビファソラシド』で、司会の他にコントなどでも活躍。得意のピアノではソロ演奏や先輩・古藤田京子との連弾も披露。ピアノを弾く軽やかな姿と美貌でアイドル的な人気を獲得した(その後、番組卒業からニュースキャスターを経てフジテレビへ移籍)。
現在ではNHK・民放を問わず女子アナウンサーの商品化・タレント化が通例となっているが、それを最初に試みたのがこの番組と言われている[誰によって?]。
タモリの起用
当時のNHKは制限が多く、今のように誰もが出られるというわけではなかった。だが、タモリの持つインテリジェンスが番組の性格と一致するということ、そして永の後押しもあり、番組に起用されることとなった。当初はゲスト出演で得意のハナモゲラ語やスキャットで女性アナウンサーと絡んだり、イグアナの物真似をしたりしていたが、その後レギュラーとして定着。番組後期には永六輔とともに『テレビファソラシド』の顔的存在となった。
番組では、タモリと加賀美という全く違うタイプの2人がコンビを組み、ペアで司会をすることもあった。永は放送当時「タモリと加賀美アナウンサーのコンビによって、バラエティに必要な「意表をつく楽しさ」が生まれる。この2人から何かが始まるという期待がある」と発言。
近藤真彦のレギュラー登板
1980年4月からは、1979年にテレビドラマ『3年B組金八先生』(TBS系列)の生徒役でデビューした、近藤真彦がレギュラー出演。近藤はまだレコードデビューする前で、テレビドラマを見ていた視聴者以外にはほとんど知られていなかった。
近藤は番組のオープニングテーマを歌うなど様々なコーナーで活躍したが、ゲストやレギュラー出演者への発言には、美空ひばりへの「おばさん 歌うまいね」や、永の問いには「知りません」「わかりません」を繰り返すなど、視聴者やスタッフをハラハラさせることが多かった。だがその一方、永が少年時代に疎開した長野県小諸市(当時は北佐久郡南大井村)から番組を放送した際には、永と近藤が当時のまま残っている国民学校の校舎や千曲川に掛かる吊り橋を訪ね、永の戦争の話に真剣に耳を傾けたり、逆に近藤から永に率直な質問をぶつけたりもした。
1980年12月、近藤は「スニーカーぶる〜す」でレコードデビュー。この曲がジャニーズ事務所所属タレントとして初のオリコン調べによるミリオンセラーとなり、1981年には第23回日本レコード大賞など合計18の音楽祭の最優秀新人賞を総ナメした。そして、トップアイドルとなったその年(1981年)の4月2日放送分をもって近藤は番組を卒業した。
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放送期間・時間
出演者
番組開始から終了まで出演していたのは永と加賀美のみである。タモリは1980年中頃まで不定期に出演し、それ以降は番組終了まで毎回出演していた。
進行役
- 永六輔 - 番組初期には女性アナウンサーたちのアシスタント役を兼任していた。
レギュラー
女性アナウンサー(総合司会)
レギュラー出演
不定期出演(1980年2月まで)
主なコーナー
- テレビファ座談会
- 毎週さまざまなゲストを迎え、ゲストと永らレギュラー陣が語り合う。
- ホームドラマ
- タモリを中心としたホームドラマ風のコント。タモリが父親、内海桂子が母親、内海好江が祖母、頼近が娘、近藤が息子役を演じるケースが多かった。また、加賀美がタモリの妻役や娘役をやることもあった。タイトルのテロップには毎回「最終回」と表記されていた。
- 六輔の旅行カバン
- 日本中を旅回りしている永が、旅先で出会った人や起こった出来事を語る。
- ケンの日本探訪
- 国立劇場歌舞伎研究所を卒業したアメリカ人俳優、ケン・フランケルが古き良き時代の日本の名所を訪れる。
- 永六輔 VS タモリ
- 正式なコーナー名は無いが、1つのテーマについて永とタモリが激論するコーナー。多くの場合、永は誰もが同意するような正論を語るのに対しタモリは誰も発想しないような曲論を語ることが多い。豊富なボキャブラリーで立て板に水のごとく喋る永と、曲論を強引な展開で正論に持っていこうとするタモリの話術のバトルが見所だった。
- タモリ・コーナー
- タモリが古今東西、森羅万象から興味あるものをピックアップし、それを面白おかしく解説する。また、タモリならではの一芸を披露することもあった。
- マッチ一本勝負
- これから歌手デビューしようとする近藤が、さまざまな事に挑戦。一流芸能人になるためのノウハウを身に着けていく。
- 歌のコーナー
- 番組の最後にゲストの歌手が歌を披露する。
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放送リスト
1979年(昭和54年)
1980年(昭和55年)
1981年(昭和56年)
1982年(昭和57年)
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スタッフ
番組の現存状況
当番組は基本的に生放送だったため、NHKには公式なビデオ録画がほとんど残っていなかった。NHKアーカイブスでは澤田隆治(元朝日放送プロデューサー、東阪企画創業者)が録画していたテープなどの提供を受け、2016年現在約50本ほどが発掘されている[2]。
脚注
関連項目
外部リンク
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