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改易
武士に対して行われた士籍を剥奪する刑罰 ウィキペディアから
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改易(かいえき)は、江戸時代においては、武士に対して行われた士籍を剥奪する刑罰[1]。士分以上の者の社会的地位を落とす身分刑であるが、禄や拝領した家屋敷を没収されることから、財産刑でもあるとする見解もある[2][3][4]。また大名の所領を没収、減封、転封することを改易と呼ぶこともある。

概論
江戸時代中期の国学者谷川士清が表した『和訓栞』によれば、改易とは戸籍を取り上げることを意味していて(古代中国の律法より生まれた)賊盗律の移郷から発展したものであるとされ、平安時代の『続日本後紀』では改易は別の意味で使われており、後年出来た言葉だという[5]。
改易は「職を改め易(か)える」の意であり、もとは律令制度において現職者の任を解いて新任者を補任するという職務の交代・改補(かいふ)を意味していた[3][6]。職務の交代は概ね不利益を伴うため、中世以降はこの言葉に懲罰的な意味合いが含まれるようになって「所領や所職(しょしき)を没収する」という一種の刑罰をさしたが[7]、原義の職務の交代(変更)の意味も残っていたので、鎌倉時代から室町時代においては守護や地頭職の変更と所領の没収の両方が改易といわれた[注釈 1]。財産を没収する闕所は、改易と似た刑罰だが、鎌倉幕府から室町幕府の初期には御家人に対する刑罰だったが、江戸時代(近世)では士分以外のものに対する刑罰のことをさした[8][9]。
近代以降は大名の領地没収や処罰的な転封を改易と呼ぶことが多いが、同時代史料において大名に対して改易の語が用いられることは極めて稀であり、「領地召上」などの語が使用された[1][10]。近世初期には大名を中心に「改易」の語が用いられ、中期以降は旗本・御家人が中心となって使用される傾向にある[10]。藤田恒春は本来の改易は減転封等とは異なる概念であり、峻別する必要があるのではないかとしている[10]。
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幕臣の改易
江戸時代の法制において「改易」の語が初めて用いられるのは元和8年(1622年)2月15日の「付番士当直勤務令」である[11]。『諸例類纂』においては「改易」は「改易者住居御構等ハ無之、御暇被下、平民二相成迄、此名目者當主井嫡子二限り候事」とあり、士分の所領・家禄・屋敷の没収の意味とされた[12]。士籍の剥奪は長期だが、一定期間で許されることも多かった[12]。これに対して遠島や流刑となった場合には許されることは稀であった[12]。『諸例類纂』においては改易の対象は当主と嫡子に限定適用されるとされているが[5]、実際には庶子に対しても改易が行われることは多かった[13]。改易は蟄居より重く、追放刑・遠島・切腹より軽い[14][15]。
『断家譜』にある75件の改易事例のうち、最も多いのは不行跡であり、続いて連座や偽証などがある[16]。また75件の事例のうち、10件についてはその後赦免されている[17]。浪江健雄は武士として品性・廉恥に欠けたものや怠惰なものについて改易刑が適用される傾向にあるとしている[17]。
一 改易は、住所御構等は無レ構 御暇被レ下 平民に相成まで、此名目は当主竝に嫡子に限り候事 — 『大百科事典 第2巻 (ウツーカク)』[5]。
また『御定書百箇条』には運用について書かれており、その末尾に以下のようにある。
「大小渡」は、武士たる身分を剥奪するの意味で、大小の刀を取り上げて抵抗できないようにした上で、上使は被改易者と一緒に帰宅して、当人の口から家族に立ち退きを伝えさせて家屋敷を没収するが、(家族が)家財を持ち出すことは構わないとされていた。法文は簡素であるが、施行によって生ずる結果はすこぶる重大だった[5]。堪忍料を与えられることが多い大名とは違い、一般の武士は、生活の糧を失い、住宅まで失うので、親族のもとに身を寄せるしかなく、突然貧窮した苦しい生活を強いられることになった。
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大名の改易
要約
視点

大名の所領を全て収公することを除封ともいい、所領(知行)の一部を削減することは減封または減知という。元の所領は没収するが別の小さな所領を与えて移動(転封)を命じる場合もある。改易された大名は、まず預という刑罰で親族宅に謹慎か配流(流罪)[注釈 2]が命じられることが多く、その後に吟味されて、罪の内容によって、斬首、切腹、蟄居、閉門、逼塞、差控など、他の刑罰が追加で下され、最終的な処分が決定した。
幕府の公式文書で「改易」の語が用いられることはほとんどなく、『廃絶録』には除封された大名のうち「改易」とされた大名は15家にとどまる[19]。このうち11家は慶長から寛永年間にかけての大名であり、中期以降は植村恒朝・本多忠央・金森頼錦・小堀政方の4家である[19]。福島正則の川中島への減転封は公式文書を含む同時代史料には「改易」の語はないが、後世の家譜類には「改易」という言葉が用いられる[20]。藤田恒春は大名の「改易」は大名自身の領地が没収され、嫡子が改易となることが本来の大名改易であるとしている[10]。
大名改易の歴史
→「江戸時代に改易・減封された大名」を参照
関ヶ原の役の戦後処理によって(藤野保の『幕藩体制下の研究』によれば)徳川氏によって87[注釈 3]の大名家が改易された。その石高の合計は440万石余で、このほか大規模に減封された大名3名の石高が207万石余もあったため、没収された総石高は622万石余に及んだ[21]。石田三成、小西行長、宇喜多秀家、長宗我部盛親を始めとして、いわゆる西軍に属して、徳川氏に対する軍事的敵対行動によって処分されたものである[21]。さらに三成、行長らは斬首、増田長盛は切腹、秀家は遠流、盛親は蟄居と、各々刑罰が加算された。
大坂の役で豊臣家が滅ぼされて以後、公儀に対する戦争が無くなると、敗者に対する処分としての改易とは別に、江戸幕府が大名統制の基本政策として行った改易が現れ、徳川家康・秀忠・家光の初期3代の将軍によって強行された[14]。関ヶ原の処分の後から慶安4年(1651年)※までの改易は、約130家で、総石高は1,200万石もの多きに及んだ[21]。この時期には、松平忠輝・松平忠直・徳川忠長といった大身の一門・親藩に対する改易が目立つのであるが、数としては福島氏や加藤氏のような外様大名の改易が多かった[21]。関ヶ原後の移転によりほとんどの外様大名は遠隔地に転封されていたが、幕府はこれらをさらに改易や減封に追いやって、没収で生じた空白地を天領(幕府直轄領)にしたり親藩・譜代大名を新たに配置したりして、将軍権力の絶対優位を確立しようとしたからである[14][7]。
改易の理由としては、世嗣断絶(無嗣断絶)と幕法違反によるものが多かった[14]。幕府が、初め末期養子[注釈 4]を禁じて許さなかったことと、外様大名に厳しく目を光らせていたからである[注釈 5]。武家諸法度制定(1615、1635年)前後の幕法違反については、福島正則[注釈 6]や里見忠義が城の無断修築を咎められて改易された件がよく知られる。3代将軍家光の時代には、旧豊臣系の加藤氏・堀尾氏・蒲生氏・京極氏をはじめとする外様大名26家と一門・譜代大名17家が改易された[25]。初期3代の恐怖の処置により、幕府直轄領は拡大して譜代大名の適正な配置が現出したので、譜代大名は絶えず移封の下命を心配しなければならなかったものの、外様大名は骨抜きにされ、幕府に絶対服従の態度をとるようになったのである[26]。
しかし4代将軍家綱の時代に入り、幕府の政治方針に大きな変化が現れた。すなわち、前3代の強圧的な大名整理がすでに十分に奏功して幕府に敵対しようとする大名勢力は一掃されたので、これ以上諸大名を圧迫する恐怖政策は、平和維持を目的とする文治政治の展開には却って弊害があると考えるに至ったのである[27]。改易による藩の取潰しは必然的に多くの浪人を発生させるが、 慶安4年の由比正雪による慶安の変(由比正雪の乱)と翌年の別木庄左衛門(戸次庄左衛門)の承応の変は、生活に追い詰められた浪人が幕府の治安政策の上で大きな障害となり得ることを明らかにした。すでに骨抜きにされ、幕府に対する敵対意識をほとんど失っている大名の戦国的な行動を心配するよりも、むしろ彼らを改易して浪人を作り出す方がより重大な危険を孕んでいたのである。幕府としては治安問題の関心が大名対策から浪人対策へと移っていたので、もはやこれ以上大名への圧迫を続けることは全く得策ではなかった[27]。幕府はこれまでの大名敵視政策を改め、その先達として末期養子の禁令を緩めて、50歳以下の者に限り末期養子を取ることを認め、後年には17歳以上の者とさらに緩和した[22]。元禄5年(1692年)、郡上藩藩主の遠藤常久が死去して、本来であれば無嗣断絶で改易となるところであったが、家綱の側室(瑞春院)の親族(後の遠藤胤親)が家督を継ぐことで改易を免れた例がある[28]。
5代将軍綱吉の時代になると改易は再び増加したが[21]、対象は一門や譜代大名に移っており、一門・親藩の政治干渉を防ぎ、政治安定の実現に主眼があって[29]、綱吉の時代に改易された45件のうち28件が一門・譜代の大名であった[21]。6代将軍家宣以降になると改易は極端に減少し、8代将軍吉宗時代においては「最早改易策による大名取潰しはおこなわれない段階に」達して[21]、無嗣断絶でも末期養子と減知に留める寛大な処置が取られることが多くなった。また、初期の大久保忠隣や本多正純、中期以後の松平乗邑、田沼意次、林忠英、水野忠邦のように、幕府内部の権力闘争に敗れたかそれに連座して、改易された幕臣の大名や旗本も多くいたが、後期の改易は藩での失政や幕府政治の権力争いに関係するものばかりだった。
一方で、幕府が大名を敵視しなくなっても、大名本人が問題となって改易となることがあった。全体を通じて、大名の不行跡や刃傷沙汰、乱心(発狂)といった、広い意味での公序良俗・秩序違反の咎で改易とされた事例が思いのほか多く、赤穂事件の浅野長矩などのように大名同士が事件を起こした張本人であるという事例も少なくなかった。喧嘩両成敗は幕府の法ではなかったにもかかわらず、吉良義央のような幾つかの例外を除いて、刃傷沙汰では被害者も加害者と同様に改易の対象として罰せられた。御家騒動などで家中が揉めて幕府に裁定を委ねる事例があるが、どちらか一方の意見が汲み取られることはむしろ稀で、両派に罰が下されることが通常であり、減知は免れずに家中不行届を理由に改易となることもあった。藩主の失政や苛政により一揆や騒動が起きたという事例が多数あり、大名本人がその地位に就く適性を欠く場合には、不適格者の処分としての改易はむしろやむを得ない処置であったと言える。
改易の処分を受けた後、大名はそれぞれ蟄居や配流といった個別の刑罰に服した。失政や刃傷沙汰を起こした者は切腹となることが多く、島原の乱の原因を作った松倉勝家は切腹ではなく打首となった。ただし処罰後に許され、大名本人または子孫や一族の者が小大名や旗本に取り立てられ家名が存続することは少なくなかった。御家大事の論理を幕府は秩序の維持に有益と考えて重視したからである。譜代・親藩の中には、改易・蟄居処分のあとに許されて、その子孫が旧知とほぼ同じ待遇で復帰した例がある。外様大名でも、改易された有馬晴信の子直純は、例外的にそのまま跡を継ぐことが許された。
改易の申渡しの配慮

改易は領主から家臣と居城、所領を奪い、領国を解体して大名支配を無力化することを意味したので、一つ間違えば反乱の原因とも成り得た。そのため、幕府の側も周到な準備をして、城明渡しの前には諸事に対して万全の配慮を払った。
元和5年(1619年)の安芸・備後50万石の外様大名福島正則の改易[注釈 6]では、将軍秀忠が上洛して正則の嫡男福島忠勝を京都建仁寺に呼び寄せ、正則は江戸に留め置かれた状態で、改易を言い渡すが、幕府は正則に対して牧野忠成と花房正成を上使として派遣し、安芸・備後国の所領を召し上げて替地として津軽国に4.5万石を与える旨を伝えた際、同時に在江戸の諸大名に命じて兵を集めて正則の屋敷を取り囲ませるほどの警戒を見せた[30]。正則は粛々と命令を受け入れるほかになかった。
元和8年(1622年)10月の宇都宮15.5万石の譜代大名本多正純の改易は、正純が最上義俊の改易(最上騒動)を伝える上使として山形城に派遣された折りに言い渡された。上使として伊丹康勝と高木正次が追って派遣され、11か条の不審を詰問し、正純は次々と申し開きをしたが、3か条については答えられずに改易されたという[注釈 7]。ちなみに正純は出羽(佐竹氏預け)に配流となるが、宇都宮を没収する替地として5.5万石を提示されるが「罪があって御処分ならば受けられぬ」として断る気骨を見せている[32]。
寛永9年(1632年)5月の肥後52万石の外様大名加藤忠広[注釈 8]の改易では、忠広は突然老中より「不審の儀がある」として江戸に召喚され、22日に品川宿に着くと江戸に入ることを許さずに池上本門寺で待機するように命じられた[34]。25日に酒井忠勝を徳川御三家に遣わして密議を行い、26日に紀伊和歌山藩主徳川頼宣(夫人が忠広の姉)を江戸に登城させて家光と協議すると、28日に御三家で再び密議をして、29日に再度、頼宣が登城を命じられて忠広の処遇について内達があった。こうして幕府は慎重を期して、徳川頼宣の了解をとりつけた上で、6月1日の拝賀の嘉慶にきた諸大名を前に、老中の口から加藤氏の改易を発表した[34]。諸大名は大変に驚きおののいたが、3日、幕府は肥後国はもちろん全国の各大名の国元に宛に奉書を出して、処分を知らしめた[35]。
この3例は、居城と家臣団から改易大名を切り離した状態を狙ったり、またそのような状況を意図的に作った上で処分を言い渡しており、これは改易を契機とする抗戦を予防するためで、幕府が反乱の芽を摘みとるために細心の注意を払って改易を行っていたことがわかる[36]。
改易では、申渡しの次の段階である国元での城の明渡しについても、細心の注意が払われた。明渡しを告げる「上使」となる幕臣が派遣されるほか、責任者となる「城請取」役の大名が選任され、受け取った後の城を警備する「在番」役の周辺の大名を指名し、万事を監督して将軍に報告する「御目付」となる幕臣も併せて派遣された。没収される藩の石高や城の規模によって、城請取や在番の大名の人数は大幅に増え、それに伴って家臣や動員される人員も大掛かりなものになった。しかし、豊臣家が滅ぼされて以後、武力で抵抗をした大名は皆無で、誰一人として幕府に公然たる反抗をせずに、大人しく取潰されることを受け入れ、無抵抗で城と領地を幕府へ明渡した。福島氏や加藤氏は豊臣以来の大名として強力な存在だったにもかかわらず、他に応援を求めて徳川氏に抗戦するなどという姿勢は微塵も見せなかった。大名は尽く各個撃破されてしまっていたのである[37]。
改易された大名の家臣への扱いは不明なことが多いが、天明7年(1787年)に改易された小堀政方の家臣(近江小室藩)のうち、身寄りがないものに対しては3年間に渡って扶持が行われた[19]。
幕末の改易
幕末には安政の大獄後の彦根藩、第一次長州征伐後には長州藩に対して大幅な減封が行われた。
戊辰戦争によって幕府が崩壊すると、明治新政府は奥羽越列藩同盟に参加した諸侯等に対して処分を行った。仙台藩伊達家、米沢藩上杉家など21家は減封とされ、請西藩林家と会津藩松平家は城地を没収された。このうち会津藩主会津松平家については容保の子慶三郎(松平容大)にあらためて3万石が下賜された[38]。このため、戊辰戦争に関わる新政府処分によって諸侯の身分を失ったのは請西藩林家ただ一家である。これらの諸侯は新たに華族の身分が与えられた。
明治2年6月17日(1869年7月25日)の版籍奉還により諸侯は領主としての地位を失い、行政官としての知藩事となった。ただし知藩事が死亡または隠居した際には血縁者が後継となり、実質的には世襲されていた。明治4年(1871年)7月2日、太政官札贋造事件で福岡藩知事黒田長知は免職され、後任の福岡藩知事に有栖川宮熾仁親王が就任した。その直後の7月14日には廃藩置県を迎え、知藩事は中央から任命される知事に代えられた。ただし、黒田家はこの処分によって華族の身分を喪失したわけではなく、罷免後も旧知藩事に対する家禄をそのまま受け取っていた。
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関ヶ原の戦いで改易・減封された大名家
要約
視点
順番、石高等は特に出典表記のないものは『廃絶録』による[39]。ここでは自刃は任意の自決を、切腹は処罰として定められたものをさして記した。斬首(その後に梟首ともなる)が一番重い刑罰である。「※」の付いたものは廃絶録にない人物。
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江戸時代以降の改易
要約
視点
江戸時代に改易・減封された大名
順番は年代順。石高等は特に出典表記のないものは『廃絶録』による[62]。「※」の付いたものは廃絶録にない人物。
明治時代
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脚注
参考文献
関連項目
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