トップQs
タイムライン
チャット
視点
1981年の阪神タイガース
ウィキペディアから
Remove ads
1981年の阪神タイガースでは、1981年の阪神タイガースの動向をまとめる。
この年の阪神タイガースは、中西太監督の2年目のシーズン(途中就任の前年を含む)である。
概要
前年の5位から巻き返しを図るものの、この年は巨人が5月から独走して阪神をはじめ他球団が追いかける展開。チームは6月以降成績が上向くものの2位から4位を行ったり来たりで、なかなか波に乗れなかった。8月26日の対ヤクルト戦で途中降板の江本孟紀が「ベンチがアホやから野球ができへん」と発言し、中西太監督の投手起用を痛烈に批判。江本はこの責任を取り、シーズン途中に引退した[2]。投手陣ではエースの小林繁や山本和行、ルーキーの中田良弘などがローテを守り、リリーフでは池内豊とこの年ロッテから移籍した福間納が中継ぎの柱として活躍したが抑え不在に泣かされた。打撃陣では前年ケガから復帰の藤田平や4番の掛布雅之が打線の中心となり、特にベテランの藤田は巨人の篠塚和典とのマッチレースを制して首位打者を獲得した。この他にも北村照文・吉竹春樹などといった若手が台頭し、5年ぶりのAクラスとなる3位で終了。シーズン終盤の10月11日、中西監督が成績不振の責任を取り辞任を表明した[3]。後任は広岡達朗招聘が不調に終わり、生え抜きの安藤統男が監督に抜擢された[4]。
Remove ads
チーム成績
レギュラーシーズン
1 | 右 | デード |
---|---|---|
2 | 左 | 加藤博一 |
3 | 遊 | 真弓明信 |
4 | 三 | 掛布雅之 |
5 | 二 | 岡田彰布 |
6 | 中 | 佐野仙好 |
7 | 一 | オルト |
8 | 捕 | 若菜嘉晴 |
9 | 投 | 小林繁 |
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | 読売ジャイアンツ | 73 | 48 | 9 | .603 | 優勝 |
2位 | 広島東洋カープ | 67 | 54 | 9 | .554 | 6.0 |
3位 | 阪神タイガース | 67 | 58 | 5 | .536 | 8.0 |
4位 | ヤクルトスワローズ | 56 | 58 | 16 | .491 | 13.5 |
5位 | 中日ドラゴンズ | 58 | 65 | 7 | .472 | 16.0 |
6位 | 横浜大洋ホエールズ | 42 | 80 | 8 | .344 | 31.5 |
Remove ads
オールスターゲーム1981
→詳細は「1981年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
|
|
入団・退団
シーズン開幕前
本節では、前シーズン終了から本シーズン開幕までの入退団について記述する。
Remove ads
選手・スタッフ
試合結果
Remove ads
個人成績
投手成績
- 色付きは規定投球回数(130イニング)以上の選手
- 太字はリーグ最高。
打撃成績
- 色付きは規定打席(403打席)以上の選手
- 太字 はリーグ最高
Remove ads
表彰
達成記録・出来事
- 2月18日 - プロ野球黎明期から巨人・阪急などで監督を務め、1961年の途中から1968年まで監督を務め、1962年と1964年にリーグ優勝を果たした藤本定義が脳内出血のため死去、享年76
- 4月28日 - 小林繁が大洋3回戦(横浜)で先発し勝利したことにより通算100勝、史上79人目
- 5月29日 - 小林繁が大洋6回戦(横浜)、9回1死目のアウトをとり通算1500投球回、史上93人目
- 6月23日 - 山本和行が広島9回戦(甲子園)で4回に川口和久から満塁本塁打を放ち投手としては史上14人目(15度目)で6回に山本浩二に満塁本塁打を打たれる、同一試合で満塁本塁打の打ち合いは史上7度目
- 7月26日 - 掛布雅之がオ-ルスター第2戦(横浜)で9回に江夏豊(日本ハム)、延長10回に柳田豊(近鉄)からサヨナラ本塁打の2本塁打を放ちMVPに選出される。阪神選手のMVPは1980年第1戦(西宮)の岡田彰布以来2年連続
- 8月4日 - 小林繁が大洋16回戦(横浜)での4回に屋敷要から三振を奪い通算1000奪三振、史上62人目
- 8月7日 - 掛布雅之が中日17回戦(ナゴヤ)の第一打席から第三打席まで3打席連続で安打を放ち、8月5日の大洋17回戦(横浜)の第二打席から10打数連続安打のプロ野球タイ記録。第四打席でショートゴロに倒れ記録は10でストップ[5]
- 8月27日 - 球団は大阪市内の球団事務所で記者会見し、江本孟紀を任意引退選手にしたと発表。さる前日のヤクルト19回戦(甲子園)に先発して降板後に報道陣に対し「ベンチがアホだから野球ができない」と首脳陣を批判するコメントを出し、27日、球団代表の岡崎義人が江本を呼びこの件について事情聴取したが、江本はこの席で退団を申し入れたのを球団に認められたため[6]
- 9月9日 - 江本孟紀が午後、大阪市北区の阪神球団事務所を訪れ、任意引退の手続きを行う[7]
- 10月23日 - 大阪市北区のホテル阪神にて午後2時から記者会見し、二軍監督の安藤統男の新監督就任を発表[8]
ドラフト指名選手
→詳細は「1981年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照
脚注
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads