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五木寛之の長編小説 ウィキペディアから
『青春の門』(せいしゅんのもん)は、五木寛之の大河小説。1969年(昭和44年)6月に『週刊現代』で連載開始された。1994年(平成6年)4月の第8部まで断続的に連載され、2017年(平成29年)より23年ぶりに連載を再開した[1]。
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戦後、筑豊の地に生まれた少年の、人生への旅立ちを雄大な構想で描く。
福岡県筑豊に生まれた伊吹信介を主人公とする群像小説で、シリーズ累計で2,200万部に迫る大ベストセラーとなり、1976年(昭和51年)に吉川英治文学賞を受賞。テレビドラマ化や映画化、漫画化もされた[1]。
筑豊篇、自立篇、放浪篇、堕落篇、望郷篇、再起篇、挑戦篇、風雲篇(前半)と書き継がれ[2]、2017年より新章となる『新 青春の門』の連載がスタートした[3]。
この節にあるあらすじは作品内容に比して不十分です。 |
太平洋戦争真っただ中の昭和時代。九州・筑豊に、一人の少年が生を受けた。彼の名は伊吹信介。父親はかつて働いていた炭鉱で「のぼり蜘蛛」と称されたが、炭鉱内の事故で早逝。義母・タエに育てられている。やがて終戦を迎え、タエは病で倒れた。彼らを取り巻く人々とのふれあいや様々な出来事を経て、信介は波乱に満ちた人生を歩み始める。
など
1975年2月15日に第1作、1977年2月11日に「自立篇」と題した第2作が東宝で公開された。いずれも脚本は早坂暁、監督は浦山桐郎が担当した。「自立篇」がキネマ旬報ベストテン5位に入るなど評価も高く、興行的にもヒットしたが、原作者の五木と監督の浦山との間で、キャスティングや内容描写で意見が衝突し[4][注釈 1]、第3部は制作されなかった[4][5][注釈 2]。こののち映像化がすべて「自立篇」どまりとなるジンクスの始まりとなる。
第1作は5億4,800万円の配給収入を記録、1975年(昭和50年)の邦画配給収入ランキングの第5位となった[6]。
梓旗江役がなかなか決まらず、浦山桐郎監督や藤本真澄・針生宏プロデューサーは関根恵子を推したが[7]、原作者の五木寛之一人が反対した[7]。「じゃあ実物に会ったら?」と言われ、関根に会った五木が大賛成に豹変し、浦山たちに「五木さんは全然節操がない」と笑われた[7]。五木は「写真写りが悪い」と弁明した[7]。関根の出演が決まったことで、関根は景気よく脱ぐことで知られていたため[7]、主演の吉永小百合が「『青春の門』にはずいぶん脱ぐ場面がありますけれども、その道の専門家がいるから安心しました」と発言[7]。五木は憤慨し「いや、吉永さんに脱いでもらわなきゃ意味がないんで、今度は関根さんは徹頭徹尾精神的な芝居をしてもらわなきゃ困ります」とプロデューサーに抗議した[7]。
1981年1月15日に第1作、1982年1月23日に「自立篇」と称した第2作が東映で公開された。監督は第1作が蔵原惟繕と深作欣二の共同で、第2作は蔵原の単独である。
東宝版で五木と監督の浦山の意見が対立し[4]、東宝版自立編公開から2年経った1979年5月に東宝版のプロデューサーだった藤本真澄が死去し、五木は「このままでは『第3部 放浪篇』はデッドロックしてしまう、違う人の手で映画化しないと生きのびない」と判断[10]。藤本逝去の直後に東映社長の岡田茂を訪ね[10]、「今度は是非東映でやってもらいたい」と五木から東映での製作引き継ぎを要請し[4][10]、シリーズものでは異例の他社移行が決まった[4]。五木からの条件は、本作の主人公のイメージである高倉健の主演であった[11][12]。この後五木と岡田社長とで話し合いが持たれ[4][13]、五木の希望通り、第3部「放浪篇」を製作すれば良かったのだが、東映は改めて第1部から第3部までを一本にまとめて製作することで両者が了解点に達し[4][14]、1979年秋に製作発表が行われた[4]。前作からまだ数年しか経っておらずリメイクには早過ぎ[15]、これがまたも第3部は作られないという運命を辿る。岡田は「五木氏は『青春の門』はライフワークだといっており、映画化にも強い関心を寄せている。今回東映での製作希望があったのでウチでやることになった。前二作に負けない魅力あるスタッフ、キャストで質的にもすぐれた娯楽作品を作りたい。主人公の信介、織江役を東宝作品とは違う若手スターの起用を考えている。脚本には笠原和夫を予定。1981年の正月公開を予定している」などと話した[4]。五木は「『青春の門』は60歳まで書き続けるつもり。1981年にやっと半分終わり、2年休憩してまた後半を書くつもり」などと話していたという[13]。 高岩淡企画製作部長は「『人生劇場』だって何本も作られているし、全く新しい東映調の『青春の門』を作り上げる。元々、五木さんは高倉健と藤純子をイメージして小説を書かれたそうだし、そうした意味からも東映で製作されてしかるべきものなのだ。もちろん二人には出演依頼をするつもりでいる」と話した[4]。
しかし製作は進まず。東映は年始に年間ラインアップを発表しても半分は潰れるということは珍しくなかった[16]。1980年までの5年間、正月興行第一弾を担っていた「トラック野郎シリーズ」が終了し、1980年夏の時点では萬屋錦之介主演の『仕掛人梅安』と[11]、佐木隆三原作の『海燕ジョーの奇跡』を松田優作主演・深作欣二監督で1981年の正月興行第一弾に併行して準備していたが[11]、『海燕ジョーの奇跡』を最有力にという流れが強まって来た[17][18]。『ロードショー』1980年12月号には「キャンディーズから始まって、ピンクレディー、引退した山口百恵と、この数年、日本列島を巻き込んだアイドル(スター)はみんな女性だった。女性上位や女の自立などの現象に押されて、男たちの存在は薄かった。だが、ようやく男のスターが生まれようとしている。さあ、男くささの復権だ。トップバッターは、松田優作だ。『野獣死すべし』で三番打者に成長した。『野獣』のあとは四番打者の声もかかっている。彼が次に取り組むのが深作欣二監督との『海燕ジョーの奇跡』だ。これは東映の正月映画だ。つまり、ゼニの稼げるスターの仲間入りしたということだ」などと書かれた[19]。ところが松田が脚本にクレームを付けるなど二転三転、正月興行第一弾には間に合わない状況になり[18][20]、正月興行の選定は東映内部で紛糾した[20]。『ちゃんばらグラフィティー 斬る!』で凌ぐ案や[21]、深作監督の『謀叛』なども候補に挙がり[22]、『海燕ジョーの奇跡』を正月興行第二弾までずらしてまで粘ったが結局流れた[18][23](海燕ジョーの奇跡#深作欣二版映画企画)。
1980年10月20日、東京會舘にて岡田、東映動画社長今田智憲、東映常務渡辺亮徳、石森章太郎、明比正行監督らが出席して製作会見が行われ[24][25]、岡田より「1981年正月第一弾作品として長編SFアニメ『サイボーグ009 超銀河伝説』を『'80アニメーション ザ・ベストテン』との併映で全国一斉公開する」と発表された[24]。『サイボーグ009 超銀河伝説』は洋画系(東映洋画)で流すつもりだったが[26]、東映の本番線の正月興行としては初めてアニメが公開されることになった[12]。これに「劇映画のメジャーがアニメに逃げるとは」と撮影所内部が猛反撥した[12]。
1981年の正月興行は松竹が寅さん(『男はつらいよ 寅次郎かもめ歌』)、東宝が山口百恵のさよなら映画『古都』と強力で、これに対抗する作品もなく[12]、正月興行第二弾で反撃を期待されたが[注釈 4]、並みの映画では代打にならず、1980年10月に入っても正月第二弾が決まらない異常事態になった[12][17]。プロデューサーの日下部五朗は、岡田から「五朗、お前、正月第二弾に何やんねん!」と矢の催促を受けた。このため本作『青春の門』が再浮上し[21]、五木は前作の東宝版でも伊吹重蔵役に高倉をリクエストし[27]、高倉主演が五木の東映移行の条件だったため[11][12]、高岩淡と俊藤浩滋が急いでヨーロッパ旅行中の高倉をスイスジュネーブまで追いかけ交渉したが[11][12][21]、高倉は当時東宝の『駅舎』(『駅 STATION』)の出演が決まり[11]、1980年12月のクリスマスイブからクランクインが決定していたこともあり[28]、松田優作の代替映画のオファーにプライドの高い高倉が難色を示し[21]、「急造の大作では責任が持てない」[11]、「泥縄仕事はいやだ」などとにべもなく断られた[11][12][21]。
1980年11月11日には東映本社会議室で[29]、岡田や池波正太郎、降旗康男監督らが出席して『仕掛人梅安』の製作発表があり[29]、同作を正月に公開すると発表されたため、『仕掛人梅安』は正月第二弾を意味するため、この時点では『青春の門』は正月映画としては製作されないことが確定していた。
しかし菅原文太が1980年の大河ドラマ『獅子の時代』の主演をこなし、役者としてもスケールがさらに一段アップしたことで[11]、五木と菅原が早稲田で同門でもあり[11]、男の中の男の炭鉱夫・伊吹重蔵役は菅原でもよいと五木が了承し[11]、『仕掛人梅安』を延期させ、『青春の門』を正月第二弾作品として急ぎ製作することになった[11][30]。日下部は以前から頼んでいた野上龍雄に脚本を急いで頼み[23]、野上はテレビの『必殺シリーズ』が忙しく『青春の門』には取り掛かってなかったが、急ぎ脚本書きを始めた[20][23]。
監督には野上が『必殺シリーズ』でコンビを組んでいた蔵原惟繕を推薦し[20][31]、蔵原は脚本にも参加した[20]。蔵原は本作前の『象物語』製作中に東映=東京12チャンネル合作による製作費10億円のパニック超大作『東京超大地震』[注釈 5]の監督オファーを受けていたが、同作は製作中止になっていた[32]。ロケハンではチーフ助監督の土橋亨が撮影に重要なボタ山を北九州中探しまわった[20]。しかしふさわしい景色がなくボタ山無しでの撮影を考えたが、一般人から聞いた情報により、出光石油の山口精製所に元海軍の炭鉱があると聞いた[20]。現地に訪れると最盛期の炭鉱そのままといえるような光景があったという。脚本その他も遅れ、撮影は1ヵ月という状況になったため[31]、蔵原一人では間に合わない、二班体制で撮影した方がいいと蔵原が『海燕ジョーの奇跡』の分解で体が空いた深作欣二にやってもらえないかと提案し、日下部が深作に助っ人を頼んだ[15][33]。深作は快く引き受け、蔵原とシーンの分担が行われ、深作はアクション主体の演出を担当した[15][34]。深作は蔵原の日芸の二年後輩で親しく問題はなかった[15]。
映画化決定の話が伝わると織江役とタエ役を「やらせてほしい」と多くの女優から売り込みが殺到したが[33]、タエ役には五木寛之が松坂慶子をリクエスト[23][35]。しかし松坂は当時一番脂ののっている女優で[33]、倍賞千恵子と共に松竹と専属契約を結ぶ同社の至宝[33][36]。日下部が三顧の礼を尽くして何度も松竹にお願いに上がり土下座までして[23]、最終的に岡田が松竹に乗り込み[35][37]、松竹社長大谷隆三に啖呵を切り[35]、松坂の東映貸し出しが決まった[23][33][37]。当時松竹は『敵中横断三百里』という戦争映画を企画していて、この主演に東映専属の千葉真一を貸してくれと申し入れていて、貸す貸さないで揉めていた[38]。松坂の本作出演は1980年11月17日、東映本社で岡田から発表があった[36]。岡田は1980年12月15日に銀座東友クラブであった業界記者団との懇談会で「いまや映画の価値観が変わった。映画が芸術とか娯楽とかというテーマは、ある一部の評論家に通用するだけで、一般大衆に映画が大ヒットするか否かは、作品がいいとかどうとかではなく、イベントになり得る要素があるかないかだ。最初から仕組んだもの、イベントにならないものは大ヒットしない。角川春樹氏はプロデューサーでなくイベント屋だ。橋本忍氏も西崎義展氏も山田洋次氏もイベント屋の才能を持っている。ウチが正月第一弾に『サイボーグ009 超銀河伝説』を組んだのもイベント的発想によるものだ。第二弾『青春の門』で松坂慶子を松竹から借りたのは、それをイベントにするためだ。『青春の門』は講談社と提携して宣伝費2億円を投入する。81年の一年間のラインアップはもう大体固めた。春と夏は恒例のまんがまつり、6月は角川の『魔界転生』、お盆は秘中の秘(松田聖子主演『野菊の墓』)、秋に『大日本帝国』を準備している(1年延ばし)。とにかく81年は私はプロデューサーではなく、イベント屋に徹するつもりだ。東西両撮影所とも、イベントにならないものは一切やらないのが基本的な考え方だ。『二百三高地』はイベントに仕組んで成功したものだが、社内でもイケると理解した者と出来なかった者がいた。駄目だと思った者は価値観が変わっていることに気付かなくてはならない」などと述べた[39][40]。
映画のクランクインは1980年11月20日[36]。松坂のクランクインは1980年11月25日で[17]、深作のクランクインも同じ日だった[33]。日下部は松坂を口説くため2ヵ月以上通ったと話しているため[31]、キャスティングは早めに進められていたのかも知れない。松坂慶子は「東映さんのほうからまずお話があって、松竹の本部長から『こういう話が来ている。撮影日数もきびしいし、大変だと思うけど、どうする』といわれたんです。東宝で吉永小百合さんがおやりになったのを拝見して、とてもすてきな役だと思ったし、それを私がやらせていただけるんならすごい光栄だし、女優であれば誰でもやりたいと考えてる役。映画化が実現するんなら、ぜひ出させてほしい。ほかの女優さんなんかがやったら、あたし、いやですッ」と強く訴えた[37]。「決まるまでずいぶん時間がかかり、一月以上、ハラハラしながら、ただ、ひたすら待っていました。『関ヶ原』(TBS7時間ドラマ)の撮影で、本栖湖ロケに行ったんですけど、ワイヤレスのマイクつけたままお手洗いに入ってしまい、出たらみんな(音を)聞いていたってことがありまして、それもこれも『青春の門』が決まるかどうかで気がソワソワして、なんかうわの空で」などと話している[37]。
高倉健の出演拒否問題をマスメディアが好餌としたため、岡田が改めて記者会見を行い製作を発表する一幕もあった[18]。佐藤浩市は本作が映画デビュー作[30]。織江役の杉田かおるも映画はこれが実質初出演となる。あわただしい製作過程でありながら、菅原文太、若山富三郎、鶴田浩二、松坂慶子といった大スターのキャスティングに成功し、各々見せ場を披露した[17][33]。特に松坂は菅原と肌もあらわに激しい濡れ場を演じ[41]、演技的にも新境地を開いたと評された[42][43]。松坂は「(松竹と違って)東映さんはすごい男っぽさを感じました。お世辞もいわないし、とっつきにくいところもあったけど、親しくなると人情厚いし、とっても仕事しやすかったです。大変なスケジュールでの撮影でしたから、熱い渦の中に巻き込まれちゃた感じで、夢中でやりました」[37]「それまで紙芝居みたいな芝居ばかりしてきたものだから、悲しいときに人一倍悲しみを誇張した顔をしちゃうんです。今回は深作監督にすぐ見抜かれてしまって、なんだかとてもすがすがしい気がしました。ほんとにすてきな方なんですよね。なんで今まで女性映画をお撮りにならなかったんだろうと思うぐらい、女性をよくわかってらっしゃる方ですね」などと話している[37]。
製作も短期決戦、宣伝も短期決戦で、クランクアップは1980年の12月末[17][44]。撮影期間は1ヶ月と大作にしては異例のスピードであった[17]。京都撮影所は持てる力を出し切った。岡田は「高岩淡所長が体を本当に張ったのは『青春の門』が初めてじゃないかな」と評した[17]。
映画の完成も封切1週間前の1981年1月6日[40]。地方キャンペーンに駆け回ったのは映画の封切り後で[17]、原作の知名度は高いものの、文芸大作はじっくり売り込む姿勢が勝ちのパターンというのが過去の例でもあり、本作は宣伝期間も少なく興行は不安視された[18][40]。しかし原作出版の講談社も映画を盛んにPRし[17][40]、高額とされる朝日新聞に一面広告を打った他[40]、多くの地方紙にも広告を打った[40]。また五木寛之も「こんなに目茶苦茶に振り回されたのは初めて」と話すほど、精力的に雑誌インタビューやラジオの取材に応じた[40]。主演の松坂も松竹の専属女優ながら協力的で、3週間の全国キャンペーンにほぼ帯同し東映を喜ばせた[40]。1980年の年内は松坂のヌード写真はマスコミに絶対に出さないでくれと押さえて、年明けから松坂のショッキングな写真を一斉に大公開し、テレビのスポット広告や新聞広告との硬軟組み合わせで一気に話題作りを持って行った[40]。
スケジュールは過密で、福岡のロケ先ではメイン監督の蔵原は寝る間もないほどだったが、助っ人の深作はパートが少なく早めに宿に帰って麻雀をうったりしていた[23][41]。そこで伊吹タエという母であり、女でありという役どころに悩んでいた松坂慶子は、最初に蔵原監督に相談をしたが[45]、蔵原から「お前の好きにしたらいい」と一言われた[45]。松坂は「どうしても納得できない」と高岩に「深作のいる旅館に連れて行ってくれ」と頼んだ[45]。初対面の松坂に深作は「タエは肉体で哲学を語る女なんだ」などと3~4時間力説[45]、高岩はその間、車で松坂を待っていたという[45]。こうした事情で深作と松坂が親しくなった[20][23]。本作の地方キャンペーンで札幌へ行ったときに、夜飲みに出て最後にみんなでラーメンを食べたら、深作の残したラーメンを松坂が啜った[23]。これを見た日下部が二人の仲に気づき、それを周囲に自慢したら、みんなに「何を今さら言っているんですか」と言われた[23]。本作を機に松坂は深作の撮る東映作品によく出るようになった[23][51]。
音楽監督の山崎ハコは、同じ東映の1979年『地獄』の主題歌を担当したことから、スタッフから「ハコさんで」と再び抜擢された[52]。『織江の唄』[8]はイメージソングで劇中では使われない[52]。映画館で観客の入れ替え時に流したのと、テレビスポットで盛んに使われ、山崎ハコのキャリアで一番のヒット曲になった[52]。この曲の影響で山崎に「暗い」イメージが定着した[52]。
第1作のヒットを受け、五木も積極的に年1回のシリーズにしてほしいと要望[53]。しかし第1作公開後、週刊誌のインタビューで伊吹信介役の佐藤浩市が「五木小説はアマい」などと発言し五木を激怒させたが[53]、東映は1年に1本のペースでシリーズ化を発表し[53]、蔵原の単独監督で第2作『自立篇』を製作した。
第2作『自立篇』は主人公・伊吹信介が筑豊をあとにして上京、早稲田大学に入学してからの物語で舞台は東京。信介役の佐藤浩市と信介を慕って上京する幼なじみの織江役の杉田かおる以外はキャストが一新されたが、第1作で朝鮮人炭鉱労働者のボス役だった渡瀬恒彦が今度は早大教授として出演。この教授のモデルは早稲田大学商学部不正入試問題でやり玉に挙がった人物だった[54]。東宝版でいしだあゆみが好演した"二丁目のローズ"カオル役には[55][56]、五木の「彼女でなければピッタリこない」という推薦により桃井かおりが抜擢された[54][56]。前作で死んだ松坂慶子が、親に似ているという設定にするとか、また出させてほしいと頼んだがダメだった[37]。監督の蔵原惟繕は本作撮影後に4年越しの企画『南極物語』のクランクインが正式に決まり、撮影中も『南極物語』の話ばかりしていたといわれる[54]。
当初は『自立篇』を1982年正月映画第1弾として予定していたが[53]、『セーラー服と機関銃』『燃える勇者』が正月映画第1弾に変更になり、公開時期が検討された[55]。前記映画に続いて正月映画第二弾の候補だったのは、沖田浩之主演、阿久悠原作による『家族の神話』で[56]、"東映ニューアイドル路線"を敷くという構想もあったが[57]、1981年のお盆映画『野菊の墓』『吼えろ鉄拳』が、東映が期待したほどのヒットでなかったことから[55]、アイドルでは客が呼べないと判断され[55]、『家族の神話』は製作中止となり[55][56]、本作『自立篇』が正月映画第2弾として公開された[55]。『セーラー服と機関銃』『燃える勇者』の二本立てが東映歴代一位を記録するヒットになるとは誰も予想していなかった[58]。しかし『青春の門・自立篇』は興行成績が振るわず、さらなる続編は作られなかった[15]。シリーズものは内容はともかく観客に与える新鮮味が第1弾と第2弾ではかなり違い[49]、東宝版も第2弾は第1弾の6ガケに留まっていた[49]。当時、噂のカップルだった火野正平と西川峰子の濡れ場などもあったが[56]、第1弾で大きな反響を呼んだ松坂慶子の濡れ場のようなインパクトはなく、興行は不安視されていた[49]。興行は前作を大きく下回り、第3部『放浪篇』は製作中止になった[59]。
1976年4月7日から9月29日に第一部「筑豊編」が、1977年12月7日から1978年5月31日に第二部「自立編」が毎日放送制作(TBS系列)で放映された。
北大路欣也が本作の演技に対して、第14回ギャラクシー賞・選奨を受賞[60]。
話数 | 放送日 |
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第1話 | 1976年4月7日 |
第2話 | 1976年4月14日 |
第3話 | 1976年4月21日 |
第4話 | 1976年4月28日 |
第5話 | 1976年5月5日 |
第6話 | 1976年5月12日 |
第7話 | 1976年5月19日 |
第8話 | 1976年5月26日 |
第9話 | 1976年6月2日 |
第10話 | 1976年6月9日 |
第11話 | 1976年6月16日 |
第12話 | 1976年6月23日 |
第13話 | 1976年6月30日 |
第14話 | 1976年7月7日 |
第15話 | 1976年7月14日 |
第16話 | 1976年7月21日 |
第17話 | 1976年7月28日 |
第18話 | 1976年8月4日 |
第19話 | 1976年8月11日 |
第20話 | 1976年8月18日 |
第21話 | 1976年8月25日 |
第22話 | 1976年9月1日 |
第23話 | 1976年9月8日 |
第24話 | 1976年9月15日 |
第22話 | 1976年9月22日 |
最終話 | 1976年9月29日 |
話数 | 放送日 |
---|---|
第1話 | 1977年12月7日 |
第2話 | 1977年12月14日 |
第3話 | 1977年12月21日 |
第4話 | 1977年12月28日 |
第5話 | 1978年1月4日 |
第6話 | 1978年1月11日 |
第7話 | 1978年1月18日 |
第8話 | 1978年1月25日 |
第9話 | 1978年2月1日 |
第10話 | 1978年2月8日 |
第11話 | 1978年2月15日 |
第12話 | 1978年2月22日 |
第13話 | 1978年3月1日 |
第14話 | 1978年3月8日 |
第15話 | 1978年3月15日 |
第16話 | 1978年3月22日 |
第17話 | 1978年3月29日 |
第18話 | 1978年4月5日 |
第19話 | 1978年4月12日 |
第20話 | 1978年4月19日 |
第21話 | 1978年4月26日 |
第22話 | 1978年5月3日 |
第23話 | 1978年5月10日 |
第24話 | 1978年5月17日 |
第22話 | 1978年5月24日 |
最終話 | 1978年5月31日 |
1991年4月11日・4月12日の2夜連続で、テレビ東京系で放映された。現在は放送ライブラリー(横浜市)で視聴できる。
『青春の門-筑豊篇-』のタイトルで、『TBSテレビ放送50周年スペシャルドラマ』として2005年3月21日・3月22日の2夜連続で放映された。視聴率は1日目が16.8%、2日目が13.5%。
いわしげ孝の作画で「筑豊篇」が漫画化され、講談社『モーニング』に連載された。講談社モーニングKCより単行本が刊行されている。全7巻。
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