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ゆうばり国際ファンタスティック映画祭
日本の北海道夕張市で開かれている映画祭 ウィキペディアから
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ゆうばり国際ファンタスティック映画祭(ゆうばりこくさいファンタスティックえいがさい)は、日本の北海道夕張市で開かれている映画祭である。旧称︰ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭。
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特色
主な上映作品はスタート当初は、SF映画、ファンタジー映画、ホラー映画、アドベンチャー映画などとなっており、フランスの『アボリアッツ国際ファンタスティック映画祭』をモデルとした。当時は、ソフト化すらされない国外の作品が多く、映画祭が宣伝の場になっていた。平成中期以降は日本国内の映像作品媒体のレンタル産業の急成長に伴い、4-5月にかけて公開される話題作の発表の場と、インディーズや自主製作映画のコンペティション部門、若手作家の発表の場となっている。石狩炭田が続々と閉山し、夕張市が主要産業を石炭事業から観光事業へ転換を図る中での唯一、文化事業で成功した事例をもつ中心的な役割なども担っていた。
運営費を出していた夕張市は2006年に財政再建団体入りを表明し、同年7月に開催補助金支出打ち切りを決定、自治体による運営を断念することを発表した。映画ファンなどの有志によって、2007年2月23日には「ゆうばり応援映画祭」が開催されている。映画ファンの有志と映画祭の元スタッフによる「ゆうばりファンタ」が中心となり、2008年に再びゆうばり国際ファンタスティック映画祭として再スタートを切った。2008年のオープニング作品となった『僕の彼女はサイボーグ』は、2003年の映画祭をきっかけとして制作された作品である[1]。
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歴史
要約
視点
1979年(昭和54年)、「炭鉱から観光へ」をスローガンに」夕張市長に中田鉄治が当選。テーマパーク石炭の歴史村の建設が本格化。教育委員会社会教育課長時代から積極的に映画を上映してきた経緯から、1988年に、1年間に及ぶ活動を通じて東京国際映画祭の当時のゼネラルプロデューサーである石田達郎と中田市長との間で映画祭の設立が承認される。同年10月、東京国際ファンタスティック映画祭を視察、当時の映画祭の顧問であったリオネル・シュシャンのアドバイスで映画祭開催の記者会見を札幌で開催発表。
1989年(平成元年)1月、フランスのアボリアッツ国際ファンタスティック映画祭に11人の使節団を送り映画祭の骨子が決定する。3月に開催の記者会見を東京で開催。10月、東京国際ファンタスティック映画祭の閉会式にて、中田市長が「映画のある街・夕張」を映画ファンにPRした。以後、東京国際ファンタスティック映画祭のクロージングにて毎年、市長の演説が話題を呼んだ。
1990年2月、ふるさと創生事業を活用した第1回映画祭が「ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭」としてメイン会場であった夕張市民会館において開催。スキー場に映画『エリック・ザ・バイキング』のバイキング船を設置したり、北海道旅客鉄道(JR北海道)の支援で寝台列車の北斗星を導入して宿泊施設の不足を解消した。
1991年2月には第2回映画祭を開催。日本で行われたイベントの中で、日経イベントから第4位のイベントとして高く評価される。[要出典]同年9月には北海道旅客鉄道(JR北海道)の支援で夕張駅が完成した。
1992年2月には第3回映画祭を開催[2]。4月、フジサンケイグループ広告大賞イベント賞を受賞。夏には第1回の審査員を務めた韓国のイ・チャンホ監督が夕張で『ミョンジャ・明子・ソーニャ』を撮影し、翌年の映画祭で上映を行った。
1994年月には第5回映画祭を開催。3月、日本ファッション協会生活文化賞を受賞。
1997年2月には第8回映画祭を開催。韓国・富川市から45名の視察団が来日、8月に第1回韓国・富川国際ファンタスティック映画祭開催を発表、8月に開催される。これが韓国の映画祭の幕開けと言われている。[要出典]
1998年2月には第9回映画祭を開催。同年4月にパリで行われた「国際都市活性化技術会議 (FITAC)」では映画祭が特別功労賞を受賞。
1999年2月には第10回映画祭を開催[3]。総合体育館を改修した「ゆうばり文化スポーツセンター」がオープン、あたらなメイン会場となった[3]。10周年を記念し、この年のメインビジュアルは、映画祭の準備段階から参画している漫画家の永井豪によるものになった。10周年を機にイベント名から「冒険」を取り、2000年から現在の「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」となった[4]。
2003年2月には第14回映画祭を開催。同月の「第12回日本映画批評家大賞」では特別賞を受賞。4月、映画祭の生みの親であり実行委員長をつとめてきた中田鉄治が市長を退任。同月、夕張市長選挙において後藤健二が当選、以降は2006年まで後藤が実行委員長を務める。10月、中田鉄治死去。
2006年2月には第17回映画祭を開催。6月には夕張市の定例議会において、市の財政が事実上破たんしていることが明らかとなり、後藤市長は財政再建団体入りを表明した。7月の映画祭実行委員会では、夕張市が主体となる映画祭の休止が正式に決定。休止を惜しむ映画人・映画ファン・市民の声を受けて、9月には澤田直矢ら夕張市民有志が映画祭の復活を目指す団体「ゆうばり映画祭を考える会」を立ち上げた。11月、「考える会」は市に代わる映画祭主催団体を目指し、「ゆうばりファンタ」として特定非営利活動法人(NPO)の認証を申請(2007年2月22日認証)。
2007年には自治体の運営による映画祭は開催されなかったが、2月には映画ファンらの有志主催による「ゆうばり応援映画祭」が「ゆうばり文化スポーツセンター」において開催された。実行委員長は北海道出身の映画評論家品田雄吉だった。7月、NPO法人となった「ゆうばりファンタ」が翌年の開催を発表。
2008年3月には第18回映画祭がゆうばり市民会館をメイン会場として開催され、市民主導による夕張市再生の象徴として話題となった。[要出典]この年からスカパーJSAT株式会社が特別協賛となった。
2011年には夕張に派遣されていた東京都職員の鈴木直道が夕張市長選挙に出馬し、市長就任後には名誉大会長に就任した。
2012年には京楽ピクチャーズ株式会社がインターナショナル・ショートフィルム部門に協賛した。
2019年の第29回開催をもって冬季の開催を終了。2020年より夏季の開催に変更し光熱費の削減や野外での上映実施、更なる北海道内の映画ファンの集客を見込む[6]。
2020年は新型コロナウイルスに伴い、動画配信サイトHuluの協力を得てオンライン形式での開催を行った[7]。翌年も同様にオンライン開催とし前年のスケジュール式からオンデマンド式での配信とし夕張市民向けの上映会イベントも展開された。
2022年には新型コロナウイルス後初の本格的な現地開催イベントを3年ぶりに実施。
2023年にはスカラシップ制度を新設(2024年11月22日オフィシャルサイトで一方的に「廃止」[8][9])。
2024年、2023年以前の賞金未払い問題が表面化[10][11]したことを理由に、運営を担ってきたNPO法人ゆうばりファンタが活動を休止すると発表し、中田圭が代表を務めるとした「ゆうばり有志の会」が映画祭を主催。
開催会場は夕張市ホステルひまわりと、栗山町くりやま温泉 ホテルパラダイスヒルズの地理的に離れた二つの会場で開催[12]。夕張市役所はゆうばり国際ファンタスティック映画祭の後援(名義後援)依頼を受けないことを決め、主催者側に通告、事業の全体像が示されず、会の代表者が不明確など、過去の実績や責任体制などの面で市の基準に合わなかった[13]。
会期中には数多くの問題が発生。 本選審査員の映画プロデューサー土田真樹さんが10/25朝未明に、くりやま温泉 ホテルパラダイスヒルズで急逝し、その事実を秘匿する[14][15]、外国作品に字幕が付かない[16]。宿泊費補助の件でトラブルが発生する、イラスト発注への未払いなど[17]。 また、杜撰な金銭管理・運営状況[18]が明らかになった。
2025年1月29日、札幌地裁はNPO法人「ゆうばりファンタ」の破産手続きの開始を決定した[19]。負債総額(簿価)はおよそ7400万円。300万円の賞金が未払いとなっており、助成金が不正に流出した可能性があることも報道された。
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会場
主要会場は以前使用していた場所も含めて以下の通り。
- ゆうばり文化スポーツセンター
- アディーレ会館ゆうばり(旧;夕張市民会館大ホール)※現在は閉館
- ゆうばりホテルシューパロ ※現在は閉館
- 夕張市民会館シネサロン ※現在は閉館
- 夕張市民健康会館
- 夕張商工会議所
- ホステルひまわり
- くりやま温泉 ホテルパラダイスヒルズ
また開催年により特設会場でのイベント上映がある
審査員
ヤング・ファンタスティック・グランプリ部門
ファンタスティックオフシアター・コンペティション部門
ファンタスティックビデオ・コンペティション部門
インターナショナル・ショートフィルムコンペティション部門
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おもな受賞作品・受賞者
ヤング・ファンタスティック・グランプリ部門グランプリ
ファンタスティック・オフシアター・コンペティション部門受賞作

インターナショナル・ショートフィルム・コンペティション部門受賞作
ファンタランド大賞(観客賞)

ニューウェーブアワード
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上映作品
招待作品
ヤングコンペ作品
オフシアターコンペ作品
ビデオコンペ作品
フォーラムシアター作品
フォアキャスト作品
スペシャル作品
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エピソード
要約
視点
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映画祭がきっかけで生まれた作品
- 1991年(平成3年)に審査員で参加した映画監督イ・チャンホは『ミョンジャ・明子・ソーニャ』を韓国と夕張で撮影し、同作品は1992年の映画祭で上映された。
- 1993年(第4回)に初監督作品『レザボア・ドッグス』(1991年)が南俊子賞を受賞したクエンティン・タランティーノは、招待客として訪れた際に本映画祭を気に入り、監督作品『キル・ビル Vol.1』(2003年)において栗山千明演じる女子高生の殺し屋に「GOGO夕張」という役名を与えた。夕張滞在中にホテルで『パルプ・フィクション』の脚本を執筆。のちにハニー・バニーを演じたアマンダ・プラマーは、2006年の映画祭にトビー・フーパー監督とともに招待参加した。
- 1994年にオフシアターコンペで参加した前島誠二郎監督は、西村喜廣らと『レイジング★ユーバリ』を撮影した。これがきっかけでシネマサポーターズが誕生、1999年にはこの作品がフォーラムシアターで上映された。
- 2000年の映画祭で「バンパイアハンターD」のプロデューサーとして訪れた山本又一朗は、2001年に『VERSUS―ヴァーサス―』で参加した北村龍平と出逢い、のちに「あずみ」を共同制作することになった。2004年には山本又一朗が審査委員として参加し、映画祭内で行われた『キル・ビル』スペシャルナイト!ゴーゴー夕張 inゆうばりに参加した栗山千明に『あずみ2』への起用を持ち掛けたとされる。
- 1994年の審査員として参加した台湾のホウ・シャオシェン監督は、2001年の映画祭期間中にスー・チー主演で『ミレニアム・マンボ』を撮影し、同作品は2002年の映画祭で上映された。のちに『珈琲時光』の撮影の一部も夕張で行ったが、このシーンは公開版には収録されず、DVDの特典映像として収録された。1シーンを撮影できなかったためとされている。
- 2006年の映画祭に岡本みね子とともに参加した俳優・監督の光武蔵人は、この年の映画祭にゲスト参加していたアマンダ・プラマーと出逢い、新作『サムライアベンジャー/復讐剣 盲狼』にアマンダ・プラマーをゲスト出演させた。同作品は2009年の映画祭で上映されている。
- 2008年の映画祭でオープニングを飾った『僕の彼女はサイボーグ』は、2003年に山本又一朗プロデューサーとクァク・ジェヨン監督が共に審査員を務めたことがきっかけで生まれた作品である。
- 1996年のオフシアター部門で上映され審査員特別賞を受賞した西村喜廣監督の「限界人口係数」をもとに「東京残酷警察」が生まれた。
トピックス
1992年には映画祭期間中に宝石デザイナーのパスカル・モラビトの挙式した。1995年にはジョルジュ・ムスタキや栗原小巻らによって阪神・淡路大震災のチャリティコンサートが行われた。1997年には映画祭期間中に島田陽子が挙式した。1997年には韓国の富川市から視察団が参加し、富川国際ファンタスティック映画祭の記者発表を行った。同年8月には同映画祭が開催され、日韓映画人交流フォーラムなどが行われて日本映画解禁の道すじを作った。1998年にはパリで開催された「FITAC=Festival International des techniques d'Animaion de la Cite(国際都市活性化技術会議)」で特別栄誉賞を受賞した。2003年には国内最大級の映画資料館である「郷愁の丘 シネマのバラード」(現:郷愁の丘夕張キネマ館)が開館した[27]
2008年にはスカパー!の支援を受けて、コンペグランプリ監督の次回作を映画祭が支援することとなった。1回目の支援作品は井上都紀監督の『不惑のアダージョ』であり、この作品は2010年のロッテルダム国際映画祭のコンペティション部門にノミネートされた。2009年の2回目の支援作品は入江悠監督の『SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム』であり、この作品はアミューズや鈍牛倶楽部との共同製作である。2012年の3回目の支援作品はオ・ヨンドゥ監督の『探偵ヨンゴン 義手の銃を持つ男』であり、キングレコードや前年審査委員長だった林海象との共同製作である。2013年の第4回目作品は石原貴洋監督の『大阪蛇道』である。2014年には京楽ピクチャーズの支援によって、大川五月監督が『京太のおつかい』を製作した。
トリビア
ディープコアナイト
名称の由来は、映画祭事務局のあった建物の前にある青年婦人会館を利用して、映画祭期間中は名称を「みんなの家」(現在は、閉鎖中)と称して様々なトークイベントや音楽イベント、上映などを開催していたが、イベントが比較的に深夜に及ぶことも多く、いつしかミッドナイトで行うイベントが“ディープコアナイト”と呼ばれるようになる。現在ではイベントそのものが正式にそう呼称されるようになった。2001年のトークイベントの参加者は、監督の中田圭、及川中と俳優の加藤雅也。2010年以降は公式には開催されていない。
フォアキャスト部門(2010年までフォーラムシアター)
- 黎明期 (1993 - 2001)
- 定着期 (2002 - 2003)
- 暴走エスカレート期 (2004 - 2006)
- さらにそのエスカレート振りが04年には、頂点に達し、石井隆監督の『花と蛇』の上映や映画制作にまで着手し、西村喜廣監督とタッグを組み夕張オールロケの『スピーカーマン THE BOO』をメイン会場であるホテルシューパロで特別上映、青年婦人会館まで加え4会場で行われ、映画祭本体をかなり侵食。
- 上映希望作品の増加にともない出品条件がこの時期にほぼ固まる。ミニシアター系単館公開作品やVシネ、また商業監督を目指すクリエイターや若手俳優陣たちが自主的に上映企画する場として定着。上映作品は一般に未公開であり、監督やスタッフ・キャストが必ず舞台挨拶などを自分たちで行うことが条件となった。06年までは映画祭側から用意されるものはほぼ会場設備などのみ、監督たちは参加者はすべて自費であった。それでも100名を越える映画人たちが進んで参加を希望し、映画祭の場で交流を深め、次回作への足がかりを掴んでいった。
- 2005年は、みんなの家の閉鎖に伴い、会場を郷愁の丘ミュージアム内のミニシアターへ移転したが、ゲストの数が増えすぎたため、使用は1度限りになった。
- 2006年は、前年度の反省から会場を商工会議所だけに限定したが、ベテラン俳優・諏訪太朗に焦点をあてた特集上映をするなど、作品の質をあげた。特集上映のために諏訪太朗主演で制作された作品もあった。ゲストの数は衰えることは無かった。
- 応援映画祭 (2007)
- 復活期 (2008 - )
- 2008年からは上映作品がスカパー!で映画祭と同時放映されるという映画祭初の試みが開始された。ゲストも高橋洋、沖島勲、阿藤快などさらに豪華に。上映される作品のレベルも高くなった。
- 2009年は商工会議所をメインに、市民会館3階の特設会場でも一部作品が上映された。田口清隆監督『長髪大怪獣ゲハラ』の怪獣アトラクションショーや、スクリーンの映像を背景に役者の生芝居をシンクロさせた演劇イベントなど企画内容もさらに進化した。映画監督の蔭山周や柴田剛が中心となって企画した音楽イベント「ゆうばりロックフェスティバル」は映画祭初の音楽フェスとなった。あがた森魚、あらかじめ決められた恋人たちなど出演者も豪華であった。
- 2011年には「フォアキャスト部門」と改称した。
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脚注
関連項目
関連文献
外部リンク
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