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日本の男性声優 (1966-) ウィキペディアから
高木 渉(たかぎ わたる、本名:同じ[1]、1966年7月25日[6][5] - )は、日本の声優[14]、俳優[14]。千葉県[4]君津市[5]出身、アーツビジョン所属[4]。
代表作品は『名探偵コナン』(小嶋元太、高木渉)[14]、『GTO』(鬼塚英吉)[15]、『Yes!プリキュア5・Yes!プリキュア5GoGo!』(ブンビー)[14]、『ゲゲゲの鬼太郎(第5作)』(ねずみ男)[14]、『連続人形活劇 新・三銃士』(ポルトス)[14]、『はなかっぱ』(黒羽根屋蝶兵衛)[16]。
小さい頃、仮面ライダーになりきって遊んだり、『太陽にほえろ!』のジーパン刑事の死亡シーンなどもマネしていたことで、「結構昔から、何かになりきる事が好きだったのかもしれない」という[17]。
その頃、『ドラえもん』、『侍ジャイアンツ』など普通にアニメは観ていた[10]。しかしそれほどアニメ自体には興味なく、家でじっとしていられないタイプであったことから、外で野球などして遊んでいるほうが多かったという[10]。
中学時代はバスケットボール部、高校時代は卓球部に所属していた[17]。
中学生の頃にテレビで見ていたパントマイムに興味を持ち、「面白いな」と思っていたり、小さい頃から人を楽しませることは好きだったという[17]。
真剣に芝居をやりたいと思ったのは高校進学後であり、じっとしているのが嫌いで勉強が苦手だったことから、「自分は普通のデスクワークは出来ないな」と感じていたという[17]。高校時代に来日していたフランスのパントマイム・アーティストのマルセル・マルソーを見に行って感銘を受けて「動きがいいなあ」と思い、芝居の世界に行こうと考えるようになった[18]。
元々は舞台俳優を志望していたが、劇団の入団試験を受けるまで暇で嫌だった理由から、何かないかなと芸能関係の雑誌を見ていると、勝田声優学院の生徒募集の記事を見かけ、「声優も演技の一環だから、ためになるかも」と受験して合格する[10][11][17]。職業としての声優は無知だったが、「お芝居することには変わりないだろうから、来年の劇団の入団試験まで何か勉強できるなら」と思い、同声優学院に入学[10][17]。その時に「声だけで芝居をする」という世界に熱中し、変わっていったという[10][17]。後に高木は声優のほうがやりがいがあると感じて、劇団の試験を受けずにそのまま声優の勉強に専念し[19]、勝田声優学院を第5期生として卒業[20]。同期に森川智之、横山智佐、三石琴乃、根谷美智子らがいる[18][21]。
アルバイトはあまり転々とせずに、やりだすと一つのところで長くやるタイプであり、昼間レストランのウェイターをしていた[17]。ただしやりたいのは役者だったことから、いつ仕事が入っても良いように昼間は空けておきたかったという[17]。
養成所のレッスン以外ではあまり練習しない怠け者だった[17]。ただし、アルバイト先の休憩時間が1時間半ぐらいあったため、竹芝桟橋まで行って海に向かって1人で「外郎売り」などを喋っていた[17]。
同声優学院の特別授業でのちに所属することになるアーツビジョンの社長だった松田咲實が特別講師として来ており、講演を終えた帰りがけに高田馬場駅で松田と会ってしばらく皆で一緒に電車に乗って帰っていったが、他の皆が途中下車していき、高木と松田の2人だけになった[10][21]。「どうしようか」と迷い、「これはチャンスなのかもしれない」と思い、「アニメの収録現場を知りたいので、どこか番組収録を見学させていただくことはできませんか?」、「養成所以外の外の世界を見てみたいのですがダメでしょうか?」と聞いてみたところ松田は「君が興味あるのだったら電話してきなさい」と名刺を貰い、「これこそチャンスだ」と思い、翌日から何度もアーツビジョンに電話を掛けていた[21]。当初は事務所の関係者には断られ、何回か電話しているうちに『ミスター味っ子』の収録現場の見学を許されることになり、スタジオに通っていた[10][11][12]。
見学を終えて帰り際に挨拶をしていたところ、その現場で出会ったキャスティングも携わっていたたてかべ和也に「君は、来週は来ないのか?」と言われ、見学は1日しか許されないだろうと思っていたため、驚いて「へえっ!? 来週も来ていいんですか?」と返答した[10][11][12][22]。その時に「1日で何ができる。声優になりたいなら毎週来なさい!」、「1日だけの見学で何がわかるんだ。やる気があるなら最後まで来なさい」と言われ、物凄く嬉しかったという[10][11][21]。その後は番組終了までの約1年半、毎週見学をすることになった[10][11][21]。毎週スタジオに早めに行き、皆のお茶を作ったり、灰皿を用意したり、後片づけをしたり、何か仕事を見つけながら見学し続けていた[11][22]。
当時、見学者は高木だけで毎回ゲストキャラがあるような番組だったため、初めはガラスの向こうで、スタジオの中にいるたくさんの声優の芝居を見ることができた[11][21]。続けて行っているうちにだんだん欲が出てきて、「何か手伝いをすることがないか?」など音を出さない事を条件に、次はスタジオの中で見学をさせてもらえた[11][21]。
ある時たてかべに「ガヤやってもいいですか?」と聞いたところ、「俺はお前にガヤをやれとは言えない。何故ならお前に出演料を払わなくてはいけなくなるからね」、「ただ、渉がガヤをやってたとしても俺は見て見ないふりをするよ」と言ってもらい、ガヤを演じさせてもらうことになり[21]、1987年、テレビアニメ『ミスター味っ子』で声優としてデビューする[11][12](デビューした年を「1988年」と表記している資料もある[23])。
見学を始めて1年程経ったある時、実況アナウンサー役を演じる予定だった龍田直樹が、喉を壊した時に、「後日抜き録りする」という事で帰った[21][22]。その時は、恐れ多くも「その役、僕にやらせて下さい」と言ってしまった[21]。皆には「えっ?」と言われたが、「渉のためにテストだけやらせてあげるよ」ということにしてくれた[21][22]。テストが終えた後に「じゃ本番もやっちゃおうか」という具合で本番をしてくれた[21][22]。当時は時間は掛かったが、「先輩が付き合って下さった」と語る[21]。
後で龍田から「渉、俺の役とったな。ギャラは俺に入ってくんだろうな?」と言われたが、龍田にも可愛がってもらったという[22]。
最初にオンエアーを見ていた時は、あまりにも下手くそだったことから「自分の声じゃない」「差しかえられた」と思っていた[21]。最後のテロップで「高木渉」と表示され、「ようやく自分なんだ」と再確認したぐらいだった[21]。
『ミスター味っ子』の現場は高木の原点であり、周囲の先輩にも恵まれ、スタッフの皆とも2005年時点でも会うと当時の話をよくするという[21]。原作者の寺沢大介も2005年時点では『劇団あかぺら倶楽部』の舞台を観に来てくれるという[21]。
デビューした1980年代後半から1990年の頭はバブル時代だったこともあり、先輩について行って飲み屋で芝居の話や仕事のことなど色々話を聞かせてもらっていた[11]。「次はお前が後輩をおごっていくんだぞ」と言われながら、ずいぶんおごってくれたという[11]。監督からも「お前はヘタクソだなぁ」と言われながらもキャスティングさせてもらい、育ててくれたという[11]。
芝居を続けていく上で壁にぶつかるようなことはそれなりにあったが、「苦しい」とは思わなかったという[24]。「やりたい」と思っている仕事だったため、「その都度これを越えなきゃ」と語る[24]。
引き出しが無いことからなかなか思い通りに芝居が出来ないと言う事はあった[24]。しかし「少しずつ引き出しを作っていけばいいのかな」と語り、2005年時点では引き出しはいっぱいあるが、ひとつしか開かないという[24]。
2005年時点ではなにか牽引されていくように「あんな風になりたいなぁ」という気持ちから芝居を観に行ったりしており、「もっと芝居をいっぱい観たい」と思っているという[24]。
昔は演出家に言われたことが全然理解できない時でも、現場でコミュニケーションを取っている間に徐々に相手の言っていることが理解出来てくることもあった[24]。どうしても通じない時は断念して、「自分の中では解消しきれていないけれども、形からでも良いから、なるべく演出が求めるものをやってみよう」と色々していた[24]。2005年時点では演出家としつこいぐらいに積極的にコミュニケーションを取りたいと語っている[24]。
客観的になれることから、自身が出演したオンエアーは必ず見ていた[24]。2005年時点では「もっとこうすれば良かった」、「今度はこうしよう」など研究できるという[24]。
当初は声優だけでは生活も苦しかったためアルバイトもしており、声優の仕事に入れるように、夜に新幹線のおにぎり作りのアルバイトをしていた[11]。
声の仕事がだんだん増えてくると、夜中にアルバイトをしていることもあり、眠くなってきて頭もボーっとしてきたことから、ある日思い切ってすべてのアルバイトを辞めた[11]。無収入になると、「絶対に役者として食べていかなくては」という覚悟ができ、自分を売るために毎日のように事務所に行っていた[11]。
当時はバトルもの、ヒーローものが流行しており、怪獣役や雑魚キャラ役を演じたりしていた[11]。番組レギュラーで、村人A、町人Bなど毎回違う役を演じ、週8本レギュラーをもってた時期もあった[11]。1、2年もすると番組レギュラーも卒業し、今度は少しずつ名前のある役がもらえるようになったが、その役が出てこなければスタジオにも用が無くなり、以前に比べてガクンと仕事が減っていった[11]。「生活していけるのか、自分自身に役者としての魅力はあるのか?」と不安になる日が続いていた[11]。
初めてオーディションに受かった作品は『緊急発進セイバーキッズ』[11]。その後、主役も何本か演じるようになったが、自分で考えすぎて空回りしたり、周囲への気遣いが足りなかったり、大変だったという[11]。しかし看板番組というのはやりがいがあり、1本の作品を作るという意味でもとても勉強になったという[11]。
2005年にはテレビアニメ『ドラえもん(テレビ朝日版第2期)』で先生役、2007年にはテレビアニメ『ゲゲゲの鬼太郎(第5作)』でねずみ男を演じており、リメイクされたアニメで重要な役の後任を務めている。
2002年、山口勝平、関智一と共に、「さんにんのかい」という3人芝居のユニットを結成した[6][24][25]。このように、声優だけでなく舞台俳優としても活動しており、『劇団あかぺら倶楽部』の代表も務めている[2][3][6]。「声優の道を歩んでいくんだろう」と思っていながら元々舞台は好きだったため、同学院卒業後、同期の仲間達と一緒に同劇団を結成したという[17]。
あかぺら倶楽部を立ち上げる時は水鳥鐵夫に当初から演出をお願いしていたが、「劇団は学校じゃないんぞ…」と断られていた[17]。なんとかこの思いを分かってもらいたくてアントン・チェーホフの戯曲『熊』を高木たちで作って観てもらった[17]。そうして粘り勝ちで「旗揚げさせない」という条件付きで水鳥を演出家として迎え入れてくれることになった[11][17]。旗揚げ公演までに4回から5回ぐらい試演会をしていた。観に来てくれた客は最初は無料、その後は500円というふうに、徐々に料金を頂くようにして旗揚げまで2年ぐらい掛かったと語る[17]。あかぺら倶楽部を立ち上げた時は、それほど意識が高いとは思ってなかったが、始めた時から「楽しんでくれる客の割合は徐々に増やしていこう」と努力はしていたという[26]。
2016年の大河ドラマ『真田丸』にて、小山田茂誠役で出演した[3][13][14]。テレビドラマへの出演はこれが初めてである[3][13]。この出演で、アニメファンから多大な反響を呼ぶ[27]。2009年にNHKの『連続人形活劇 新・三銃士』に起用された際、脚本家の三谷幸喜に気に入られたことがきっかけだといい[22]、『三谷版 桜の園』[22]や『シャーロック ホームズ』[28]に出演しているところ、NHKのプロデューサーから「高木くんに甲冑を着せてみたくなってね」とオファーがきたという。最初は舞台の経験があるとはいえ、周りは有名な役者ばかりで申し訳ないと思い断ろうかと思っていたが、「こんなチャンスは二度とないだろうし、失敗しても経験値になる」と思い直して出演を決めたという[3][28]。これ以降、テレビドラマへの出演も増えている。このことについては声優業界の皆が応援してくれるといい、こうやって仕事ができるのも全て周囲のスタッフのおかげだと語る[3]。
不器用のためひとつずつしか出来ず、へこむことも多いが、恵まれた環境にいる幸せ者だという[26][29]。
舞台とアニメーションなどのテレビに出演するマスコミの仕事の両立について、昔はアニメーションの仕事と舞台とを結構ぎりぎりのスケジュールでこなしていた時期もあったが、2005年時点では割と余裕を持って活動している[25]。アフレコは瞬発力、舞台は持久力のように考えているところがあるため、舞台はそのための時間が増えてしまうという[25]。
何度も稽古をしながら役を作っていきたいタイプのため、2017年時点では映像は別物という印象だという[3]。舞台は稽古期間があるため、「ああでもないこうでもない」と考えながら、時には稽古のあとに共演者と飯を食べながら本番に向けて役作りしていけるという[3]。しかし映像は時間が限られるため、「本当に瞬発力と対応力が必要とされるなぁ」と語る[3]。
役柄としては、元気でまじめな青年からナイーヴな役を演じる[30]。
脇役を輝かせる声優としても知られているが、「この役は高木渉じゃないと」と思われるために意識していることは、このキャラクターは物語の進行役なのか、盛り上げ役なのか、芯を張る役なのかなど作品での自分の役割を考えることだと語る[10]。そのような全体の中でのポジションを考えて演じているという[10]。
新人の頃、初めて洋画の吹き替えの主役を演じていた時、昼の休憩で監督に「台本の一番右に名前があることをもっと自覚しろ」と叱られたことがあった[10]。「午前中やった分、録り直してください」とお願いしたところ「バカヤロー、俺がOKしたもの、なんでおまえに言われて録り直すか!」と、また叱られた[10]。自分では一生懸命しているつもりだったが、しっかり作品を引っ張っていけておらず、その時に自分の未熟さとともに、周囲を固めてくれている役者の大事さを痛感していた[10]。
アニメ、洋画でのガヤが苦手で、シチュエーションだけ与えられた即興芝居などもダメで、物語があり、「こういうキャラクターでお願いします」と言われないとあたふたしてしまうという[10]。稽古したいタイプでもあり、何度も練習して本番に持っていきたいという[10]。
主役を演じる時は、「よし、俺が引っ張っていくぞ」、「今日は俺がスタジオの空気を作るぞ」という気持ちで現場入りするようにしているという[31]。
オーディションの時はなるべく自然体で臨むようにしている[25]。無理に声を作ったりするとレギュラー期間中に声をおかしくしてしまうかもしれず、「自分の自然な演技と声質を聞いてもらって判断してもらおう」と考えている[25]。原作がある作品の場合、買って読んだりしてから収録に向かうようにしているという[25]。
高木によると「元々不器用なタイプでそんなにポンポン出るタイプではない、本来ならばアドリブは必要ない」「(それを行うのは)アフレコ現場の空気を和ませるためであり、かつ流れを保つためのもの」という。しかし、アドリブは決してふざけてやっているわけではないようで、『ビーストウォーズ』シリーズでは、演技指導を務める音響監督から「『無音のシーンがあったら、とりあえず何かアドリブで埋める』『テストのときにみんなが笑わなかったら、台本に書かれてある台詞に戻ってはいけない』というルールがある。翻訳家が考えた台詞を改変する以上、『面白くないから』との理由で元の台詞に戻したら、翻訳家に失礼だ」「アドリブをやるなら心してやりなさい」という厳しさがあり、鍛えられた。いい現場だった」とのこと[10][29]。
お酒も飲み、タバコも吸い、規則正しい生活もしていないため、芝居をする上で健康に気をつけていることや体に良いことはあまりないという[25]。ただし無意識のうちにケアはしているのかもしれず、以前舞台の本番中に声が出なくなり、耳鼻科で注射をしてから本番に臨んだことがあった[25]。声が出ない時は周囲に多大な迷惑を掛けるが、その掛けている自分が一番悔しく、それ以来そうならないように何気なく気は遣っているかもしれないという[25]。
芝居が好きになったのは元々好きだったというのもあるが、していく中でもっと欲が出てくるんではないかと語っていた[25]。観てくれた客から「元気になった」、「勇気をもらえた」と感想を貰えると、逆に自分が元気や勇気を貰えるという[25]。以前ちょんまげ物の芝居で三下の役を演じていた際、お見送りのために劇場の外で客を迎えていた時、とある老婦人から「あんたワルだね」と感想を言われ嬉しかったという[25]。また「稽古場が楽しくなくては」とのことで、「稽古場が楽しくなくては、良い芝居って出来ないではないか」と語る[25]。
『緊急発進セイバーキッズ』あたりから、少しずつアニメスタッフとも一緒に飯に行くようになり、東京ムービー(現、トムス・エンタテインメント)のプロデューサーの吉岡昌仁と飲みながら、アニメが作られるまでの話や物作りに対する思いなど、色々話をしていた[29]。
『名探偵コナン』でプロデューサーを務めていた諏訪道彦は、1995年8月頃に新宿区歌舞伎町の居酒屋で「コナンに勧めたい役者がいるので紹介する」と吉岡から高木を紹介されたという[2]。その縁もあり、高木は『名探偵コナン』のキャスティングにおいては、演じるキャラクターは決まっていなかったものの、「何かしらの役は演じて欲しい」との思いから諏訪に誘われた[32]。その後、吉岡が「小嶋元太役にいいんじゃないか」と推薦し、オーディションに合格したという[2][29]。当時はガキ大将的な役は演じたことがなかったが、2016年時点では代表的なキャラクターになり、ライフワークとなっている[29]。吉岡が、元太役を演じる高木の役者としての新境地を開いてくれたと語っている[29]。自身の声を「とても少年のような声ではないが『名探偵コナン』の元太役だけはすんなり入る」といい、『機動新世紀ガンダムX』のガロード・ラン役、『GTO』の鬼塚英吉役の時はずいぶんな言われようもしていたが、「負けないぞ」と思った[24]。『名探偵コナン』には同姓同名のキャラクターが登場するが、このキャラクターは元々当初は名前が設定されておらず、声を担当することになった高木がアドリブで自分自身の名前を名乗ったところ、そのままキャラクター名に採用されたというエピソードがある[2][33][34]。その後、高木刑事は目暮警部の右腕になる刑事のキャラクターとして登場することになり、2022年時点は「言ったもん勝ちですね」と語っていた[34]。元太と高木刑事が掛け合いをするところは、「元太から高木に演じ分けるより、高木から元太に変わる方がやりやすい」という[2]。高木曰く「元太の方が演じやすいかもしれない」とのことで、ガキ大将は子供の気持ちのままでいいため、あまりものを考えないでその場のパッションで演じているという[18]。
自身のターニング・ポイントになったのは『機動新世紀ガンダムX』の主人公であるガロード・ラン役に抜擢されたことであり、当初はフロスト兄弟のどちらかでオーディションに臨んでいた[3][10][25][31]。後日カッコ良くない高木の芝居が、ニュータイプではない破天荒な主役というガロードの設定に合っていたようで、「(ガロード役を)一度受けてくれ」と言われ、合格したという[10][25]。その時は高松信司が高木の声を聴いて、「ガロード・ラン=我が道を走る、というキャラクターに僕の声が合っているのではないか」と再オーディションになったという[31]。合格した時はキョトーンとしてしまい、『ガンダム』で自分が主役を演じるという実感が湧かず、だんだんと「これはやべーぞ」という気持ちになっていった[10]。「この1年、自分がガンダムを引っ張っていくんだ」という強い思いでぶつかっていったという[10]。2017年時点でもそうだが、自分の芝居に納得がいくことは滅多になく、「反省魔」であるという[10]。一方、座長と言う意味では、「僕が一生懸命やることで周りの皆さんも付いてきてくれるんだ」と思っていたことから「僕が引っ張っていかなきゃ」という想いが強かった[31]。収録を終えて、改めて「自分ひとりではなく周りの役者さんにしっかり脇を固めてもらえてこそ良い作品になるんだ」と感じており、2018年時点でもでもその気持ちは変わらないという[31]。『機動新世紀ガンダムX』も「もっとできるんじゃないか」という思いが大きかったという[10]。ガロードの役作り、演じ方で意識されたのはニュータイプではないため、「裏をかくより真正面からぶつかって行こう!」という気持ちで演じていた[10]。あまり深く考えず、「台本を読んで感じたままを演じていこう」と思ったという[10]。2018年時点では声優の中にも「『ガンダムX』見てました!」という人物がおり、当時見てくれていた人物が「いま同じスタジオにいるんだ」と思うと嬉しく、若い声優の中には「いつかガンダムの主人公になりたい!」という人物も多いため、光栄なことだという[31]。
『真田丸』の時はテレビドラマの出演は初めてであったが、周囲の人物が「この人はドラマもやるのね」と見てくれるようになった[3]。2017年時点では『真田丸』の影響は大きかったようで、「自分の中に心境の変化があった」と振り返り[13]、『機動新世紀ガンダムX』、『GTO』の時と同じく「こんなこともやります、出来ます」と高木なりの旗を立てていった形であった[3]。特別な自信があったことから引き受けたわけではなく「やってみたらなんとかできました」の積み重ねであった[3]。初めてのテレビドラマの出演が大河ドラマだったというのは大きく、「大河ドラマは誰でも出られるものじゃない」、「僕なんておいそれと出ちゃいけないのでは?」という気持ちはあった[3]。しかし、心のどこかで「こんなチャンス、二度とないよな」とも思っており、「絶対やらなければ後悔する」という気持ちがどんどん勝ち、「出させてください!という気持ちになったという[3]。
山口勝平とはデビュー初期より共演が多く、仲が良い[28]。山口は「一番尊敬する役者」に高木を上げており、いろいろな作品で一緒になるなか毎回役を工夫して作ってくる高木に対し「この調子で渉の芝居の引き出しが1コ1コ増えていったら、いつかかなわなくなる」と内心思っていたという。高木も「僕はどっちかっていうと脇役タイプ。たくさん主役をやってきた勝平くんを改めて凄いなと思います」と山口との対談で語っている[36]。
堀内賢雄は、「デビューの頃から自分をずっと可愛がってくれた、尊敬する大先輩」であるという[31]。『機動新世紀ガンダムX』で共演していた時は「この作品は間違いなく面白くなるぞ」と感じていた[31]。いつも堀内から「頑張れよ、渉!」という想いを背中から感じており、まさに「何も考えずに走れ!」と言葉を貰ったような心境であった[31]。堀内からは時に厳しく普段は甘く、色々と教えて貰ったため、役柄においてもどこかリンクするところがあり、ジャミルとガロードの関係と、堀内と高木の関係が、どこか似ている部分があったという[31]。
勝田声優学院で出会った仲間たちについては仲は良かったものの、「手を繋いだ友人」のような感じではなく、どこかギラギラしていたイメージだったという[18]。
勝田声優学院時代の同期の森川智之とは仲が良いが、「あいつには負けたくない」といったようなライバル心があった[18]。主に森川は2枚目のヒーロー、高木は3枚目を演じていたが、2人で同じ仕事をして飲みに行くと、「今日の森川の芝居は良かったね」、「渉の芝居には敵わないよ」と、競合しないからお互い褒め殺すなど、森川とは話が合うという[18]。
勝田声優学院時代の同期の三石琴乃とは『機動新世紀ガンダムX』、『ドラえもん』などで共演している[31][37][38][39][40]。三石は『リコカツ』に出演する前に「何をどうすればいいか全然わからない」と高木に相談したところ、「とにかくセリフは全部(頭に)入れて行った方がいい」とアドバイスした[41]。高木はドライ・リハーサルをしてから本番に入り、前室があってスタンバイするなど、基礎的な流れも教えた[41]。三石が高木から聞いて一番安心したことは、役者はシャイな人物も多いことであった[41]。三石は事前に「口数が少なくても、俳優同士で仲が悪いとか、こちらに対して嫌な感情を抱いているわけではないから、気にすることはないよ」と聞けたのが助かったと語る[41]。三石は『光る君へ』の時姫役で初めて大河ドラマに出演した[42]が、前述の通り、高木も『真田丸』の小山田茂誠役に出演して以降に様々な声優が起用されていったことから、三石は「夢ではない世界なんだ」と思ったといい、『光る君へ』で時姫役が決まった時も、高木に連絡していたという[37][41]。
1996年から2009年まで『名探偵コナン』の毛利小五郎役で出演していた神谷明は高木のことをずっと見ていたという[22]。このことについて、2018年時点で高木は「嬉しいけど、怖いなあ」と語っている[22]。神谷は高木について、当初は「毎回、なんとかリアルに役を表現しようとしてるなー、でも的に当たってねえんだろうな」と思っていたが、最後の辺りでは「もうバッチリ」であったという[22]。神谷は高木について「器用そうだけど、コツコツ積み上げていくタイプ。舞台とかをやってきたことで花開いたんだろう」と思い感動したという[22]。
『真田丸』の松役の木村佳乃とは「顔合わせより先に会いたい」と思っており、木村が乗馬の練習をしている時に駆け付けた[18]。そこで自己紹介をしたところ「今までにないような面白い夫婦にしようね」と受け入れてくれた、素敵な人物であったと語る[18]。夫婦役であったことから、「私は『渉さん』と呼ぶから、渉さんは『佳乃』って呼んで」と提案されたが、流石に呼び捨てはできず「佳乃ちゃん」と呼んでいたという[18]。
太字はメインキャラクター。
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