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日本の第100・101代内閣総理大臣 (1957-) ウィキペディアから
岸田 文雄(きしだ ふみお、1957年〈昭和32年〉7月29日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(10期)、内閣総理大臣(第100代・第101代)、自由民主党総裁(第27代)。
岸田 文雄 きしだ ふみお | |
---|---|
生年月日 | 1957年7月29日(67歳) |
出生地 | 日本 東京都渋谷区 |
出身校 | 早稲田大学法学部卒業 |
前職 |
日本長期信用銀行従業員 岸田文武衆議院議員秘書 |
所属政党 | 自由民主党(加藤派→堀内派→古賀派→岸田派[注釈 1][注釈 2]→無派閥) |
称号 | 法学士(早稲田大学・1982年) |
配偶者 | 岸田裕子 |
子女 | 長男・岸田翔太郎(元内閣総理大臣秘書官) |
親族 |
祖父・岸田正記[3](衆議院議員) 父・岸田文武[4](衆議院議員) 従兄・宮澤洋一[3][5](参議院議員、第19・20代経済産業大臣) 叔母の義兄・宮澤喜一(第78代内閣総理大臣) |
サイン | |
公式サイト | 岸田文雄ホームページ |
第100-101代 内閣総理大臣 | |
内閣 |
第1次岸田内閣 第2次岸田内閣 第2次岸田第1次改造内閣 第2次岸田第2次改造内閣 |
在任期間 | 2021年10月4日 - 現職 |
天皇 | 今上天皇(徳仁) |
第143-144・150代 外務大臣 | |
内閣 |
第2次安倍内閣 第2次安倍改造内閣 第3次安倍内閣 第3次安倍第1次改造内閣 第3次安倍第2次改造内閣 第1次岸田内閣 |
在任期間 |
2012年12月26日 - 2017年8月3日 2021年11月4日 - 2021年11月10日(総理兼任) |
第16代 防衛大臣 | |
内閣 | 第3次安倍第2次改造内閣 |
在任期間 | 2017年7月28日 - 2017年8月3日 |
内閣 |
第1次安倍改造内閣 福田内閣 |
在任期間 | 2007年8月27日 - 2008年8月2日 |
内閣 | 第1次安倍改造内閣 |
在任期間 | 2007年8月27日 - 2007年9月26日 |
その他の職歴 | |
衆議院議員 (旧広島1区→) 広島1区 当選回数 10回 (1993年7月18日 - 現職) | |
第27代 自由民主党総裁 (2021年10月1日[6] - 現職) | |
第58代 自由民主党政務調査会長 (総裁:安倍晋三) (2017年8月3日 - 2020年9月16日) | |
第52代 自由民主党国会対策委員長 (総裁:谷垣禎一) (2011年9月30日 - 2012年9月28日) |
外務大臣(第143・144・150代)、防衛大臣(第16代)、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、規制改革、国民生活、科学技術政策)(第1次安倍改造内閣・福田康夫内閣)、消費者行政推進担当大臣(福田康夫内閣)、宇宙開発担当大臣(福田康夫内閣)、内閣府特命担当大臣(再チャレンジ)(第1次安倍改造内閣)、文部科学副大臣(第1次小泉内閣)、建設政務次官(小渕第2次改造内閣・第1次森内閣)、衆議院厚生労働委員長、自由民主党政務調査会長(第58代)、同国会対策委員長(第52代)、同経理局長、同広島県支部連合会会長、宏池会会長(第9代)[1]を歴任した[7][8][9]。
広島県出身の通商産業省(現:経済産業省)の官僚であった父・岸田文武の長男として東京都渋谷区で生まれる[3][10]。親の教育方針もあり、文雄は東京で育てられた[11][12]。岸田家は広島の一族であるため[13]、一家は毎年夏に広島に文雄を連れて帰省し、文雄は広島原爆の被爆者たちから当時の話を聞いた[14]。岸田一族も多くが被爆し、死に至った者たちもいた[14][13]。
1963年、父の仕事の関係でアメリカ合衆国ニューヨーク市に居住し、小学校1年生から3年生まで3年間、現地のパブリックスクール(公立小学校)に通う[15]。 1963年秋から「PS 20」に通ったのち、1964年春からクイーンズ区の近隣住区エルムハーストに位置する「PS 13 Clement C Moore School」に通った[14]。
1966年6月にパブリックスクール3年次を修了[注釈 3]して日本に帰国。7月に永田町小学校(現:麹町小学校)の3年次に転入[12]。麹町中学校を経て、1973年に開成高等学校に入学[16]。野球部に入部し主に内野手・二塁手を務める[17]。1年次に高橋慶彦(元広島カープなど)が所属する城西高校と対戦するがコールド負けを喫する[18][19][20]。後に二人は「PRIDE JAPAN★47★BASEBALL CUP2024」で岸田が大会名誉会長、高橋が大会アンバサダーを務める事になる[21]。高校生活では野球の他にロック/フォークの流行に影響を受けギターに打ち込む[16]。
1976年に開成高校を卒業、東京大学合格を目指し2年間の浪人を経験する。この時について、岸田は、著書「岸田ビジョン 分断から協調へ」(講談社)の中で、「(自分は)東大とは縁がなかった」、「3年連続で東大に不合格だった」ことを明かしている[22][23]。
1978年に早稲田大学法学部に入学。政治家を数多く輩出している早稲田大学に学んだものの、政治家を志したわけではなかった。当時は夏目漱石のような文豪に憧れ、庄司薫の小説も愛読し一人旅を好んだ[24]。
1979年、父・文武が通産省を退官し、衆議院選挙に出馬、衆議院議員に当選した。この際、岸田は父の熾烈な選挙戦を手伝ったが、多くの種類の人間に接し1票を入れてもらうため、いかなる努力をするべきなのか考える貴重な経験となり、その後の自身の政治への道に影響した[25]。
1982年、早稲田大学法学部(民法(不法行為):浦川道太郎ゼミ)を卒業[26][4]、同年、日本長期信用銀行(現:SBI新生銀行)に入行[4][27][28]。
長銀入行後、最初の配属は本店勤務で外国為替業務を2年半経験し、こののち海運業界担当の営業マンとして高松市に2年半赴任した[16]。高松での地方営業では利息すら払えなくなった会社から経営再建の支援継続を相談されたり、倒産や夜逃げを目の当たりにして世間の厳しさや経済というものの激しい実態を知った[16]。
1987年3月、政治家になる決意を固めて長銀を退職した[29]。
1987年、長銀を退職して当時衆議院議員だった父・文武の秘書となる[4]。
当時の父は口数が少なく、岸田は父の背中から多くを学んだ[16]。
1988年11月、マツダの社長秘書を務めていた和田裕子と結婚した[29]。
1993年、第40回衆議院議員総選挙に前年議員在任中に死去した文武と同じ選挙区である旧広島1区から自由民主党公認で出馬し、初当選[4][30]。父と同じ宏池会に所属する。
1996年の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い広島1区から出馬し、以後広島1区で連続8選[4]。
1997年には若手議員の登竜門とされる党青年局長に就任した[4]。
2000年、派閥領袖の加藤紘一が起こした「加藤の乱」に血判状をしたためて参加し、石原伸晃、塩崎恭久、根本匠と行動を共にした[16]。乱の鎮圧後は堀内光雄、宮澤喜一、池田行彦らから声をかけられ堀内派に属した[14][31]。
2001年、第1次小泉内閣で文部科学副大臣に任命される。2007年、第1次安倍改造内閣で内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、規制改革、国民生活、再チャレンジ、科学技術政策)に任命され、初入閣した[4]。続く福田康夫内閣でも内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、規制改革、国民生活、科学技術政策)に任命され、引き続き入閣。
2008年、新設された消費者行政推進担当、宇宙開発担当大臣を兼任[4]。福田康夫改造内閣の発足に伴い大臣を退任し、党の消費者問題調査会長・道路調査会副会長兼事務局長、団体総局長に就任[4]。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では、広島1区で民主党の菅川洋を破り、6選(広島県の小選挙区で議席を獲得した自民党の候補者は岸田のみ。また、広島1区では初めて次点以下の候補者が比例復活した)。
2011年9月、自民党総裁谷垣禎一の下、党国会対策委員長に就任し、野党自民党の国会対策を担い与党民主党との交渉を担った(2012年9月退任[4])。
2012年10月、政界引退を表明した古賀誠から宏池会を継承し、第9代宏池会会長に就任した。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では、広島1区で7選。
選挙後に発足した第2次安倍内閣では外務大臣として入閣した[注釈 4]。
それまでの岸田は前述の小泉・福田政権に於いて内政の経験は積んでいた一方で、外交に関する知識・経験は乏しく、幼少期のニューヨーク在住を除けば留学・在外勤務の経験もなかった。本来ならこの「外相」というポストは岸田にとって門外漢、専門外のものであった。
しかし、外相起用に際しては普天間基地移設問題などを念頭に、岸田が沖縄担当相を歴任し、知事の仲井真弘多と親交が深いこと、中国要人との太いパイプを持つ古賀誠を後見人に持つこと、対話を重視する岸田のスタイルが中国など関係諸国へのメッセージとなること、という点が考慮され、外相に就任したとの報道もある[32]。
岸田と安倍晋三とは1993年の当選同期であり、派閥は異なるが人間関係は良好な間柄である。安倍が自民党幹事長代理を務めていた時代に、岸田文雄は党改革で議論を交わした仲とされ[33]、その後、第一次、第二次いずれの安倍内閣にも岸田は入閣した。
特に、第2次内閣発足以降、「タカ派」と評される安倍が、連続5期、4年半余りにわたって岸田を外務大臣に起用し続けた理由については、岸田の実務能力を買ったともされるが[34]、『夕刊フジ』は「ハト派」で「親米派」でもあるが「親中派」でもある宏池会出身という点を考慮して、菅義偉、石破茂、河野太郎らの人事も含め、中国をはじめとする周辺諸国への友好姿勢をアピールする狙いがあると報じた[35]。
その後、2014年9月発足の第2次安倍改造内閣で留任、さらに2014年12月の第47回衆議院議員総選挙で8選した後に第3次安倍内閣でも再任、自民党総裁選後の2015年10月に発足した第3次安倍第1次改造内閣でも外相を留任するほど、岸田は安倍からの信頼が厚かった。
2015年7月5日に決定した軍艦島のユネスコ文化遺産登録では、岸田は韓国の妨害に対して「forced to work(働かされた)」という表現を用いて遺産の説明を行うことで対処した。この表現について岸田は「強制連行」を意味しないことを明言し、徴用工訴訟問題と関連付けしないことも合意させた[36]。
2015年12月28日、岸田はソウル市内で尹炳世韓国外交部長官と外相会談をし、日本国政府は韓国政府が設立する元慰安婦を支援するための財団に10億円拠出し慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決することで合意する日韓合意がなされた[37][38]。
2016年4月、地元広島で開催されたG7外相サミットの議長を務め[39]、他のG7外相と共に広島平和記念公園を訪問[12]。広島平和記念資料館を訪れた後、原爆死没者慰霊碑に献花を行う[40]。
2016年5月、バラク・オバマの広島訪問が実現した際にオバマに対して原爆ドーム、原爆の子の像、折り鶴などについて通訳を介さずに英語で説明を行う[41]。
第24回参議院選挙後、8月に発足した第3次安倍第2次改造内閣でも留任した。
2016年12月、岸田は安倍の真珠湾訪問に同行する[42]。
2017年1月6日、岸田の外務大臣在職期間が大平正芳を超え、戦後の外務大臣としては歴代2位[43]、専任の外務大臣としては歴代最長となった[44]。
2017年7月28日、自衛隊南スーダン派遣での日報の隠蔽疑惑に関する問題の責任を取って稲田朋美が辞任したのに伴い、内閣改造までの一週間に渡って防衛大臣を兼務した[45]。外務大臣と防衛大臣の兼務は憲政史上初であった[4]。
2017年8月の内閣改造・党役員人事に於いて長年務めた外務大臣から閣外へ転出し、将来総裁を目指すに当たって党務の経験を積みたいという自身の希望により、党三役ポストである自由民主党政務調査会長(政調会長)に就任した。そして、現職の安倍総裁を支持して党内を乱さないことで2020年以降の『ポスト安倍晋三』に向けて存在感を示す方針を取った[46][47]。
2018年9月の自民党総裁選挙については、岸田派内では若手を中心に岸田の出馬を求める主戦論が優勢である一方、ベテランなど一部に今回は安倍支持に回り3年後に「禅譲」を狙うべきだとする慎重論があった[48]。最終的に7月24日に岸田は立候補を見送り、安倍の支持を表明した。この岸田の動きに、自民内からは「乗り遅れだ」との冷ややかな見方が広がった[49]。
2018年10月、岸田は自民党総裁の直属機関(総数24)のうち、『道州制推進本部』『日本経済再生本部』『外交戦略会議』『農林水産業・地域の活力創造本部』『歴史を学び未来を考える本部』の5つを廃止した。政務調査会の権限を強めることを狙った[50][51]。
2019年9月の内閣改造・党役員人事に於いては事前に幹事長への起用説も取り沙汰されていたが、二階俊博幹事長が退任に抵抗を示したこともあり、引き続き政調会長に留任となった[52]。
2020年8月に安倍晋三総裁・内閣総理大臣の健康問題による辞任表明を受けて行われることとなった2020年の自民党総裁選に当たっては、岸田は9月1日に岸田派の臨時総会で自身の出馬を表明した[53][54][55]。結果は内閣官房長官の菅義偉に敗れ2位に終わり、「今日の戦いが終わった今、新たなスタートだと思っている。総理・総裁を目指して次の歩みを進めていきたい」と述べた[56]。
2020年9月11日、初の著書となる『岸田ビジョン 分断から協調へ』を出版した。当初は15日に出版する予定であったが、14日の総裁選投開票日に間に合わせるために前倒しされた[57]。
総裁選後の2020年9月15日に自民党政調会長を退任。期間中、一貫して要職にあった第2次安倍政権から一転して菅政権では入閣・党役員起用ともになく、およそ7年半ぶりに無役へ退くこととなった。
2021年3月27日、自由民主党広島県連会長に就任。同会長を務めるのは3回目[58]。
同年5月12日、自民党本部で二階俊博幹事長と会談。党本部が2019年の参院選広島県選挙区をめぐり、現職の溝手顕正(岸田派)を追い落とすため、河井案里(二階派)陣営に送金して買収の原資になったとの指摘がある1億5,000万円について、使途解明を急ぎ、国民に説明するよう申し入れた(詳細は河井夫妻選挙違反事件を参照)[59][60]。
2020年9月に就任した菅義偉の総裁任期は党則の規定により2018年9月に再選された安倍晋三の3期目(3年間)の残りを引き継ぐ形であったため、1年後の2021年9月末が任期の期限となっていた。
同年8月26日、自民党の総裁選挙管理委員会は、総裁選の日程を「9月17日告示、29日投開票」と決定した[61]。この時点で、現職の菅義偉が立候補を予定しており、二階、麻生、細田派会長の細田博之、公明党代表の山口那津男らは菅の再選支持を明らかにしていた[62][63][64]状況のもと、岸田は国会内で記者会見を開き、総裁選出馬を正式に表明した。全候補者のなかで最も早い立候補表明であった。立候補する理由について「自民党が国民の声を聞き、幅広い選択肢を示すことができると示し、日本の民主主義を守るため」と語った[65]。その後、菅は出馬しない意向を示し、岸田と河野太郎、高市早苗、野田聖子の四者の選挙戦となった[66]。
2021年9月29日、自民党総裁選の投票が行われた。1回目の投票で岸田はトップの256票を獲得したが、有効投票数[注釈 5]の過半数に届かなかったため河野太郎との決選投票が行われることになった。決選投票[注釈 6]では、岸田は257票を獲得して河野(170票)を破り、第27代総裁に選出された[67]。
総裁に就任した2021年10月1日、新体制の党執行役員人事を決定し、副総裁に麻生太郎、幹事長に甘利明、政務調査会長に高市早苗、総務会長に福田達夫、選挙対策委員長に遠藤利明がそれぞれ就任[68]。
2021年10月4日、国会衆議院及び参議院の本会議で行われた内閣総理大臣指名選挙にて岸田は「内閣総理大臣」に指名された。そして、皇居での今上天皇徳仁による任命を経て第100代内閣総理大臣に就任。菅義偉内閣が総辞職し、第1次岸田内閣が発足した。
岸田は64人目の総理大臣で[11][69]、広島県出身の総理としては[69][70][71]、加藤友三郎、池田勇人、宮澤喜一に次ぐ4人目で[11][12][69]、広島県は山口県(8人)、東京都(5人)に次いで3番目に多い総理大臣輩出県となった[11][69][72]。第二次世界大戦後に限れば、群馬県の4人に次ぐ3人で[73]、2位[11][69][71]。大正以降は、昭和、平成、令和と全ての元号で総理大臣を輩出している[74]。同じく1957年生まれの野田佳彦より誕生日が遅いため、存命中の内閣総理大臣経験者の中では最年少者となった(就任時の年齢は64歳で、39番目に若い)。
2021年10月6日、岸田はアメリカ合衆国大統領のジョー・バイデンと首相就任後初となる日米首脳電話会談を行った。
2021年10月14日、第205回国会会期末を迎え衆議院を解散し[75]、31日の第49回衆議院議員総選挙では、圧勝で10選。自民党は重鎮の落選が相次ぎ、公示前の276議席から261議席に減らしたものの、「絶対安定多数」を単独で確保した。この時点で、連立与党の公明党と合わせて与党は293議席となった[76]。
2021年11月2日、イギリス・グラスゴーで開催されたCOP26に出席し、米国大統領のジョー・バイデンとも短時間ながら初の対面による日米首脳懇談を行った[77]。
2021年11月4日、外相だった茂木敏充の自民党幹事長就任に伴い、新外相就任まで岸田自身が外務大臣を兼務した[78]。
2021年11月10日、第206回国会が招集され、午前中に第1次岸田内閣は総辞職。午後の内閣総理大臣指名選挙の結果、皇居での今上天皇による任命を経て第101代内閣総理大臣に就任し、第2次岸田内閣が発足。
2021年11月24日、訪日中のベトナム首相のファム・ミン・チンと国内で外国首脳と初めての会談となる日越首脳会談を行った。
2021年12月9日、岸田が任命した内閣官房参与(観光立国その他特命担当)の石原伸晃が自身が代表を務める党東京都第8選挙区支部が60万円の「雇用調整助成金」を受け取ったことで混乱を招いたなどとして辞職[79]。
2021年12月11日、衆議院議員宿舎を退去して、内閣総理大臣公邸に入居した。首相が公邸に入居するのは、野田佳彦以来、9年ぶりのことであった。当面は岸田と長男の翔太郎(当初は岸田文雄事務所の公設秘書だったが、2022年10月4日には政務担当の内閣総理大臣秘書官に起用[80])が暮らす。危機管理の強化を理由にしている[81]。
2022年1月17日、第208回国会(常会)が召集され[82]、岸田は、施政方針演説を行った。
2022年6月28日、ドイツでの第48回先進国首脳会議(エルマウサミット)閉幕後に会見し、2023年の第49回先進国首脳会議を5月19日から5月21日に広島市で開催すると正式表明した[83]。同年7月15日、閣議決定した[84]。
2022年7月8日、第26回参議院議員通常選挙の選挙運動中に元首相の安倍晋三が銃撃され死亡する事件が発生した[85]。これを受けて、岸田は「本日午後5時3分、安倍晋三元総理がお亡くなりになられました。どうか一命を取り留めていただきたいと祈っておりましたが、祈りも虚しく、こうした報に接することになってしまったこと、誠に残念であり、言葉もありません。心よりご冥福をお祈りしたいと思います。民主主義の根幹たる、選挙が行われている中、安倍(元)総理の命を奪った、卑劣な蛮行が行われた。断じて許せるものではなく、最も強い言葉で改めて非難を申し上げます」と官邸で発言した[86]。
同年7月10日、第26回参議院議員通常選挙の投開票が行われた。結果は自民、公明の与党が過半数を大幅に超える圧勝で、自民党は単独で過半数を確保した。安倍の「弔い合戦」として支持を高め、議席数が伸び、内閣支持率は回復した。
2022年7月14日に官邸記者会見で、閣議決定により安倍晋三の国葬を実施する事を表明した[87][88]。
参院選には勝利した岸田だったが、この事件をきっかけに、自民党と旧統一教会との関係が明かになり、旧統一教会問題が発生。5割近くあった支持率は3割前後にまで急落、メディアによる報道、批判が相次ぎ、岸田政権はこの問題への対応に迫られることになる。
2022年8月10日に、第2次岸田第1次改造内閣を発足させた[89]。
2022年8月21日、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)への罹患が報じられた。同月22日、オンライン形式で報道各社のインタビューに対し「療養を行いながらリモートで仕事を続ける。閣議にもオンラインで出席する。国政に遅滞が生じないよう全力を尽くす」と強調した上で、「内閣総理大臣公邸でテレワークにて公務を行う」とした[90]。同月31日に療養期間を終えた後、官邸に入り、対面での職務に復帰した[91]。
2022年9月27日、日本武道館にて故安倍晋三国葬儀を実施し、岸田は葬儀委員長として追悼の辞を述べた[92]。
2022年10月4日、自らの長男である31歳の岸田翔太郎を政務担当の内閣総理大臣秘書官に起用する人事を発令した[93]。この人事には「公私混同」として批判が噴出した。
2022年10月9日、三重県・鈴鹿サーキットで開催のF1日本グランプリ決勝レース前セレモニーに登壇[94]し、日本の現職首相で初めて日本のレースイベントに出席[94]。元F1ドライバーの衆議院議員山本左近の働きかけにより実現した[94]。
2022年12月8日、政府与党政策懇談会で、防衛費増額の財源として増税を行う方針を示した[95]。これに対し、与党や閣僚である高市早苗経済安全保障担当大臣からも反対論が噴出した[96]。
2022年12月16日、防衛力強化のための新たな国家安全保障戦略及び防衛力整備計画が閣議決定され、敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有が決定された。さらにアメリカ製のトマホークミサイルの配備を目指すことも決定された。
2022年12月23日、改正公職選挙法が28日に執行されるのを前に自民党は72選挙区で第50回衆院選の公認候補者が決定され、自らは新広島1区の支部長に就任した [97]。
2023年1月4日、年頭会見で2023年の重点政策として「異次元の少子化対策に挑戦する」と表明した[98]。 これは前年の「防衛増税」に対する批判が相次ぎ、支持率が低下していたことに対する打開策となった。
同年3月21日、2022年ロシアのウクライナ侵攻以降緊張状態が続いているウクライナを電撃訪問した。その後岸田はキーウにてウクライナ大統領ゼレンスキーと首脳会談を行った。内閣総理大臣が戦地を訪問するのは、第二次世界大戦後では初めて[99]。
同年4月15日、衆議院和歌山県第1区補欠選挙応援のため和歌山市の雑賀崎漁港を訪れ、魚の試食をしていたところ鉄パイプ爆弾を投げ込まれる襲撃を受けた[100]。投げ込まれた物は爆発したが、岸田は無事で現場を車で離れた。岸田は雑賀崎での演説を中止し、その後、和歌山県警察本部に移動したものの[101]、午後には和歌山駅前で演説を行い、「私たちの国にとって大切な選挙は最後までやり通さなければならない」と述べた[102]。
同年5月8日、新型コロナウイルス感染症 (2019年)の位置付けを2類感染症から5類感染症に引き下げた。これにより約3年間続いたコロナ禍にようやく終止符が打たれ、コロナ禍以前の経済活動等が本格的に再開し始める。
同年5月19日から21日にかけて、広島市で第49回先進国首脳会議(G7広島サミット)が開催された。日本は議長国として会議を取りまとめた。サミットの成功は岸田の外交力の評価を高め、低迷していた支持率は4割5分にまで回復した。 しかし、24日には長男翔太朗の不祥事が発覚、再度支持率は低下した。
同年6月13日、「異次元の少子化対策」として児童手当の所得制限を撤廃、支給期間を高校生にまで延長することを決定した。一方でその代わりとして扶養控除の廃止案が出るなどし、「異次元」ではないとして批判が相次いだ。
同年9月13日、第2次岸田第2次改造内閣を発足させた[103]。
同年10月20日、第212回国会(臨時国会)が召集された。23日に岸田は所信表明演説を行い、「経済、経済、経済、私は、何よりも経済に重点を置いていきます」と演説した。岸田は物価上昇に賃金の上昇が追い付いていないことで、物価高に苦しむ国民をサポートするために所得税減税を打ち出した。しかし、より国民生活に影響を与える消費税の減税については否定し、更に実施が2024年6月の予定と遅いこと、内閣で不祥事が次々起こる等、減税政策による支持率回復は失敗し、衆議院の解散を見送った。
同年12月7日、党内の派閥による政治資金パーティー収入の裏金化疑惑を受け、総理大臣在任中は宏池会を離脱すること表明した[1]。自民党の総理大臣は在任中派閥を離れることが慣例とされていたが、岸田は総理就任後も宏池会会長にとどまっていた[104]。岸田の後任の会長は置かず、空席とする[105]。その後、2024年1月23日、宏池会は臨時総会(岸田は出席せず)で派閥の解散を決定している[2]
1月1日、能登半島地震が起こったことに伴い、関係省庁に対し被災状況の迅速な把握と救命・救助を指示した[106]。
1月2日、能登半島地震への対応のため4日に予定していた伊勢神宮参拝の延期を発表した[107]。
1月14日、能登半島地震による被災状況視察のため、石川県を訪問した。石川県輪島市の輪島分屯基地で部隊を激励し、同市内の避難所の視察を行った後、上空からの視察を行い、その後、珠洲市の避難所を視察、石川県庁で石川県知事の馳浩から要望書を受け取り、意見交換を行った[108]。
1月18日、政治資金問題への対応として、岸田派(宏池政策研究会)の解散を検討する意向を表明した[109]。
1月30日、衆議院・参議院それぞれの本会議において、施政方針演説を行った[110]。
2月5日、訪日中のジョルジャ・メローニイタリア共和国首相と会談、ワーキング・ディナーを行った[111]。
2月8日、公式実務訪問賓客として訪日中のウィリアム・ルトケニア共和国大統領と会談、ワーキング・ディナーを行った[112]。
2月16日、訪日中のビシェル・アル=ハサーウネヨルダン首相と会談、ワーキング・ディナーを行った[113]。
2月19日、日・ウクライナ経済復興推進会議への出席のため訪日中のデニス・シュミハリウクライナ首相と会談を行った[114]。
2月24日、能登半島地震の被災地を再訪。大きな被害を受けた石川県穴水町を訪れた[115]。
2月28日、熊本県菊陽町の台湾積体電路製造(TSMC)の日本第1工場の開所式にあたり、第2工場への最大7,320億円の支援を発表した[116]。
3月11日、公賓として日本を訪問中のアルムタデー・ビラブルネイ・ダルサラーム国皇太子兼首相府上級大臣と会談を行った[117]。
3月13日、総理大臣官邸でマーシャル諸島共和国大統領のヒルダ・ハイネと首脳会談を行った[118]。
4月8日午後(日本時間9日午前)、日米首脳会談などに参加するため、米国・ワシントンD.C.に到着した[119]。10日午前10時50分(日本時間10日午後11時50分)から同地で、米国大統領ジョー・バイデンと会談を行った[120]。11日午前(日本時間12日未明)、ワシントンの米議会の上下両院合同会議で「未来に向けて〜我々のグローバルパートナーシップ〜」と題して演説した[121]。同日午後4時20分(日本時間12日午前5時20分)から、バイデン及びフィリピン大統領フェルディナンド・マルコスとの間で日米比首脳会合を行った[122]。
4月14日、本年のG7議長国であるジョルジャ・メローニイタリア首相の主催により行われた、イランのイスラエルへの攻撃に関するG7首脳テレビ会議に出席した[123]。
8月14日、総理大臣官邸で記者会見を行い、同年9月に行われる自由民主党総裁選挙に立候補しないことを表明した[124]。理由として任期中に表面化した政治資金パーティー収入の裏金問題など国民の政治不信を招き、内閣や党の支持率が低迷している状況を挙げ「自民党が変わることを国民の前にしっかりと示すことが必要だ。変わることを示す最も分かりやすい最初の一歩は私が身を引くことだ。来たる総裁選挙には出馬しない」とした。これにより、総裁任期満了とともに新総裁が決まり次第首相や内閣が退陣する事が事実上決定した[125]。
首相に就任して一年となった2022年10月4日に長男を政務担当の内閣総理大臣秘書官に起用した。その長男が同年の年末に首相公邸に親族を招いて忘年会を開いた。その親族が会見台でピースサインをしたり、内閣の閣僚が就任時に記念撮影を行うひな壇で長男が総理大臣の位置に立って内閣就任時のような写真を撮影するなどした。翌年5月にこの問題がマスコミに知られて大きく報道された。5月26日に岸田はマスコミには「本人に厳重注意した」と説明した。しかし3日後の5月29日には一転、「けじめをつけさせるために前任者と交代させる」と発表、6月1日付で長男の秘書官は辞任した。
2022年9月27日、故安倍晋三国葬儀を挙行[215]。国葬に際して岸田は国際エネルギー機関のファティ・ビロル事務局長やアメリカのカマラ・ハリス副大統領などの要人と面会し、弔問外交を展開した[216]。また、この国葬については内閣府設置法に基づく閣議決定で「国の儀式」として実施することとしたが、立憲民主党などから「法的根拠がない」との追及を受けた[217]。同年10月5日、岸田は衆議院本会議において国葬の実施に関して一定のルールを設ける考えを示した[218]。
選択的夫婦別姓や同性婚制度の導入に消極的[232]。総裁選前は女性差別や性的少数者差別問題にリベラルな考えを表していたが[233]、首相就任後は、2015年に安倍首相が行った「わが国の家族のあり方の根幹に関わる問題であり、極めて慎重な検討を要する」と同様の答弁を繰り返している[234][235][236]。
2023年2月1日、選択的夫婦別姓や同性婚制度に関し「制度を改正すると、家族観や価値観、社会が変わってしまう」「社会全体の雰囲気に思いを巡らせた上で判断することが大事だ」と述べ、改めて消極的な姿勢を示した[237][234]。LGBTなど性的少数者への理解増進を図る法案についても、「極めて慎重に検討すべき課題だ」と述べた[232]。ただし、同月荒井勝喜秘書官がLGBTに差別的な発言をした事が報じられると即座に更迭している。
2023年10月20日に開会した臨時国会に、閣僚など特別職国家公務員の給与を上げる法案、「特別職の職員の給与に関する法律」が提出された[264]。法案によると、人事院勧告を受けて一般職の国家公務員の給与を引き上げるのに合わせ、首相や閣僚、副大臣ら特別職の国家公務員の給与も改定[264]。各月額給与は、首相が201万6000円(6000円増)、閣僚が147万円(4000円増)、副大臣が141万円(同)、大臣政務官が120万3000円(同)となる[264]。月給以外にボーナスも上がり、2023年4月にさかのぼって引き上げられる[265]。
同年11月8日、改正案は衆院内閣委員会で審議入りした[266]。一般職の国家公務員の給与引き上げに合わせ、会計検査院長や人事院総裁らの給与増額とともに、首相は月給とボーナスを合わせて年間46万円、閣僚は年間32万円増やす内容だった[267]。2022年度までの首相の給与は4015万円、閣僚の給与は2929万円だったのが、2023年度からは4061万円、閣僚は2961万円に上がる[267]。
同年11月11日、日本維新の会の音喜多駿議員からの「国民からはどう見えますか? 賃上げも追い付いていない、社会保険料の負担はきつい。そのなかで国民を差し置いて、総理は給与アップで。月給だけで年間7万2000円です。なんと経済対策で給付される金額よりも多いわけです。これは到底、国民の多くの理解は得られません」という追求に対し、岸田は「これは不信を招かないようにしなければなりません。内閣として行財政改革を引き続き推進する観点から、内閣総理大臣3割、国務大臣2割を国庫へ返納する。これを申し合わせをしてきているところでありまして、例えば給与についても内閣総理大臣、年間46万円上がるとしても返納額は1218万円であります。国務大臣も引き上がりが32万円だとしても返納額は592万円であります」と述べた[268]。
同年11月14日、岸田文雄首相や閣僚らの給与を引き上げる法案が、衆院本会議で自民、公明、国民民主の3党の賛成多数で可決された[269]。法案が参院で成立すれば、連動して国会議員のボーナスも年37万4千円上がる[269]。
「正姿勢」とは、宏池会の設立者・池田勇人が陽明学者の安岡正篤から「低姿勢、高姿勢いずれも間違いだ。自分の政治哲学を持っていれば、おのずから『正姿勢』(正しい姿勢)になる」と助言された言葉である[275]。岸田は宏池会で語り継がれてきた「正姿勢」の助言を聞き入れ、信条としている[276]。平凡社『世界大百科事典』第2版によると、かつて正しい姿勢とは軍隊式の直立不動をいうものであったが、現代社会においては、もっと自然で安楽な姿勢で直立することが基本となっている[277]。安岡正篤は全国師友協会から『日本の機微 低姿勢より正姿勢へ』という題名の文書を刊行している[278]。
2017年第195回国会衆議院本会議の代表質問において、岸田は首相の安倍に「正姿勢」の話を質問の最後に演説した[29]。与党自民党議員は岸田の質問途中から相次いで離席していた[275]。野党は岸田へ拍手を送った[279]。演説後、着席までの25秒間、岸田は万雷の拍手を受けた[280]。政治評論家の杉浦正章は、岸田の演説を池田勇人の低姿勢からの脱皮と評価した[280]。
昭和三十五年、岸信介総理から政権を引き継いだ池田勇人総理が、みずからの政治姿勢として寛容と忍耐という内閣のスローガンを提唱した際、それが低姿勢と受け取られ、責任ある政権の姿として疑問が指摘された、こういったことがありました[注釈 7]。これについて、陽明学者であり、池田総理の心の師であった安岡正篤氏は、低姿勢、高姿勢、いずれも間違いである、自分の政治哲学をはっきり持っていれば、おのずから正姿勢、正しい姿勢になると助言したと言われています。相手の顔色を見て右顧左べんするようでは、国民への責任を果たすことはできません。同時に、野党や国民に上から目線で臨むようでは、国民の信を失い、真っ当な政治を行うことはできません。総選挙において多くの議席をいただいた今こそ、正姿勢、三文字を胸に、公約実現のため、日々前進してまいりたいと存じます。結びに当たり、思いの一端を申し上げ、私の質問といたします。 — 岸田文雄、第195回国会 衆議院本会議 第5号(平成29年11月20日(月曜日))
岸田は公式アカウントとしてwebサイトの他、X、Facebook、Instagram、YouTube、LINEを開設している[347]。
2021年自由民主党総裁選挙に出馬した際には、インターネット上で意見を募る意見ボックス(通称、岸田ボックス)を開設し[348]、ツイッター上で意見や回答を発信した[349]他、家族とともにインスタグラムのライブ配信を実施した[350]。岸田ボックスで、当時地上波で放送された「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」に関連し、「鬼滅の刃」で一番好きなキャラクターを問われ、岸田が「猗窩座」である旨を返答した際にはインターネット上で話題となり、猗窩座のセリフに見立てた「おまえも自民党員にならないか?」といったコメントが寄せられた[351]。
(広島県東広島市志和[13]、大連市、広島市南区比治山町、東京都渋谷区)
当落 | 選挙 | 執行日 | 年齢 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 | 定数 | 得票順位 /候補者数 | 政党内比例順位 /政党当選者数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
当 | 第40回衆議院議員総選挙 | 1993年 7月18日 | 35 | 旧広島1区 | 自由民主党 | 12万7721票 | 20.99% | 4 | 1/8 | / |
当 | 第41回衆議院議員総選挙 | 1996年10月20日 | 39 | 広島1区 | 自由民主党 | 6万4709票 | 44.06% | 1 | 1/7 | / |
当 | 第42回衆議院議員総選挙 | 2000年 6月25日 | 42 | 広島1区 | 自由民主党 | 8万5482票 | 55.14% | 1 | 1/3 | / |
当 | 第43回衆議院議員総選挙 | 2003年11月 9日 | 46 | 広島1区 | 自由民主党 | 8万4292票 | 55.52% | 1 | 1/3 | / |
当 | 第44回衆議院議員総選挙 | 2005年 9月11日 | 48 | 広島1区 | 自由民主党 | 10万7239票 | 57.29% | 1 | 1/4 | / |
当 | 第45回衆議院議員総選挙 | 2009年 8月30日 | 52 | 広島1区 | 自由民主党 | 9万5475票 | 47.34% | 1 | 1/6 | / |
当 | 第46回衆議院議員総選挙 | 2012年12月16日 | 55 | 広島1区 | 自由民主党 | 10万3689票 | 63.51% | 1 | 1/4 | / |
当 | 第47回衆議院議員総選挙 | 2014年12月14日 | 57 | 広島1区 | 自由民主党 | 9万6236票 | 65.73% | 1 | 1/4 | / |
当 | 第48回衆議院議員総選挙 | 2017年10月22日 | 60 | 広島1区 | 自由民主党 | 11万3239票 | 77.96% | 1 | 1/2 | / |
当 | 第49回衆議院議員総選挙 | 2021年10月31日 | 64 | 広島1区 | 自由民主党 | 13万3704票 | 80.67% | 1 | 1/4 | / |
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