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日本のシンガーソングライター、俳優 (1956-) ウィキペディアから
長渕 剛(ながぶち つよし、本名:同じ、1956年〈昭和31年〉9月7日 - )は、日本のシンガーソングライター[3][4]。俳優 。Office REN(オフィス・レン)所属。
長渕 剛 | |
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基本情報 | |
出生名 | 長渕 剛 |
別名 | 長渕 剛(ながぶち ごう) |
生誕 | |
出身地 | 日本 鹿児島県鹿児島市 |
学歴 | 鹿児島県立鹿児島南高等学校情報処理学科卒業 |
ジャンル | |
職業 | |
担当楽器 | |
活動期間 | 1977年 - |
レーベル |
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事務所 | Office REN(オフィス・レン) |
共同作業者 | 瀬尾一三 |
公式サイト | 長渕剛 OFFICIAL WEB SITE <LIVE ON> |
1977年、シングル『雨の嵐山』でビクター・レコードからデビュー。「乾杯」「とんぼ」「しあわせになろうよ」など、多数のヒット曲があり、『家族ゲーム』『親子ゲーム』『とんぼ』『RUN』などのテレビドラマや『オルゴール』『ウォータームーン』『英二』などの映画に主演し俳優としても知られる。
使用ギターはレコーディングではギブソン製(J-45、J-200等)、ライブではタカミネ製(NTP-012、TDP-512、TDP-515-6等)のエレアコを主に使用する。使用ハーモニカ(ブルースハープ)はTOMBOの「メジャーボーイ」。現在一般的なハーモニカホルダーの形(テンホールズハーモニカ専用で、ハーモニカをセットする部分が狭くなっている)は彼が考案したものとのこと[40]。
その時その時の人生をなすりつけたのが自身の音楽であるとしており、「30代での被害者意識も、その後の自責の念も、そのまま全部歌にしてきた」「つまり、己の弱さを歌にしてきたようなものだ。その弱さを歌に叩きつけ、そこから這い上がるためにさらに歌を書いていく。あとはお前ら聴く側が自由に受け止めてくれ!というのが長渕剛の音楽だ」という[41]。
「JAPAN」「家族」の歌詞には生まれ育った日本への愛や先行きへの憂い、日の丸への敬意が込められている。ライブでも日の丸を掲げたり、ファンが日の丸を振ったりする光景が見られている。これについて長渕は「父母や兄弟、仲間を思う気持ちが日本を思う気持ち。僕が一時期、日の丸にこだわったのはそれです」「僕が回帰するのは母の土手っ腹から流れた血ですね。それが日の丸の赤です」と話している[42]。
2012年に開催されたアリーナツアー『Stay Alive』では「親知らず」の途中で国歌「君が代」を10,000人もの観客と共に歌った[45]。
上述にもある通り日本および自衛隊や特攻隊の若者が強いられた矛盾に寄り添ったうえで反戦や平和を訴えている[46]。
鹿児島県警の警察官の父親(長渕邦治)と母親(マス子)の次男として、警察官舎の長屋が当時あった日置郡伊集院町徳重(現在の日置市伊集院町徳重)で生を受け、長屋から徒歩の母に抱っこされ徳重神社へお詣りした。兄(邦人)がいたが、生後100日程度の乳児期に病死しており、5歳年上の姉との2人姉弟だった。子供のころのあだ名は「レオン」。出生後まもなくインフルエンザで生死の境をさまよっていた。その後、日置郡上伊集院村大字直木(現在は同郡松元町を経て鹿児島市直木町)で暮らし、茶畑で遊んだり虫取りをしたりと自然豊かな環境で3歳まで育った。幼い頃は体が非常に弱く、よく喘息発作を起こし、病院通いが欠かせなかった。音楽が楽しみで、同郷の吉田拓郎、加川良、友部正人、遠藤賢司、高田渡等のフォークソングを好んで聴いていた。中学3年の正月に3600円のガット・ギターを購入し、鉄弦を張り思いのままに好みの楽曲をコピーしていた。鹿児島南高校の情報処理科の2期生として入学し、伊敷町から自転車で1時間近くかけて通っていた。最初のうちは成績も良かったが、徐々に落ちていき、卒業するころには、下から数えた方が早い成績まで落ちたという。上京後、初めて住んだ場所は、世田谷区の新代田のアパートである(このことは、自身も後に楽曲の中で歌詞にしている)。
1981年8月、石野真子と結婚。結婚式はハワイの教会で、仲人は吉田拓郎と浅田美代子夫妻(当時)だった。1978年当時、福岡県北九州市のライブハウスに飛び入りで現れた際、ステージのMCで、「俺は将来、石野真子を嫁さんにする」と発言していたが、様々な見解の相違を表面化させ、長渕のDVや長渕の母との確執などが理由[47]で1983年5月に離婚[7]。
1987年8月29日に『親子ゲーム』(1986年)、『男はつらいよ 幸福の青い鳥』(1987年)で共演した志穂美悦子と再婚[48]。『親子ゲーム』の撮影中に志穂美が左手小指の付け根を骨折し、病院に向かう志穂美に長渕が付き添ったことが馴れ初めだった[48]。入籍のみで済ますつもりだった長渕だが、初婚である志穂美は「芸能人としてでなく、普通の人としてひっそり式を挙げたい」という希望から、9月17日に志穂美の師匠・千葉真一が修行した寺の近くにある奈良県吉野郡天川村の天河大弁財天社にて、双方の両親と親しい知人のみ出席して挙式[49]。志穂美は長渕の強い意向で芸能界を引退し、「クセのある男なので専業主婦したい」とこれ以降は芸能活動を行っていない[50]。1988年3月17日に長女・文音を授かったのを皮切りに、2男1女を授かった。結婚後、妊娠中の志穂美にもDVを振るっていたことが週刊誌に取り沙汰されたが[7]、出産後は極真空手の経験者だった志穂美がある程度やり返すようになり、敵わないと悟った長渕は空手道を稽古するようになった[51]。ちなみに志穂美の格闘技のキレは2023年で68歳になる年齢になっても「キレがある」「長渕よりも強そう」と言われたほどの凄さを持つ[52]。なお、自身の息子(長男)も空手を嗜んでおり、ユースでは国内トップレベルの選手とのこと[53]。
1995年1月24日に、覚せい剤取締法違反容疑で内偵を進めていた警視庁薬物対策課による家宅捜索を受け[18]、大麻1グラムが自宅から発見された[18]。長渕は大麻吸引を認め、その場で大麻取締法違反で現行犯逮捕されたが、覚醒剤については否認し尿検査も陽性反応が出なかった[18]。この事件の捜査過程で、国生さゆりと不倫していたことも明るみに出て[18][出典無効]、国生には記者会見で「薬物に対する(国生の)身の潔白と、長渕との関係も志穂美を交えて話し合い、関係を清算した」と発表されるなど歌手生命の危機に陥るも、志穂美の内助の功を得て復帰[18]。その後は度々トーク番組やバラエティー番組に出演するようになった[18]。
のちに波乱万丈だった30代の頃を 「お金にまつわることや、まぁよくいる利権として群がる輩たち。具体的には話さないが、騙された。あの時期、裏切られたこと、たくさんあったな!はらわたが煮えくりかえるほど人を恨んだこともあった。信頼する人間に欺かれると、自分のすべてをはぎ取られたように自暴自棄になる。でも、しばらく経つと、思うんだ。裏切る人間を近くに置いたのは誰よ?とね。俺が選んだんじゃねえか!って。若い時にヒット曲が生まれて、周りに人がたくさん集まってくると、自分が特別に思えてしまう。有頂天になる。人生に勝った気分になって、猿回しの猿のような己に気付かない。そんな、どこまでも天狗になった自分の鼻をバーン!と蹴り折られたのが30代だったのかもしれない」「裏切った奴と街でばったり出会った時に、よっ、久しぶり!貴様!元気か?と笑える、本当の意味で強い人間になりたいと思った」と回想している[41]。
2008年に長渕は事務所スタッフに暴行を働き辞められていたが[7]、2014年3月には元マネージャーから暴行による約200万円の賠償請求する訴えを起こされた[17]。これについて長渕の代理人弁護士は「事実無根」と反論している[17]。長渕は2003年にパーソナリティを務める『オールナイトニッポン』で学校で暴力を振るってしまった、という高校生リスナーからのメールに答える形で「殴った自分が正しいと思えればいいんじゃないか。我慢ならない時、あまりにもひどいじゃないかという時、俺は一発やっていいと思う。これは『肉体言語』だよ。『暴力』じゃないの。ただし、要は殴り方なんですよ。俺も時として『肉体言語[注釈 2]』がポーンと出ることはあるよ。でも反省はしてないし」と持論を展開している[17]。一方で「これが国単位の集合体の話になってくると、全然話が違う。たとえば軍隊とか軍事。そうした国家レベルの戦争の話と、僕らの身近な足元に転がっている暴力の話は、まったく論点が違うんですよ。それらを混同して、一緒くたにしてしまうと、非常におかしなことになる」とも発言している[54]。
酒に弱く一切飲まず、このことを語っている楽曲もいくつか存在する。以前は喫煙者であったが、50代に差しかかってから筋トレで禁煙・肉体改造を成功させ、今までの生活習慣などを規則正しくした[18]。肉体改造などを行ったことについてはライブツアー期間中に体調を崩したことが影響しており、「自己流では、俺自身が理想とする音楽活動、ステージパフォーマンスはできない!体力的にも、見栄えも。かっこいい衣装を探す前に、優秀なスタイリストに頼む前に、己の身体を作るのが先だ!そう確信した」としている[41]。自宅には高度なトレーニングマシンがあるという。全国ツアーにも同行するパーソナルトレーナーは元PRIDE王者の三崎和雄で、後楽園ホールで行われた三崎の現役引退セレモニーでは、リング上で長渕が「STAY DREAM」を熱唱した間柄[55][56]。岩村明憲[57]、朝青龍[58]、倉本聰[59]、渡哲也[60]、白川由美[61]、冨永愛[62]らと交流があり、岩沢厚治、押尾コータロー、福山雅治、桜井和寿、般若、Zeebraらも長渕の音楽性に影響を受けたという[40]。また、井上公造とは、大学時代の同じバイト仲間であり交友がある[63]。
年 | 形態 | タイトル | 公演規模・会場・セットリスト | 収録作品 |
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1979年 | コンサートツアー | 長渕剛コンサートツアー'79 | - | |
1980年 - 1981年 | コンサートツアー | 長渕剛コンサートツアー'80 | 36都市全38公演
1980年 |
アルバム『長渕剛LIVE』 |
1981年 | コンサートツアー | 長渕剛LIVE'81 | 41都市全43公演
3月3日 渋谷公会堂 |
- |
コンサートツアー | 長渕剛 CONCERT TOUR'81 | 44都市全44公演
9月25日 那覇市民会館 |
- | |
1982年 | コンサートツアー | 長渕剛 CONCERT TOUR'82 | 全51公演
2月6日 沖縄市民会館 |
- |
1982年 - 1983年 | コンサートツアー | 長渕剛 CONCERT TOUR'82 - '83 時代は僕らに雨を降らしてる | 42都市全47公演
1982年 |
- |
1983年 | 単発コンサート | SUPER LIVE IN 西武球場 |
全21曲
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アルバム『SUPER LIVE IN 西武球場』 ビデオ『SUPER LIVE IN 西武球場』 |
1983年 - 1984年 | コンサートツアー | LIVE'83 - '84 JUST HEAVY GAUGE | 41都市全47公演
1983年 全20曲
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- |
1984年 | 単発コンサート | ファンクラブ会員限定LIVE | 全10公演
全15曲
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- |
1984年 - 1985年 | コンサートツアー | LIVE'84 - '85 HOLD YOUR LAST CHANCE | 35都市全41公演
1984年 全17曲
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- |
1985年 | コンサートツアー | LIVE'85 - '86 HUNGRY[注釈 3] | 52都市全62公演
1985年 |
ビデオ『HUNGRY TOUR 1986.1.22 THE 4DAYS LIVE』 ビデオ『明日へ向かって 1985-1986 長渕剛の記憶』 |
1986年 - 1987年 | コンサートツアー | LIVE'86 - '87 STAY DREAM | 11都市全11公演
全17曲
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- |
1987年 | コンサートツアー | LIVE'87 LICENSE | 18都市全20公演
全17曲
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ビデオ『LICENSE』 |
1988年 | コンサートツアー | LIVE'88 NEVER CHANGE | 18都市全20公演
全21曲
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シングル「とんぼ」B面 シングル「激愛」B面 |
1989年 | コンサートツアー | LIVE'89 昭和 | 24都市全32公演
3月29日 豊田市民文化会館 |
アルバム『長渕剛LIVE'89』 |
1990年 - 1991年 | コンサートツアー | LIVE'90 - '91 JEEP | 32都市全42公演
9月22日 山梨県民文化ホール |
ビデオ『カラス LIVE from '90 - '91 JEEP TOUR』 |
1992年 | コンサートツアー | LIVE'92 JAPAN | 16都市全20公演
全23曲
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シングル「巡恋歌'92」カップリング ビデオ『LIVE'92 "JAPAN" IN TOKYO DOME』 アルバム『いつかの少年』 |
1993年 | コンサートツアー | LIVE JAPAN'93 | 30都市全45公演
2月14日 愛媛県民文化会館 全20曲
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シングル「RUN」カップリング ビデオ『白の情景』 アルバム『いつかの少年』 |
1994年 | コンサートツアー | LIVE'94 Captain of the Ship[注釈 5] | 4都市全4公演
9月9日 山形市総合スポーツセンター 全15曲
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ビデオ『LIVE "Captain of the Ship"』 |
1995年 | コンサートツアー | LIVE'95 ACOUSTIC ROAD Just Like A Boy | 9都市全9公演
全18曲
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シングル「傷まみれの青春」カップリング ビデオ『LIVE "いつかの少年"』 アルバム『LIVE COMPLETE '95〜96』 |
1996年 | コンサートツアー | LIVE'96 KAZOKU | 10都市全14公演
全15曲
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アルバム『LIVE COMPLETE '95〜96』 |
1997年 - 1998年 | コンサートツアー | LIVE'97 - '98 ふざけんじゃねぇ | 16都市全27公演
1997年 全16曲
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ビデオ『LIVE'97-'98 "ひまわり"』 シングル「指切りげんまん」カップリング シングル「猿一匹、唄えば侍」カップリング |
1998年 - 1999年 | コンサートツアー | LIVE'98 - '99 SAMURAI[注釈 6] | 6都市全9公演
1998年 全18曲
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シングル「涙のセレナーデ」カップリング |
2000年 | 単発コンサート | LIVE ONLY 2X2 an unplugged |
全19曲
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ビデオ『LIVE ONLY 2×2 an unplugged』 |
2001年 | コンサートツアー | LIVE 2001 空/SORA | 21都市全26公演
10月3日 神戸国際会館 全21曲
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DVD『JAPAN TOUR LIVE 2001-2002 "空/SORA"』 |
2002年 | コンサートツアー | LIVE 2002 空/SORA in ARENA TOUR | 5都市全8公演
全15曲
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DVD『JAPAN TOUR LIVE 2001-2002 "空/SORA"』 |
単発コンサート | LIVE 2002.9.7 IN 横浜スタジアム |
全29曲
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DVD『9.7 in 横浜スタジアム LIVE 2002』 |
* は主題歌を歌った。
主演は太字。
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