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伊勢国

近国に属する令制国の一つ ウィキペディアから

伊勢国
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伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。

概要 伊勢国, 別称 ...

「伊勢」の名称と由来

諸説があり未だ定説はない。谷川士清は『和訓栞』に、「いせ」は「五十瀬(いそせ)」の転訛であるとの説を立てた。また、海に近いことから「(いそ)」が転じたとする説もある。または「伊呂勢(弟の意)」であり、出雲の分派としての機能から発達したという説がある。

表記例としては、「伊国」も見られる(『続日本紀天平勝宝4年10月8日条)。

領域

明治維新直前の領域は、現在の下記の区域に相当する。

沿革

要約
視点

日本書紀』などの倭姫命伝説では美し国(うましくに)と称された。

『伊勢国風土記』逸文によると、神武東征の際に派遣された天日別命が、国津神(土着の勢力)の伊勢津彦(イセツヒコ)を追放して伊勢平定を復命し、これを喜んだ神武天皇が神の名「イセ」にちなんで命名したとされる。大和政権の勢力がこの地域にまでおよんだことを神格化したものと考える説がある[1]

宝賀寿男は、伊勢津彦後裔の国造一族の動向から、弥生時代後期に神武天皇の勢力に追われて東国へ逃れた神狭命の史実がその実態であると主張した[2]。なお天日別命は伊勢国造になったとされる。

7世紀孝徳天皇の時代に、島津国造伊賀国造、佐那県造、度逢県造、川俣県造、壱志県造、飯高県造、阿野県造の領域も含んだ伊勢国造の領域を中心に成立した。

天武天皇9年(680年)7月に伊賀国を分置した。

8世紀はじめまでに志摩国を分立したが、その正確な時期は不明である。分立当初、熊野灘に面した沿岸部(現在の南伊勢町にあたる地域)は志摩国に属していたが、天正10年(1582年)、伊勢国司北畠信雄と紀伊新宮城主の堀内氏善が荷坂峠を境として、伊勢国度会郡と紀伊国牟婁郡に編入したため、志摩国は現在の鳥羽市志摩市だけの地域となった。

近世以降の沿革

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国内の施設

要約
視点
概要 全ての座標を示した地図 - OSM ...

国府

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長者屋敷遺跡(伊勢国府跡)
三重県鈴鹿市

和名抄』によれば伊勢国府鈴鹿郡に所在した[3]奈良時代中ごろの国府(前期国府)は長者屋敷遺跡(鈴鹿市広瀬町・西富田町、北緯34度53分3.85秒 東経136度29分50.47秒)とされ[4]、同地は「伊勢国府跡」として国の史跡に指定されている[5]。発掘調査では政庁および官衙の遺構が発見されているが、国府としての整備は未完成のまま機能を終えたと見られる[6]

初期国府・後期国府(奈良時代前期、奈良時代後期-平安時代)に関しては、鈴鹿市国府町付近にある可能性が非常に高いとされる[4]。同地では三宅神社遺跡・天王山西遺跡などで関連遺構が見つかっているが、中心施設は未だ検出されていない[6]

国分寺・国分尼寺

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  • 伊勢国分寺跡(鈴鹿市国分町、北緯34度54分33.46秒 東経136度33分49.92秒
    国の史跡。鈴鹿郡の国府跡から東に約7キロメートル離れ、河曲郡に属する。推定寺域は約180メートル四方で、金堂・講堂・中門・僧坊といった主要伽藍の遺構が見つかっているが、塔跡は見つかっていない[7]。古代寺院跡近くにある常慶山金光明院国分寺(鈴鹿市国分町)のほか、明星山国分寺(亀山市白木町新田)、護国山人生尹丸刀院国分寺(松阪市伊勢寺町)が法燈を伝承する。
  • 伊勢国分尼寺跡
    未詳。鈴鹿市国分町の集落部分に位置する国分遺跡と推定されるが、詳らかではない。発掘調査では、寺域区画と推測される溝・掘立柱塀が発見されている[7]

なお国分寺跡・国分尼寺跡そばでは、白鳳寺院の遺構である南浦廃寺跡(大鹿廃寺跡)や、河曲郡衙跡(狐塚遺跡)の立地が知られる[7]

神社

延喜式内社

延喜式神名帳』には、大社18座9社・小社235座223社の計253座232社が記載されている(「伊勢国の式内社一覧」参照)。大社9社は以下に示すもので、そのうち2社は名神大社である。

総社一宮以下

『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[3]

なお、都波岐神社(鈴鹿市一の宮町)に関しても『大日本国一宮記』を基に一宮とする説が知られる。しかしこれは、椿大神社に関して「椿宮」を「チングウ」と読まれないように「椿宮<都波岐神社>」と記されたのが、都波岐神社との混同を招いたことによるとされる[3]

安国寺利生塔

  • 總見寺 - 愛知県名古屋市中区大須。
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地域

要約
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江戸時代の藩

さらに見る 藩名, 居城 ...
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人物

要約
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国司

伊勢守

伊勢介

室町時代伊勢国司

室町幕府成立後も、南朝の重臣北畠親房の子孫が伊勢国司となって南伊勢に勢力を誇り、北伊勢を治める幕府守護と対立した。5代国司(伊勢北畠家としては4代)北畠教具の代に幕府と和睦し、伊勢守護も兼ねるようになった。

武家官位としての伊勢守

江戸時代以前

江戸時代

守護

鎌倉幕府

室町幕府

志摩国守護も兼任。

戦国時代

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伊勢国の合戦

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脚注

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参考文献

関連項目

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