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1992年の阪神タイガース
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1992年の阪神タイガース(1992ねんのはんしんタイガース)では、1992年の阪神タイガースにおける動向をまとめる。
この年の阪神タイガースは、中村勝広監督の3年目のシーズンである。
概要
要約
視点
過去2年がいずれも最下位の中村阪神は、この年も最下位の予想が大多数を占め、下馬評は芳しくなかった。かつて猛打を誇った打線は、長年主力を務めてきた岡田彰布と真弓明信に衰えが見え始め、来日2年目のトーマス・オマリーと大洋を解雇され入団したジェームス・パチョレック以外は目立った好材料がなかった。一方で、前年のチーム防御率がリーグ唯一の4点台だった投手陣も前評判は低かったが、前年9月に中込伸、湯舟敏郎、野田浩司、猪俣隆、葛西稔のドラフト1位投手5人で5連続完投勝利を演じたことに加え、本拠地阪神甲子園球場のラッキーゾーンが撤去されたことで、中村監督は投手中心の守りの野球への転換に手応えを感じていた。
ヤクルトとの開幕2連戦を1勝1敗で終え、続く巨人との3連戦の緒戦も先発の仲田幸司が好投しながら敗れ、この年も低迷ムードが漂う中、中村監督は翌日の試合で5年目の亀山努をスタメンに起用。亀山は2安打を放ち起用に応え、チームは4点差を逆転して勝利し、翌日の試合も勝ちカード勝ち越しを決め、亀山はスタメンに定着する。チームは4月を2位で終え、5月も好調をキープするが、20日にオマリーが怪我で戦列を離脱。26日、オマリーの代役としてこの日一軍に昇格した3年目の新庄剛志が最初の打席でプロ初本塁打を放ち、そのリードを仲田が完投で守り勝利。この年のキャンプでスライダーを習得し、課題の制球難を克服した仲田は5月までに7勝を挙げエースに成長、さらに中込も6月2日の広島戦で8回まで無安打の好投を見せ、開幕投手を務めた葛西も初めて首位に浮上した6月9日の中日戦でプロ初完封を記録し、そして湯舟が6月14日の広島戦でノーヒットノーランを達成し、ストッパーに起用された2年目の田村勤、中継ぎでフル回転の新人弓長起浩らとともに強力な投手陣を形成した。一方で打線は、オマリー不在ながらパチョレックに加え、この年から選手会長になった和田豊、この年外野にコンバートされた八木裕、新人ながら開幕から遊撃を守る久慈照嘉そして亀山、新庄と若手が台頭し始めた。
6月17日にオマリーが怪我から復帰し、そこからチーム内の変動が激しくなる。三塁を守っていた新庄はオマリーの復帰に伴い、7月4日から中堅にコンバート。中堅を守っていた八木は左翼に回り、左翼を守っていたパチョレックは、4月25日の試合で亀山を代打に送られるなど開幕から不振続きの岡田に代わり一塁へ。一方投手陣は、絶対的守護神の田村が6月28日に初めて救援に失敗すると、7月3日を最後に左肘痛のため戦列を離脱。代わりに序盤不振だった野田が一軍に復帰すると2試合連続完封勝利で復活し、ヤクルト、広島、そして最下位から急浮上の巨人と優勝を争うチームは前半戦を2位で折り返した。
8月、毎年苦しんでいた死のロードを10勝6敗で乗り切り10年ぶりに勝ち越すが、その間に首位のヤクルトが貯金を伸ばし、最大で4.5ゲーム差を付けられる。だが9月に入りヤクルトが急失速し、ゲーム差を1まで詰めてヤクルトとの3連戦を迎える。9月11日の緒戦は9回に八木が左翼フェンスギリギリに大飛球を放ち、一度はサヨナラ本塁打が告げられるも取り消され、結局6時間26分の死闘は延長15回の末引き分けに終わる。しかし続く2試合を連勝し首位に返り咲いたチームは、その後連勝を7に伸ばし、逆に2位に3ゲーム差を付けて、最後の長期ロードに出発した。
ところがその長期ロードでいきなり4連敗を喫し、9月26日には「救世主」荒木大輔の復帰で息を吹き返したヤクルトに首位を奪回される。翌日に首位に帰り咲いた後も勝ち星が伸びないまま、2位ヤクルトと1ゲーム差で神宮での天王山を迎える。10月6日、先発の仲田は岡林洋一と息詰まる投手戦を展開するが、仲田が7回に広沢克己に一発を浴びると、打線は岡林に完封を許し、ヤクルトに同率首位に並ばれる。翌7日、打線は序盤に伊東昭光を攻略し、先発の中込も8回まで1失点に抑え3-1で最終回を迎える。しかし中込が完投を目前にして1死1、3塁のピンチを招くと中村監督は湯舟をリリーフに起用するが、湯舟は2連続四球で1点を失い降板。投手は中西清起に代わるも2死後飯田哲也の内野安打で追いつかれ、続く荒井幸雄にサヨナラ打を打たれ、痛恨の逆転負けで首位から陥落する。2日後の中日戦で打線が4安打と沈黙し野田を見殺しにし、ヤクルトに2ゲーム差を付けられると、翌10日の甲子園での直接対決で湯舟を始めとする投手陣が、オマリーと首位打者を争っていたジャック・ハウエルに2打席連続本塁打を含む3安打3打点と打ち込まれ、打線も荒木と伊東の前に2点に抑え込まれ終戦、亀新フィーバーを巻き起こしたシーズンは巨人と並んでの2位タイに終わった。投手陣が12球団トップのチーム防御率2.90を記録した一方で、打線はチーム打率がリーグ5位、チーム本塁打に至ってはヤクルトの173本の半分にも届かない86本でリーグ最下位と、ラッキーゾーン撤去はかつての売りであった長打力を大きく削ぎ落とす結果になった[1]。10月7日のヤクルト戦の関西地区での平均視聴率はビデオリサーチ調べで36.7%を記録し、これはこの年の野球中継で最高の数字だった[2]。
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チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | ヤクルトスワローズ | 69 | 61 | 1 | .531 | 優勝 |
2位 | 読売ジャイアンツ | 67 | 63 | 0 | .515 | 2.0 |
2位 | 阪神タイガース | 67 | 63 | 2 | .515 | 2.0 |
4位 | 広島東洋カープ | 66 | 64 | 0 | .508 | 3.0 |
5位 | 横浜大洋ホエールズ | 61 | 69 | 1 | .469 | 8.0 |
6位 | 中日ドラゴンズ | 60 | 70 | 0 | .462 | 9.0 |
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1992 サンヨー オールスターゲーム
→詳細は「1992年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
- 太字はファン投票で選ばれた選手。
入団・退団
シーズン開幕前
本節では、前シーズン終了から本シーズン開幕までの入退団について記述する。
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選手・スタッフ
試合結果
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個人成績
投手成績
- 色付きは規定投球回数(132イニング)以上の選手
- 太字はリーグ最高。
打撃成績
- 色付きは規定打席(409打席)以上の選手
- 太字はリーグ最高
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表彰
達成記録・出来事
- 1月22日 - 野球殿堂の競技者表彰でOBの吉田義男が殿堂入り
- 4月9日 - 巨人3回戦(東京ドーム)で相手先発の香田勲男に黒星をつけ、1989年8月19日の巨人20回戦(東京ドーム)から続いていた連敗が11で止まる
- 5月28日 - 現役時代は阪神タイガースで活躍して背番号「10」は永久欠番にもなり、選手兼任監督で1946年と1955年途中から1956年までから計2年間半と専任監督で1957年から1年間監督を務めた藤村富美男が腎不全で死去。享年75
- 6月14日 - 湯舟敏郎が広島14回戦(甲子園)でノーヒットノーランを達成[4]、史上58人目(69度目)
- 7月11日 - 仲田幸司が中日14回戦(ナゴヤ)で7回の1死目を取り通算1000投球回、史上246人目
- 8月17日 - 8月15日からの中日19~21回戦(ナゴヤ)で3試合とも延長戦決着、3連戦共に延長戦に入ったのは1971年9月24日、25日、27日の中日対ヤクルト(ナゴヤ)以来史上21年ぶり
- 8月22日 - トーマス・オマリーが巨人22回戦(東京ドーム)で7回に桑田真澄から看板直撃の特大本塁打を放つ。史上4人目
- 8月25日 - 広島19回戦(GS神戸)で勝利し「死のロード」を1982年以来10年ぶりに勝ち越し(最終的に10勝6敗)
- 9月11日 - ヤクルト18回戦(甲子園)は延長15回、3対3の引き分けに終わり、試合時間は6時間26分で1990年8月4日の大洋対中日17回戦(横浜)5時間51分を超える史上最長記録
- 9月15日 - 広島25回戦(甲子園)で勝利し球団通算3500勝、史上3球団目
- 9月16日 - 新庄剛志が広島26回戦(甲子園)で9回同点の場面で大野豊から本塁打を放ち、プロ野球通算800本目のサヨナラ本塁打
- 9月23日 - 湯舟敏郎が巨人26回戦(東京ドーム)で7回の佐藤洋の内野安打1本だけ打たれての完投負け、1安打完投負けは史上8人目
- 10月16日 - 高橋慶彦の今季限りの現役引退を発表
- 10月24日 - 古屋英夫の今季限りの現役引退を発表
- 11月18日 - 新外国人選手でバルセロナ五輪の台湾の銀メダル獲得に貢献した郭李建夫と契約の締結を発表
- 12月5日 - 現役時代は阪神タイガースで活躍して、1960年から1961年6月までと1972年の9試合目から代理監督で1973年、1974年と監督を務めた金田正泰が心不全で死去。享年72
ドラフト指名選手
→詳細は「1992年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照
脚注
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