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山田洋次

日本の映画監督、脚本家 ウィキペディアから

山田洋次
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山田 洋次(やまだ ようじ、1931年昭和6年〉9月13日 - )は、日本映画監督脚本家演出家

概要 やまだ ようじ 山田 洋次, 別名義 ...

大阪府豊中市出身。東京大学法学部卒業。川島雄三野村芳太郎の助監督を経て1961年に『二階の他人』でデビュー。『男はつらいよ』シリーズなど人情劇を発表し、現役でキネマ旬報ベストテンに最多入賞した監督。紫綬褒章1996年)、文化功労者2004年)、文化勲章2012年)受章。日本芸術院会員。財団法人いわさきちひろ記念事業団理事長。関西大学大学院文学研究科および立命館大学映像学部客員教授文化学院の特別講師。日本映画監督協会会員。

妻は「平塚らいてうの記録映画を上映する会」副会長を務めた山田よし恵(1932年5月23日 - 2008年11月8日)。次女はTBSプロデューサーの山田亜樹[注 1]

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来歴

要約
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1931年大阪府豊中市に生まれる。満鉄のエンジニアだった父親の勤務のため、2歳で満州に渡り少年期を過ごした[1]。小学校1年~3年生のときに落語に熱中し、あるときジフテリアを患い明日の命も危ぶまれた際、憐れんだ父親から何でも好きな物を買ってもらえることになり、古本屋の落語全集を買ってもらったという。

東京都大田区池雪小学校に通う。戦中の1943年、東京都立第八中学校(現東京都立小山台高等学校)に入学するが、同年5月、空襲を避け、満洲国の旧制大連第一中学校(のち廃校)へ移る。1947年大連から一家で日本に引き揚げ、15歳から18歳までを山口県宇部市の伯母の持ち家で過ごした。流れ者や社会の逸脱者を多く描くのは、山田自身の引き揚げ体験が強く影響している[1]

1947年、旧制宇部中学校(山口県立宇部高等学校)3年に編入し、1948年、四修の飛び級で旧制山口高等学校(現山口大学)に入学するが、在学中に学制改革を経験する[2]。1949年、学制改革に伴い旧制高校を1年で卒業(三高の小松左京や新潟高の野坂昭如と同様のいわゆる一年修了組)[3]。1950年、東京大学法学部に入学。この頃、両親が離婚する。怠学による出席日数不足で中退するところだったが、1954年に卒業する。

松竹に補欠入社し、野村芳太郎作品の脚本家・助監督を務めた後[4]。1961年、『二階の他人』で監督としてデビューした[5]大島渚篠田正浩吉田喜重といった気鋭の新人が松竹ヌーヴェルヴァーグとして活躍していた時代にあって、山田は地味な存在であった。ヌーヴェルヴァーグ派が松竹から独立して行く中、松竹大船調路線の後継者として『下町の太陽』、『馬鹿まるだし』等のコメディを中心とした作品で企業内監督の道を歩む[4][5][6]。当初はハナ肇主演作品が多かった。

1961年頃から日本放送協会の『遺族』、TBSテレビの『泣いてたまるか』などテレビドラマの脚本を担当するようになり、1962年に放送された日本テレビ放送網の『一等寝台車のあいつ』などの一部の作品では「山田よしお」のペンネームを使っている[7]

次第に喜劇作家としての評価が高まり、何本かの作品がキネマ旬報ベストテン入りするが、ヒットには恵まれない状態が続いた。1968年フジテレビの連続テレビドラマ『男はつらいよ』の原案・脚本を担当。テレビドラマのヒットにより同作は1969年、松竹で映画化されることになる。当初は観客動員も地味であったが高い評判を呼んだ。輪番であった監督が山田単独となる頃から尻上がりに観客も増え、その後50年間に50作が製作される大ヒットシリーズとなり、毎年お盆と暮れの興行は日本人の風物詩、国民的映画とまで言われた。しかし、車寅次郎役である渥美清の体調が優れなくなってからは、年2回作られていた『男はつらいよ』シリーズを年1回に減らし、後に甥の満男の出番を増やして寅次郎の出番を減らす決断をした。第47作と第48作は、ドクターストップがあったものの無理に出演してもらったものである。1996年、第49作『寅次郎花へんろ』を準備中、渥美が死去し、シリーズは終了(打ち切り)を余儀なくされ、さらに4年後には大船撮影所が閉鎖され、監督としてメガホンを執る機会も減ってしまった。1988年から2009年にかけては、『男はつらいよ』シリーズに代わり松竹を支える看板喜劇映画シリーズとなった『釣りバカ日誌』シリーズ全22作の脚本を手がけている。

シリーズの合間をぬって2、3年おきに『家族』『同胞』など、ややシリアスな作品も、おおむねオリジナル脚本で発表。いずれも高い評価と手堅い成績を収め、山田の映画作家としての地位を固めていく。ほとんどが倍賞千恵子主演であり、『男はつらいよ』のさくら役、シリーズ開始以前の多くの主演作を含めると、実に六十数本で主演、準主演に迎えている。これは海外でも殆ど例のない長期の監督・女優コンビであり、ある意味、山田が「生涯同じ歌を繰り返し歌い続ける」タイプの作家である証左ともなっている。

2002年藤沢周平原作の『たそがれ清兵衛』を発表する。山田にとって、『運がよけりゃ』に続く2度目の時代劇[注 2]であり、藤沢作品を初映画化したものであった。他の時代劇では無視され続けてきた“位の低い”武士の苦悩を描いた物語である。構想に10年を掛け時代考証に徹底して拘った。登場人物が綺麗な新品の服ではなく、着古した古着を着ていたり、毎日月代を剃るはずが無いから、剃った部分に髪が生えてくる等の実に細かい部分をリアルに丹念に描き、第26回日本アカデミー賞で全部門にて優秀賞を受賞し、助演女優賞を除く全ての部門で最優秀賞を獲得。「第76回アカデミー賞」外国語映画部門にノミネートされた。

2004年、再び藤沢原作の時代劇『隠し剣 鬼の爪』を発表し、「第7回ジンバブエ国際映画祭」最優秀作品賞を受賞した。

2004年1月に横綱審議委員に就任し、2014年1月の退任まで5期10年を務め上げた[8]2006年には「部員不足解消に役立つなら」と、OBである東京大学相撲部の名誉顧問となった。京都大学との交流戦を観戦し、「初心者にしか見えない学生が鼻血を出しながら立ち向かう姿が愛しい」と興奮した。

2007年、自身の監督作『幸福の黄色いハンカチ』がハリウッドでリメイクされる事が決定。主人公はオスカー俳優・ウィリアム・ハートが演じる。

2008年小津安二郎以来、映画監督で二人目の芸術院会員となる。

2010年、小津映画の『麦秋』を舞台化。初の舞台演出[5][9]

2010年、JR東日本動態復元する蒸気機関車C61 20の復元工事の作業をドキュメンタリー映像として記録開始。父が鉄道ファンであった影響から幼少時より山田自身も鉄道ファンとなり、2011年6月4日の復活運転開始までの間、収録を行った。復活運転開始の日には、高崎駅で開催された復活記念セレモニーのスペシャルゲストとして招かれ、「東北で活躍したC61が復活したことには、大きな意義がある」などといったメッセージを送り、東日本大震災からの日本復興に向かう象徴の一つとするC61 20の復活を祝った[10]。なおこの作品は、同2011年7月16日NHKスペシャル『復活 〜山田洋次・SLを撮る〜』と題してテレビ放送された[11]

2011年、監督生活50周年記念作として『東京物語』のリメイク作『東京家族』の製作を予定していたが、脚本など東日本大震災の経験を踏まえた作品にしたいという山田の意向により、製作の延期を発表[12]

2012年12月15日、山田のこれまでの歩みを紹介する「山田洋次ミュージアム」がオープンした[13]

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エピソード

要約
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第32回東京国際映画祭にて(2019年)

『男はつらいよ』について

TVシリーズの『男はつらいよ』最終回で主人公を殺してしまったため、ファンから大量の苦情が来た[6]。これは寅さんがハブに噛まれての凄惨な死ということもあったが、それまでパッとしなかったのにと、これで強い印象を受けた。当時の映画会社はヒット作に恵まれていなかったため、テレビドラマの映画化なら一定の観客が見込めた他、低視聴率だったのでテレビ局から映画化権がスムーズに同意が得られた、映画版を新作として作ることにした。ただし同時に「テレビで殺したのはこんな人は、この社会では生きていてはいけないんだ。生きられないんだ」と話して新たに顰蹙をかった(シリーズ定着時のNHKテレビインタビュー)。

その後映画化は成功したものの、第3作と第4作を手掛けた時期は山田はもういいと考え、監督を他者にゆだねて脚本のみ書いた[14]

山田は『男はつらいよ』は切りのいい50作完結を構想し、寅次郎の最後も早いうちから考えていた[15][16]。その最終作と考えられる「男はつらいよ お帰り 寅さん」は2019年12月27日より公開された。同作では女優としてはもう仕事をしないとしていた後藤久美子を「男はつらいよ」シリーズの50作目にどうしても出演させたくてスイスの自宅に直接手紙を送り、23年ぶりの女優復帰を決めさせた。

シリーズの末期、撮影現場で体調を崩して楽屋で寝込んでいた所、その頃は既に自分の死が近いことを悟っていたのか晩年の渥美清から「山田さん大丈夫ですか?あなたは体を大事にして長生きしなければなりませんよ。」と言われたのが今でも心に残っていると言う。

小説家の八木義徳から「あなたは“典型”をお作りになった」「寅さんみたいな男といえば、共通したイメージがわく。文学ならドン・キホーテ坊ちゃん。あなたは映画でなさった。誇りをもっていい」[17]と評された。


映画以外の活動

創作落語を執筆しており、柳家小さん (5代目)の為に「真二つ」と言う題で書いた。現在は長男である柳家小さん (6代目)が継承して高座で演じている。

西田敏行黒柳徹子らと共に「平和のための戦争展」(日本中国友好協会主催)の呼びかけ人になっている[18][19]

豊中市との関係

#来歴にもあるように豊中市で生まれ2歳まで居住していたが、このことは豊中市民レベルでもあまり知られていなかった[20]。1982年に市民企画の映画会の招きで豊中を訪問した際には、出身地を豊中ではなく宝塚市だと思っていたという[20]

その後、山田の熱心なファンであった元中学校長の音頭取りで2014年にファンクラブ「とよなか山田会」が結成され、その年の6月には「とよなか山田会」の招きで80年ぶりに現存する生家を訪問[20][21]。2014年製作の映画『小さいおうち』のモデルと示唆される生家は建築の趣味もあった父親の設計によるもので現住者がおり、山田曰く、「僕の年で生家が残っている人は少ない」とのこと[20][21][22][23]

2016年には、ノーベル物理学賞受賞者の南部陽一郎に続いて2人目となる豊中市名誉市民に選出された[21][24]。2019年11月にも、『男はつらいよ お帰り 寅さん』の先行上映会と浜村淳とのトークショーのために豊中を訪問している[22][23]

その他

好きな作家として藤沢周平を挙げており、どの主人公も慎ましく生きている姿が胸を打たれるという。

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映画エピソード

要約
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松竹との関係

入社以来、一貫して松竹大船撮影所のみで仕事を続けた。期間としては実に47年間である。同撮影所の閉鎖後の京都撮影所を含めれば松竹撮影所での仕事は50年間以上となる。

映画監督として松竹以外の撮影所で仕事をしたのは東宝スタジオを使った『武士の一分』(2006年)が初めてで、主演の木村拓哉が東京を長期間離れることが不可能だったことから同地での撮影が行われた。なお、同作は東宝スタジオをレンタルしたものの制作と配給は松竹であり、『こんにちは、母さん』を公開した2023年時点で依然として松竹映画だけを撮り続けている。助監督から監督へかけての同一企業映画への連続従事(2021年現在67年間、うち47年間は同一スタジオ)として、これを上回る記録は海外にも見られない。自主製作も一切行っていない。

映画に対する姿勢

小津安二郎の映画に対し、「毎回同じような内容ばかり」「何も起きずつまらない」と批判していたが、敬愛する黒澤明が自宅で小津映画を熱心に鑑賞しているのを見てショックを受ける。近年では自作の中に小津の影響を少なからず認めている[5][17]。また黒澤は自身の「映画ベスト100」企画で、山田が高倉健主演で監督した『遙かなる山の呼び声』を選び、同作に『シェーン』(監督:ジョージ・スティーブンス、主演:アラン・ラッド)の影響を指摘し、『男はつらいよ』をシリーズで監督している山田の姿勢も高評価している[25]。『シェーン』について山田は「今観るとよく判る。少年のシェーンへの憧れよりもシェーンが人妻に抱いた激しい慕情こそこの作品テーマだということが」と評している[26]

黒澤&三船敏郎コンビ、そして黒澤が敬愛したジョン・フォードジョン・ウェインも敬愛していることで知られている。山田が監督した『男はつらいよ 知床慕情』に三船と淡路恵子はゲスト出演しているが、同作は黒澤の『野良犬』やウェインへのオマージュであることが指摘されている[27]

『幸福の黄色いハンカチ』と『遙かなる山の呼び声』で組んだ高倉健のことは、東映任侠映画時代からの大ファンであり、同じく高倉の大ファンであるスタジオジブリ鈴木敏夫と会い会話をした時も高倉の話をし、特に日本侠客伝シリーズで演じた寡黙で筋を通すヤクザ役に憧れたという[28]

クリント・イーストウッド監督を敬愛しており、俳優としても荒野の用心棒ダーティハリー、テレビローハイドの頃から大ファンであり、日本の俳優と違い、年相応の役で代表作を更新し続けられることに驚嘆している[29]

1999年に行われたキネマ旬報のオールタイムベスト企画で、洋画ではセルゲイ・エイゼンシュテイン戦艦ポチョムキン』やジュリアン・デュヴィヴィエ望郷』、マルセル・カルネ天井桟敷の人々』、ルネ・クレマン禁じられた遊び』、ヴィットリオ・デ・シーカ自転車泥棒』、フェデリコ・フェリーニ』といったヨーロッパ映画に、アメリカ映画からはチャールズ・チャップリン独裁者』、ウィリアム・ワイラーローマの休日』、スタンリー・キューブリック2001年宇宙の旅』、マイク・ニコルズ卒業』を。邦画では黒澤明『七人の侍』、小津安二郎『東京物語』、溝口健二西鶴一代女』、成瀬巳喜男浮雲』、山中貞雄人情紙風船』、木下恵介二十四の瞳』、今井正また逢う日まで』、野村芳太郎張り込み』、浦山桐郎キューポラのある街』、宮崎駿となりのトトロ』を選んでいる[30]

シネマコンプレックスに関する見解

しばしばシネマコンプレックスを批判している。

主に映画館の観客のマナーが良くなったことに批判的であり、過去には「最近は観客が妙に行儀良くなっている。なぜ、そんなに窮屈になってしまったのか。もっと活気にあふれ、スクリーンと客席が濃密に声を掛け合って共有し、そこからある種の感動や興奮を味わってもらいたい。」と発言したり[31]、「やたらに“ものを食べるな”とか、“前のシートを蹴飛ばすな”とかね。僕は本当に、あれがあまり好きじゃない。お金払って楽しみに来てるのに、『ああしちゃいけない、こうしちゃいけない』となぜ言われなきゃいけないんだっていう。僕は大いに笑ってほしいと思う。座席ぐらい蹴飛ばしてほしいと思う。ビール飲んだり、タバコ吸ったりしたっていいじゃないかと思う。」と持論を述べたが、後者に関してはインターネット上では逆に「お金払って観るからこそ、マナーは守ってほしい!」などと批判が相次いだ[32]

この他、チケットの販売が自動化されていることに関しても「どうやってボタンを押していいんだか分からない。年配の人たちが戸惑って、映画館に行っても切符が買えないという妙な事態になっている。僕は時々怒りさえ覚える」と発言している[33]

批判

『男はつらいよ』シリーズに出演経験のある俳優津川雅彦は山田を毛嫌いしており、京都国際映画祭準備委員会会合では「武士をだらしなく描いた左翼。山田のせいで日本映画はだめになった」とまで罵られた。津川は色々な番組でも山田を批判していた[34]

男はつらいよシリーズは井筒和幸[35]北野武[36]らが批判している。

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受賞・栄典

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作品

要約
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映画

監督作品

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その他の映像作品

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テレビドラマ

演出

  • 東芝日曜劇場TBSテレビ
    • 「24才」シリーズ(1967年 - 1969年)
    • 「父」(1971年)
    • 「続・父」(1971年)
    • 「初恋」(1971年、北海道放送
    • 「放蕩一代息子」(1973年)
    • 「嫁」(1973年)
    • 「恋人」(1974年)
    • 「裏長屋愛妻記」(1974年)
    • 「ふれあい」(1976年)
    • 「幸子の恋」(1976年)
    • 「ひとり娘」(1977年)
    • 「放蕩かっぽれ節」(1978年)
    • 「伜」(1979年)
    • 「出航」(1981年)
    • 「ああ、たらちねの母」(1985年)
    • 「ぼくの椿姫」(1985年、北海道放送)
    • 「くもりのちハーレー」(1988年)
  • 泣いてたまるか(TBSテレビ)
    • 第12回「子はかすがい」(1966年)
    • 第27回「なつかしいあいつ」(1967年)
    • 最終回「男はつらい」(1968年)
  • 男はつらいよ(1968年、フジテレビ
  • 祝辞(1971年、NHK総合テレビ
  • 遥かなるわが町(1973年、TBSテレビ)
  • 松本清張のゼロの焦点(1983年、TBSテレビ) ※橋本忍と共作
  • 泣いてたまるか(西田敏行版、TBSテレビ)
    • 第1回「花嫁のお父ちゃん」(1986年)
    • 第3回「結婚に向かない二人」(1986年)
  • 遥かなるわが町(1990年、TBSテレビ)
  • 祖国(2005年、WOWOW

脚本

舞台

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出演

映画
テレビ

著書

  • 山田洋次作品集』(全8巻、立風書房)1979年 - 1980年
  • 『男はつらいよ』1-4 立風書房、1973年 - 1976年 のち立風寅さん文庫
  • 『真二つ(御利益)』:山田洋次落語作品集』大和書房、1976年 のち新潮文庫
  • 『映画をつくる』大月書店、国民文庫 1978年
  • 『寅さんの教育論』(岩波書店 岩波ブックレット)1982年
  • 『映画館(こや)がはねて』講談社、1984年 のち中公文庫
  • 『息子・家族 山田洋次シナリオ集』岩波書店 (同時代ライブラリー 1991年
  • 『学校』岩波書店 同時代ライブラリー)1993年
  • 『放蕩一代息子』(東芝日曜劇場名作集) ラインブックス、1993年
  • 『遥かなるわが町』(上・下、集英社文庫)1997年
  • 『学校3』角川文庫 1998年
  • 『寅さんと日本の民衆』(抱樸舎文庫 旬報社、1998年
  • 『人生はつらいか(対話山田洋次 1)』旬報社、1999年
  • 『映画は面白いか(対話山田洋次 2)』旬報社、1999年 - 8名との対談
  • 『十五才』(角川文庫) 2000年
  • 『「学校」が教えてくれたこと』PHP研究所、2000年
  • 『放蕩かっぽれ節 山田洋次落語集』(ちくま文庫) 2002年
  • 『めだま 落語絵本』鈴木靖将絵. 新樹社、2009年
  • 絵本『母と暮せば』(講談社)2015年 - 文を担当。絵の担当は森本千絵[54]
  • 悪童 小説 寅次郎の告白』(講談社)2018年 - 「けっこう毛だらけ 小説・寅さんの少年時代」(『男はつらいよ 寅さんDVDマガジン』Vol.1 - 50〈2011年1月 - 2012年11月〉に連載)を加筆、改稿の上で改題

共著

  • 『武器としての映画 軍政チリ・亡命・潜入』ミゲル・リティン [述]、山田洋次 きき手、岩波ブックレット 1987年
  • 『男はつらいよ寅さんの人生語録』朝間義隆共作、寅さん倶楽部 編、PHP研究所、1989年 のち文庫
  • 『寅さん映画ができるまで (ノンフィクション絵本 森田拳次作・絵、ポプラ社、1990年1月
  • 『寅さんの学校論』(田中孝彦との対談、岩波ブックレット)1990年
  • 『寅さんの人間論』田中孝彦対談、岩波ブックレット、1990年
  • 『めんどうくさいもの・人間 :映画・教育・そして愛』三上満共著、労働旬報社、1991年
  • 『シナリオをつくる』朝間義隆共著、筑摩書房、1994年
  • 『学校Ⅱ』朝間義隆共著、ちくま文庫、1996年
  • 『男はつらいよ』1-5 ちくま文庫、1997年
  • 『めだま 落語絵本』絵:鈴木靖将、新樹社、2009年 ※『真二つ(御利益)』所収の「目玉」を絵本にしたもの。
  • 『京都太秦物語』佐々江智明共同脚本、阿部勉、稲光宏子 ノベライズ、新日本出版社、2010年
  • 『山田洋次映画を創る 立命館大学・山田塾の軌跡』冨田美香共編著、新日本出版社、2011年
  • 『小説母と暮せば』井上麻矢共著、集英社、2015年
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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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