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2000年の阪神タイガース
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2000年の阪神タイガース(2000ねんのはんしんタイガース)では、2000年の阪神タイガースにおける動向をまとめる。
2000年の阪神タイガースは、野村克也監督の2年目のシーズンである。
概要
2年連続最下位からの脱却を図るべく行った主な補強は、投手はオリックスからFA宣言した星野伸之を、巨人へ移籍したダレル・メイの後釜としてロベルト・ラミレズを、ベン・リベラに変わる抑え候補としてグレッグ・ハンセルを獲得。野手では中軸候補としてトニー・タラスコ、ハワード・バトルを補強。また野村監督のヤクルト時代の教え子・広澤克実や監督の三男・野村克則(カツノリ)が巨人・ヤクルトからそれぞれ移籍し、三塁コーチに西武から伊原春樹を招聘して阪神は野村カラーに染まり出した。ホーム用帽子の縦縞が野村監督の提案で廃止され、この年からビジターと同じ黒帽子に変更された[1]。
開幕投手は星野。4番はバトルが調整遅れから2軍スタートとなり、前年まで1番から6番など打順が固定されなかった新庄剛志を抜擢した。4月中は広澤、大豊、タラスコなど他の選手が4番を務めることもあったが5月中旬以降は4番新庄に固定された。
チームは4月中旬に9連勝し、月間12勝10敗で勝ち越しのスタート。しかし、5月に入るとチームは借金地獄に突入し巨人や中日の後塵を拝する苦しい展開が続いた。それでも7月を9勝10敗、8月を13勝14敗とまずまずの成績を残し最下位脱出は目前だったが、終盤に入ると借金10で一気に最下位に転落。結局1998年から3年連続の最下位に終わった。投手陣では先発の柱として期待された星野伸はローテを守ったものの打線の援護がない上に自身もセ・リーグの野球に対応しきれず規定投球回数はクリアできず成績不振に終わったが、川尻哲郎が10勝を挙げ抑え候補だったハンセルは先発の適正を見出されチーム二位の7勝を挙げた。打撃陣では新庄・大豊・タラスコが2ケタ本塁打を放って1992年のラッキーゾーン撤去後初めてリーグ本塁打数最下位を脱したが、リーグ打率・リーグ安打数がダントツ最下位で得点力不足に悩んだ。このためシーズン途中に不調のバトルを解雇し、ジェイソン・ハートキー、マイカ・フランクリンを補強している。またチーム失策数が101個と多く、守備が堅いとも言えなかった[2]。シーズン終了後、4番として自己最高の成績を残した新庄はニューヨーク・メッツへ移籍し、チーム二位の本塁打を放った大豊泰昭は毎年度重なる契約の不調の不満が爆発し退団、チーム三位の本塁打を記録したタラスコも退団とチーム本塁打上位三名が退団する前代未聞の事が起きた。伊原も野村監督と対立して1年で退団した[3][4]。
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チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | 読売ジャイアンツ | 78 | 57 | 0 | .578 | 優勝 |
2位 | 中日ドラゴンズ | 70 | 65 | 0 | .519 | 8.0 |
3位 | 横浜ベイスターズ | 69 | 66 | 1 | .511 | 9.0 |
4位 | ヤクルトスワローズ | 66 | 69 | 1 | .489 | 12.0 |
5位 | 広島東洋カープ | 65 | 70 | 1 | .481 | 13.0 |
6位 | 阪神タイガース | 57 | 78 | 1 | .422 | 21.0 |
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2000 サンヨー オールスターゲーム
→詳細は「2000年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
- 太字はファン投票で選ばれた選手。
入団・退団
シーズン開幕前
本節では、前シーズン終了から本シーズン開幕までの入退団について記述する。
シーズン開幕後
本節では、本シーズン開幕から本シーズン終了までの入退団について記述する。
入団
退団
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選手・スタッフ
試合結果
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個人成績
投手成績
- 色付きは規定投球回(135イニング)以上の選手
- 太字はリーグ最高
- 完封合計は継投も含む
打撃成績
- 色付きは規定打席(418打席)以上の選手
- 太字はリーグ最高
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表彰
達成記録・出来事
- 1月15日 - 新外国人選手のハワード・バトルの契約の締結を発表
- 2月2日 - 福間納投手コーチ補佐が「納一(おさむ)」と改名
- 3月31日 - 開幕戦の横浜1回戦(横浜)で敗戦を喫し開幕戦10連敗、西武の1976年から1985年にかけての9連敗(1分挟む)を超える新記録
- 4月8日 - 大豊泰昭が広島戦(広島市民)で2回に紀藤真琴から本塁打を放ち通算250本塁打、史上39人目で4回には紀藤真琴から安打を放ち通算1000安打、史上199人目
- 4月9日 - ウエスタン・リーグでがリーグ新記録の開幕8連勝(最終的に1分を挟んで10試合連続勝利)[7]
- 4月14日 - 中日1回戦(甲子園)に勝利し、野村克也監督が監督通算1200勝、日本プロ野球史上史上8人目[7]
- 4月20日 - 4月18日からの巨人4~6回戦(東京ドーム)で巨人に3連勝。東京ドームでの巨人3連戦3連勝は1988年の5月3日から5月5日にかけての巨人3~5回戦以来12年ぶり
- 4月23日 - 星野伸之がヤクルト4回戦(甲子園)で1回一死から佐藤真一を中飛に打ち取り通算2500投球回、史上40人目
- 5月20日 - 横浜7回戦(横浜)で敗戦を喫し、前年の8月19日の横浜21回戦(横浜)から続く同球場の連敗記録が10になる(翌日の同カードで勝利しストップ)
- 5月21日 - 横浜8回戦(横浜)左投の遠山奨志と右投の葛西稔で相手打者の左右に合わせ交互に2度登板。同一試合に2人が2度登板するのは阪神が1979年8月19日中日19回戦(ナゴヤ)の山本和行と池内豊以来21年ぶり
- 5月21日 - 横浜8回戦(横浜)で勝利し前年の8月18日の横浜21回戦(横浜)から続いていた横浜戦の連敗が14で止まる
- 5月24日 - 杉山賢人と近鉄の西川慎一、吉田剛の1対2の交換トレードを両球団が発表
- 5月28日 - 広澤克実がヤクルト9回戦(千葉マリン)で4回にジェイソン・ハッカミーから満塁本塁打を放つ、ヤクルト、巨人でも満塁本塁打を記録しており3球団での満塁本塁打は史上7人目
- 6月1日 - 竹内昌也と日本ハムの根本隆輝の交換トレードを両球団が発表
- 6月26日 - ハワード・バトルの解雇通告を発表
- 6月27日 - 日本ハムのマイカ・フランクリンを金銭トレードで獲得したことを発表
- 7月20日 - 大豊泰昭が巨人19回戦(甲子園)の3回の真鍋勝己球審の判定に対し暴行を働き退場処分、翌日に7月28日から8月3日までの出場停止処分と制裁金20万円の処分が科せられた[8]
- 7月20日 - 新庄剛志が巨人19回戦(甲子園)に先発出場し通算1000試合出場、史上362人目
- 8月3日 - 葛西稔が中日19回戦(甲子園)の同点の9回一死一、二塁から登板し、初球にレオ・ゴメスを併殺に打ち取りチェンジとなり、その裏に味方がサヨナラ勝ちしたため1球勝利投手になる、史上13人目で球団では1993年10月21日広島26回戦(甲子園)の弓長起浩以来2人目で、この勝利で巨人の持っていた同一球場(後楽園球場)最多勝利数1776勝を超える甲子園球場1777勝目
- 8月10日 - 8月8日からのヤクルト14~16回戦(神宮)でヤクルトに3連勝。神宮でのヤクルト3連戦3連勝は1988年の5月24日から5月26日にかけてのヤクルト5~7回戦以来12年ぶり
- 9月3日 - トニー・タラスコが横浜24回戦(甲子園)で1回に三浦大輔から本塁打を放ち球団通算6000本塁打、史上6球団目
- 9月12日 - 巨人26回戦(甲子園)が開催予定だったが前日からの東海豪雨により巨人の一部の選手・首脳陣が丸一日新幹線内に缶詰だったため、阪神球団側からの申し出により当日の試合中止が決定した
- 9月16日 - 吉田剛が広島26回戦(広島)で7回の守備から出場し通算1000試合出場、史上364人目
- 10月1日 - ヤクルト25回戦(甲子園)で敗戦を喫し3年連続最下位が決定、セ・リーグでは1972年から1974年にかけての広島以来、球団史上初
- 10月20日 - 和田豊が来季打撃コーチを兼任することに
- 10月30日 - 湯舟敏郎、山﨑一玄、北川博敏と近鉄の酒井弘樹、面出哲志、平下晃司の3対3のトレードを両球団が発表
- 11月4日 - 新外国人選手のバディ・カーライルとイバン・クルーズの契約の締結を発表
- 11月27日 - 川尻哲郎が代理人交渉を球団に通知した
- 12月11日 - FA宣言をしていた新庄剛志のアメリカのニューヨーク・メッツ入りが決定
- 12月13日 - 新外国人選手のエドワード・ペレスの契約の締結を発表
- 12月14日 - 野村克也監督の背番号を「73」に、濱中治の登録名を「濱中おさむ」に変えることを発表
ドラフト指名選手
→詳細は「2000年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照
脚注
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