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日本の男性声優、俳優 (1935-2016) ウィキペディアから
肝付 兼太(きもつき かねた、1935年〈昭和10年〉11月15日[1][2][3] - 2016年〈平成28年〉10月20日[16][17][18][19])は、日本の声優、俳優、演出家。81プロデュース最終所属[10]。鹿児島県揖宿郡喜入町(現・鹿児島市)出身[6]、東京府東京市中野区(現・東京都中野区)[7]、板橋区(現・東京都板橋区)育ち[3]。劇団21世紀FOX初代主宰[9]。
きもつき かねた 肝付 兼太 | |
---|---|
1962年 | |
プロフィール | |
本名 |
肝付 兼正[1] (きもつき かねまさ)[2][3] |
愛称 | 肝ちゃん[4]、肝さん[5] |
性別 | 男性 |
出身地 | 日本・鹿児島県揖宿郡喜入町(現・鹿児島市)[6]、東京府東京市中野区(現・東京都中野区)[7]、板橋区(現・東京都板橋区)[3] |
死没地 | 日本 |
生年月日 | 1935年11月15日 |
没年月日 | 2016年10月20日(80歳没) |
血液型 | AB型[8] |
職業 | 声優、俳優 |
事務所 |
劇団21世紀FOX(初代主宰)[9] 81プロデュース(最終所属)[10] |
配偶者 | あり[7] |
公式サイト | 肝付兼太 - 81プロデュースの公式サイト |
公称サイズ(時期不明)[11] | |
身長 / 体重 | 170 cm / 53[12] kg |
スリーサイズ | 80 - 78 - 87 cm |
靴のサイズ | 24 cm |
声優活動 | |
活動期間 | 1954年 - 2016年 |
ジャンル | アニメ、ゲーム、吹き替え |
デビュー作 |
『婦人の時間』[13] 暴走族(『地方検事』)アフレコデビュー[14] |
俳優活動 | |
活動期間 | 1954年 - 2016年 |
ジャンル | テレビドラマ、映画、舞台 |
デビュー作 | 『こぶしの花の咲くころ』[13][15] |
肝付氏の末裔[6][20]。1935年11月15日[1]に鹿児島県揖宿郡喜入村(同郡喜入町を経て、現在は鹿児島市喜入町)[6]で誕生したが、3歳の時に鹿児島を離れ4歳ぐらいまで東京府東京市中野区(現:東京都中野区)に住み[7]、その後は東京府東京市板橋区(現:東京都板橋区)[3]で育った[20]。戦時中は板橋区立板橋第四小学校[7]時代に群馬県利根郡水上村(同郡水上町を経て、現在は同郡みなかみ町)湯檜曽に学童集団疎開し、その後、山梨県中巨摩郡竜王村(同郡竜王町を経て、現在は甲斐市)竜王に疎開した[3][21]。当時は内向的で気弱な性格だった[3]。両親と泣く泣く別れ、汽車に乗せられた光景がいつまでも脳裏を離れなかったことから、目に沁みるような若葉の緑も澄んだ川の流れも、目には美しいものとして映らなかった[3]。着いた夜から、東京の両親を慕って涙を流していた[3]。毎夜泣き明かして暮らしていた肝付をもてあまし、教師は肝付を両親の元へ帰した[3][7]。当時は疎開者は目の敵にされていたことから、竜王でも村の子供たちから「都会育ちのいじけっ子、泣き虫っ子」と色々意地悪され、泣き明かす毎日となったが、それでも1年半ぐらいいたという[3][7]。終戦後板橋区に帰郷すると、陽気で明るく、よくお喋りする性格の少年に一変し、周囲の人物たちも驚いたという[3]。町中を駆け回り、遊び仲間を集めては、疎開先のラジオで覚えた落語や、街で見かけていたGIの真似をしておどけ、皆を笑わせるようになった[3]。この変貌ぶりについて、肝付自身は「やはり都会っ子だったんだ」と回想しており、東京都に帰郷したことが無性に嬉しく、かつての遊び仲間が同胞のように思えていた[3]。その時は「抱きつきたいくらい感激していた」「最高に嬉しかったんだ」と分析している[3]。
中学へ進学するにあたり、私立中学を受験したが失敗[13]。その当時、映画俳優への夢もあり、2回ほどオーディションを受けたことがあった[22]。中学2年生の時に、木下惠介監督の映画『少年期』のオーディションに行って第2次まで受かった[23]。2次まで受かれば大変なものであることから、スタートになったような気分で、雪の中でカメラテストに大船に行っていたが、落選[23]。その時子役に抜擢された人物は、そのまま役者になったが、1999年時点のインタビューによるとワイドショーを見ていたところ、その人物が出演しており「色々な借財を背負った」と語っていた[23]。そのため「スターっていうのは大変だな」、「いやァ、おれ、受かんなくてよかった」と感じたという[23]。その後、気を紛らわすためにラジオドラマを聞いており、NHKの『話の泉』という番組の公開録画を見に行った折「この場所で仕事が出来たら…」と思ったのがきっかけで映画俳優を志す[24]。憧れていた俳優は榎本健一[25]。しかし、祖母から「映画俳優をやれる容姿ではない」と諭され、顔出しよりもラジオドラマで声のみで出演する「声優」の仕事を目指すようになる[13]。
帝京中学校・高等学校に進学し[3]、同高校在学時に自ら演劇部を設立[26]。その演劇部で木下順二の『夕鶴』を上演したのがきっかけで芝居の道へ進む[25]。
高校卒業後は父親の他界により大学進学を断念した。ラジオ東京(現TBS)放送劇団の第4期生の募集に応募するが落選し、髙島屋に勤務[24]しながら劇団七曜会に入団した[27]。当時、七曜会がNHKの仕事に積極的に取り組んでいたため、それが縁で肝付もNHKのラジオドラマに出演するようになり[15][28]、役者として食べていくという自分の気持ちを確固たるものにするため、高島屋は退社した。しかし、声優としてデビューした後も金欠だったことにより、1964年頃には、仲間を集めて自ら設立した旅行会社の添乗員や靴磨き、司会者などを掛け持ちでアルバイトをしていた経験もある[3][13]。七曜会が解散した後は、青野武と共に日生劇場のこけら落とし公演のオーディションを受け合格し、これに出演[13]。七曜会から分裂した劇団作品座の所属を経て[29]、TBS放送劇団出身の千葉耕市がプロダクションを建てるために役者集めをしていたところに誘われ、そのプロダクションに所属した[15]。所属プロダクションはその後、桐の会[7]、三光事務所[7]、河の会[30]、俳優企画[31]、東京俳優生活協同組合[7][32]、江崎事務所[7]、青二プロダクション[29]、ぷろだくしょんバオバブ[33]、自身が主宰する21世紀FOX[8]と変遷。2016年2月2日付けで81プロデュース所属となった。一時はオフィス・ボロ[34]、うぃなぁエンタテイメント[11]にも所属していた。
映画デビューは1956年公開の『こぶしの花の咲くころ』(家城巳代治監督)であり[13][15]、当時はまだ劇団の研究生で本名の「肝付兼正」として床屋の青年役で出演した。これ以外に1966年のポルノ作品である『汚辱の女』にも出演しているが、実写映画作品の顔出しの役者としての出演経験はこの2本のみ[15]。
ラジオドラマデビューは主婦向けの昼の番組『婦人の時間』(NHK)で、クリーニング屋の御用聞きの役。台詞は二言だけだったが、当時は全てが生放送だったこともあり、その時の緊張感と二言の台詞はいまだに忘れないという[13]。
アフレコデビューは海外ドラマ『地方検事』(TBS)での暴走族の役[14]。国産のアニメが登場してからは『0戦はやと』、『ビッグX』、『エイトマン』などに端役で出演した後、数多くの作品に出演。1965年の30歳直前にTBS版の『オバケのQ太郎』のゴジラ役でアニメのレギュラーを獲得し、1973年放送の『ジャングル黒べえ』では初主役[35]となる黒べえを演じた。また、テレビ朝日版の『ドラえもん』では骨川スネ夫の声を1979年から2005年3月まで26年間担当した。
1980年代の小劇場ブームの時に、北村想の作品『寿歌』と出会い衝撃を受ける[22][23]。自身も演劇をやりたいと強く思い、紀伊國屋で北村の『十一人の少年』の台本を見つけ「この戯曲の上演をしたい」と考え許可を取り、当時講師をしていた養成所の若者を集め、1983年9月に劇団がらくた工房、ぷろだくしょんバオバブを離れて[36]、劇団21世紀FOXを結成した[37]。結成当時のメンバーに宮下タケル、松尾まつお、速見圭、西原久美子らがおり、すぐ後に山口勝平が入団する。劇団では演出、構成を手がけるだけでなく、若手俳優の育成指導にもあたっている。2008年には劇団が結成25周年を迎え、同年12月にはかつて劇団に所属していた伊藤健太郎らを招いて25周年記念公演を開いた[38]。
1985年11月から12月にかけて喉の手術のため入院(1980年頃から多くのアニメ作品にキャラクターの声で出演していたため)。そのため『ドラえもん』(テレビ朝日版)のスネ夫、『オバケのQ太郎』(テレビ朝日版)のハカセ役は、木佐キザオ役で共演していた龍田直樹が代役を務め、『にこにこぷん』ではじゃじゃまるが風邪を引いたという設定で2週間しゃべらずに乗り切った。手術の際、自分の声が綺麗になってしまうことを恐れ、ポリープをピンセットで潰した[39]。
2004年にニトロプラスから発売されたドラマCD『鬼哭街』では「ディレクション」(演出)としてクレジットされているが、出演はしていない。
2005年第14回日本映画批評家大賞で、『ドラえもん』(テレビ朝日版)のオリジナルレギュラー陣(大山のぶ代、小原乃梨子、野村道子、たてかべ和也の4人)とともに田山力哉賞を受賞[40]。さらに2006年11月、第11回アニメーション神戸で、同じくオリジナルレギュラー陣4人とともに特別賞を受賞[41]。2007年3月には東京国際アニメフェア2007で、同じくオリジナルレギュラー陣4人とともに第3回功労賞を受賞[42]。2012年、第六回声優アワード「功労賞」を受賞[43]。
2016年5月頃に体調を崩し、都内の病院で肺炎と診断される[17][18]。その後は何度か検査入院し、退院後も声優活動をしていたが、同年10月に体調が悪化[18][19]。同年10月20日、肺炎のため死去。80歳没[16][9]。同年9月19日に収録されたNHKラジオの『ラジオ深夜便』のコーナー「シリーズ【時代を創った声】」(2016年11月6日放送)への出演が最後の仕事となった[45]。
また、長年レギュラー出演していた、『それいけ!アンパンマン』では2016年10月21日放送の「ホラーマンとカッパチーノ」の回が最後の出演となり、また、2016年クリスマススペシャル『ポッポちゃんのきらきらクリスマス』では生前の声を使ったライブラリ出演となっている。収録済の作品としては、2017年1月29日にNHK BSプレミアムで放送された『ワンワンパッコロ!キャラともワールド』にゲスト出演したじゃじゃまるの声及び2018年2月9日にフジテレビで放送された金曜プレミアム・ミステリードラマスペシャル『新 京都殺人案内』の巳之吉役の出演が遺作となった。
2017年1月9日、テレビ朝日にて放映された『人気声優200人が本気で選んだ!声優総選挙!3時間SP』で第23位に選ばれる[46]。
2019年11月には『おかあさんといっしょ』60年記念コンサートとして開催されたファミリーコンサート『ふしぎな汽車でいこう』にじゃじゃまるが登場したが、代役は立てられずに肝付の生前のライブラリ音源を使用する形がとられた。
24歳の時に結婚しており、息子と娘がいた[7]。座右の銘は「敬天愛人」[22]。
声種はテノール[47]。肝付の声は子供の頃から個性的であったが、声優の仕事を始めてから自分の声が「個性的だ」と気付いたという[7]。高校時代は、ラジオドラマ研究会で二枚目を演じており「僕はいい声なんだなあ」と思っていた[7]。東京放送劇団に入団して「ラジオドラマで二枚目やろう」と思ったが、これが勘違いであったという[7]。
アニメ草創期から活動しており、少年から老人、人間以外の役もこなす。異性の老婆役を担当した経験がいくつかある[48]。おもに子供向けのアニメや教養番組に出演した。
印象に残る作品について、初主演の『ジャングル黒べえ』の黒べえ役と『バーバパパ』を挙げている。とくに『バーバパパ』では小原乃梨子とふたりだけですべてのキャラクターに声を当てたほか、3人の子供の主題歌を歌いレコード化もされており、「唄う声優」となったのはおそらく自分が初めてではないかと語っている[35]。『ジャングル黒べえ』でも主題歌を歌うように依頼されたが、テンポが速く無理だったため、結局大杉久美子が主題歌を担当し、肝付は合いの手だけを入れている。その後、『にこにこぷん』のじゃじゃまるとして週3本ペースで2000曲ぐらい唄ったが、唄っているうちに調子がわかるようになって最初の2・3年は大変だったと回想している[48]。『怪物くん』では怪物三人組で『おれたちゃ怪物三人組』という曲を唄っているが、肝付と神山卓三、相模太郎の3人とも音痴だったため作曲者の小林亜星はとても苦労していたという[49]。
洋画の吹き替えでは、ウディ・アレンやジェリー・ルイス[21]を担当した作品がいくつかある。『殺し屋ハリー/華麗なる挑戦』ではテレビ朝日版のビッグ・エディ役を演じていた。「泣くも笑うもすでに出来上がっているものに合わせるだけの洋画の吹き替えは、『なぞりの芸』って事であまり好きではない。その点アニメは自分で考えてキャラクターを作っていくという面白さがある」と著書やインタヴューで語っている[14]。また、ディズニー作品において、コオロギ(『ピノキオ』ジミニー・クリケット)、ネズミ(『おしゃれキャット』ロックフォール)、カモメ(『リトル・マーメイド』スカットル)という3種類の動物役を演じている。
2005年3月18日をもって『ドラえもん』のスネ夫役を勇退したが、その後も『トリビアの泉』の影ナレーターなどの企画でスネ夫を演じた。また、晩年まで『それいけ!アンパンマン』のホラーマンや『トムとジェリー』の新吹き替えでトムを演じるなど、声優としての活動を続けたほか、『東京アニメーター学院』で声優科の講師も務めた。2006年には、文学座代表の戌井市郎や演出家の瓜生正美らとともにパラダイス一座を結成する[50]など、70歳を越えたあとも精力的に演劇活動を行なっていた。
藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄A)原作の作品にはほとんど出演している[51]。TBS版の『オバケのQ太郎』でゴジラを演じた際、「スタジオの外だと面白いのに、中だとつまらない」とマネージャーから言われ、第4話収録時に開き直ってアドリブを入れまくったところ、それを見学に来ていた藤子が手を叩いて喜び気に入ったことがきっかけとなり、原作者指名で役を貰うこともあったほか、指名していない作品も制作時に藤子から「肝付さんは何をやるんですか」と聞くことがあったという[14][24][21]。藤子作品で出演していない作品は『チンプイ』、『モジャ公』など[21]。テレビ朝日版の『ドラえもん』では骨川スネ夫の声を1979年から2005年3月まで26年間担当したが、なお、肝付はこれ以前に、日本テレビ版の『ドラえもん』にてジャイアンこと剛田武役を担当していた。しかし、ジャイアンを担当していたことに関して自身はあまり記憶には残っていなかったと語っており、日本テレビ版の『ドラえもん』のことは白黒作品だったと勘違いしていた。
2008年3月15日放送の『ナンボDEなんぼ』(関西テレビ)に、大山のぶ代とともにゲスト出演した。「声優のナンボ」をテーマに、ドラえもん収録時のエピソードや、今まで演じてきたキャラクターへの思い入れなどを語っていた。
アドリブがそのままキャラクターの設定や定番の台詞として採用されたケースがいくつかあり、『キテレツ大百科』の苅野勉三の訛り口調[39]や、『ドラえもん』のスネ夫の「のび太のくせに生意気だ」という台詞[52]、『にこにこぷん』でじゃじゃまるが登場する時に言う「オッス!! じゃじゃまるさんだぞ!」という台詞は、肝付によるアドリブから生まれたものである。
テレビアニメ『銀河鉄道999』の車掌を演じる際、「なんだこれは?」と喧々囂々で原作者の松本零士も肝付に車掌の正体を教えなかった[53]ため、今まで演じてきたキャラクターの中でも一番演じるのが難しかったと語っている。真面目で律儀なイメージで演じていったが、正体が分かった時には「最初から正体が空気だと分かっていたら、演じようがなかった(笑)」と語っていた(『創ったヒト』出演時)。
『おかあさんといっしょ』の人形劇に3作に渡って声優として出演している。肝付の没後である2019年11月に行われたコンサート『ふしぎな汽車でいこう〜60周年記念コンサート〜』でも、ライブラリ音声で出演した。
赤塚不二夫作品にも多数の出演経験があるが、『お願い!ランキング』の1コーナー「雄二のぶっちゃけ部屋」のゲストとして肝付が出演した際、1988年のテレビアニメ『おそ松くん』のイヤミ役を担当したときは、赤塚は肝付がイヤミ役を担当することには賛成しなかったと明かした[39]。これは、前作のイヤミを演じたのが肝付の先輩でもある小林恭治であり、比較的早口で紳士的な口調で喋る小林とは違い、イヤミのキャラでもある嫌味な部分やずる賢さを全面的に押し出した肝付の演技は小林とは180度異なっていたため、赤塚は周囲に「前と全然違うなあ」と違和感を漏らしていたという(このことは赤塚の死後、関係者によって肝付に明かされた)。だが、放送終了後「違うタイプのイヤミっていうことでいいかもね」と一応納得したという。肝付はイヤミを演じた当時について「10年前にこの役をやれたら、もっとテンション上げられたのにって思っていました」と語っているが、それでも収録が終わると「今日は毛細血管が7本切れた」というくらいテンション高く演じていたという[48]。
『ドカベン』では、殿馬一人を担当。殿馬の「づら」という口調は、山梨の方言であるため疎開したときの経験を活かして役に反映させたという。殿馬が、『ドカベン プロ野球編』でドラフト5位でオリックスに入団したことや「殿馬の振り子打法は、イチローなんかも真似した」などということで、プロ野球中継の解説をキャラクターとして行ったことがある[21]。また、自身のTwitterアカウントも「tonoma_zura_」で取得している。
『ドラえもん (テレビ朝日版第1期)』で共演したジャイアン役のたてかべ和也とは、50年以上の付き合いがあり特に仲が良かった。『ドラえもん』のテレビ放送25周年特集のインタビューでは、「性格的には僕とたてかべさんはまったく違うんです。お互い劇団にいて、同じような悩みがあって、昔はなにかっていうと議論をするのが流行っていた時期があって、そんな時にたてかべさんと話すと、すごく話が入ってくるんですね。そういう考え方もあるんだなって」と語っている。2015年6月にたてかべが死去した際、通夜の挨拶や葬儀の弔辞を読み、いずれにおいても最後にはスネ夫の声で呼びかけた[44][54][55]。
野沢雅子とは共演の機会も多く、野沢は「夫婦以上の仲です。だって、一緒にいる時間が長いんだもん」と冗談半分に言ったこともある[4]。共演作は『銀河鉄道999』や『怪物くん(テレビ朝日版)』、『ドラえもん(初代・日本テレビ版)』、『ウルトラB』、『ビリ犬』、『ど根性ガエル(1972年版)』、『ドロロンえん魔くん』などがある。
劇団仲間だった青野武と組んで、スナックでバーテンとして働いていたこともある[56]。青野とはウマが合い、2人でアドリブを連発し、「漫才バーテン」と呼ばれて評判となった[56]。当時は軽妙なジョークが客に受けていた[3]。
山口勝平の芸名の一部である「かっぺい」というのは、福岡なまりが抜けていなかった山口を、肝付が「いなかっぺい」と命名したことに由来している[57]。また、山口、関智一、高木渉の芝居ユニットである「さんにんのかい」の名付け親でもある。
中学生の頃は技術屋になりたかったといい、手先のことが好きであったのと、両親もその方面へ勧めていたため、その気になっていた[7]。模型を作っていた頃は、木から自分で作っていた[7]。家の隣に楽器を作る職人がおり、その人物の仕事ぶりを年中見ていた[7]。それで「楽器作りも面白そうだな」と思い中学2年生の時に神棚の板で、座る部分が広く、背もたれが小さいイスを作り、縄で周囲を仕上げていたが、母に怒られてしまったという[7]。劇団時代にある芝居の時、小道具にケーキが必要であったが、生のケーキではダメなため、アルバイト先から石膏を貰ってそれで作ったという[7]。他には、ピストル、写真だけの資料で、楢の木を合わせて作った[7]。作ったのはスミス&ウェッソン38口径で、リボルバーのため、弾倉の所が回転するようにしていた[7]。その後は、「あれもこれも作ってくれ」と言われていたが、本業の役者がダメになってしまうことから、やらないようにしていたという[7]。妻に棚などを頼まれたこともあったが、そういうのはイヤで自尊心が許さなかったという[7]。
特技は落語、浪曲[8]。小学生の頃に謝恩会で落語を披露した経験を持ち[26]、学生時代は落語家を目指していた時期もあったという。高校の先輩に桂小金治がおり、高校2年生の時、学校へ来て一席してくれた[7]。その帰りにしつこく「弟子にしてほしい」と言っていたが、桂小金治は松竹のスターだったため、「僕は落語家じゃないから、弟子はとらない」と言われた[7]。アイディアマンとしての一面も持ち、1980年代に開催された当時の若手声優イベント『声優フェスティバル』は肝付の発案である。また、機械の類にも強く、かつて劇団21世紀FOXが赤字になった際には、自分でビデオを編集し、それを売って赤字を埋めたことがある[4]。免許は普通自動車免許[11]。
映画が好きで祖父、祖母が洋画が好きだったこともあり、チャップリンの映画が印象的であった[7]。5歳の七五三のお祝いの時に写真を撮ったが、どうしてもステッキを持って撮りたかったという[7]。
俊足の持ち主であり、50歳の時にテレビ朝日の『ビートたけしのスポーツ大将』に出場し、100m走で優勝している(タイムは11秒2)。さらにカールくんと対決して勝ったことがあるほど脚が速い(正確にはハンデ付与のため90m走だったという)。
50歳頃までは酒が全く呑めず、同じく下戸で番組の打ち上げなどによく参加していた加藤精三と一緒に「会費で飲めないのは悔しいから」と言ってコーラばかり飲んでいた。晩年に少量程度なら呑めるようになったという[15]。
肝付の死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。
後任 | 役名 | 作品 | 後任の初出演 |
---|---|---|---|
後藤哲夫 | スカットル | 「リトル・マーメイドシリーズ」 | 『リトル・マーメイドII Return to The Sea』 |
龍田直樹 | ロクフォール | 『おしゃれキャット』 | 吹替版追加録音部分 |
佐藤せつじ | トム | 「トムとジェリーシリーズ」 | 『もっと!トムとジェリー ショー』 |
矢尾一樹 | ホラーマン | 『それいけ!アンパンマン』 | 『ブルブルの宝探し大冒険!』 |
掛川裕彦 | チョコレートパンマン | 不明 | |
多田野曜平 | ジミニー・クリケット | 『ピノキオ』 | 『キングダム ハーツIII』 |
太字はメインキャラクター。
イヤミの声で出演
999号車掌の声で出演
骨川スネ夫の声で出演
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