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郡寺

郡名を冠したり、郡衙跡と近接する寺院 ウィキペディアから

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郡寺(ぐんじ[4]、ぐんでら[5])は、飛鳥時代から奈良時代にかけて、日本各地で造られた古代寺院の一種である。郡名を冠する「郡名寺院」を指す場合もあれば、評衙跡や郡衙跡が近接する「評・郡衙寺院」を指す場合もあるなど、研究者によってその定義は異なる[3]。また、郡寺が公的な性格を有するかどうかも議論となっている[3]平安時代中頃には、ほとんどが廃寺となったため、不明な点が多い。[要検証]

郡寺の諸説

郡寺論の端緒となったのは、1946年に発表された田中重久の「郡名寺院」論である[3] 。郡名寺院とは、郡名で呼ばれる地方寺院のことである[3]。その後、山中敏史は、郡衙の周辺に寺院が多数存在することに着目し、これらの寺院を考古学の見地から「評・郡衙周辺寺院」と呼んだ[3]。また、櫻井信也は、日本史学の見地から「評・郡衙隣接寺院」と呼んだ[3]。 こうした郡寺は各地の郡司層の関与のもとで造営されたと考えられるが、これらの寺院が公的な色彩を持っていたとする議論には批判もある[3]

郡寺の主要な諸説は以下のようなものがあるという[8]

  • 氏寺説:同系氏族の長が建て、その子孫により、帰衣相伝された祈願所・寺院。氏族寺や私寺とも呼ばれる。
  • 官寺説:評衙・郡衙の付属の寺とする説
  • 公寺説:郡司の氏寺であり、公的機能を伴ったとする説
  • 知識寺説:渡来人などを含めた、複数の氏族による施設とする説
  • 家寺説:氏より細分化された家による施設とする説
  • 準官寺説:郡司を核に、知識寺機能に公的・官寺的機能があるとする説

三舟隆之は、氏寺説以外の説を批判しつつ「今後の研究の進展に期待する」とした[9]。後に三舟は、神郡には古代寺院が存在しない(小規模な仏堂のぞく)と指摘した[10]

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郡寺について

要約
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古代の瓦は、「呼吸し[11]」、内側からも守ってきた。
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墨書土器の一例

古代仏教寺院

釈迦の死後、その遺骨(仏舎利)が信仰の対象となり、それを納めた「八仏塔」が造られた。マウリヤ朝アショーカ王は「八万四千」と表現されるまでに多くの仏塔インド亜大陸各地に建てた[12]

中国大陸・時代、漢字の「寺」は「役所」の意味であった。西域から多くの僧侶が鴻臚寺などに滞在したことで現在の意味となっていった[13]。西域から来た仏図澄は、893の寺を建てさせた。

北魏太武帝の仏教弾圧(三武一宗の法難の第一)の後、文成帝 (北魏)は、郡県に官立寺院を造営し、を建てた文帝(楊堅)は、新都・大興城内に大興善寺と玄都観(道教)を置き、45州に大興国寺と114カ所に仁寿舎利塔を建てさせた。この仁寿 (隋)年間の頃に最初の遣隋使が送られている。 を建てた高祖(李淵)は京師に三寺二観、諸州に寺観各一所にまとめようとしたが、玄武門の変により中止、高宗は諸州に寺観各1カ所を置き、武則天による大雲寺、中宗による大唐中興(後に龍興寺)、そして玄宗は各州の寺を開元寺と改名した[14]

東アジアでは、北魏・永寧寺、百済・弥勒寺、新羅・皇龍寺(慶州歴史地域)、日本・百済大寺と「九重塔」が国力を示す象徴として造られた。郡寺を含めた日本の古代寺院でも塔心礎が見つかっている[15]

日本・古代仏教は、祖先信仰の氏族仏教、王統護持の宮廷仏教、鎮護国家の国家仏教、現世利益の民衆仏教と多層からなり、それらが併存していたと考えられる[16]。古代寺院の場所は「河合の地」など交通の要衝となる所に造られ、平地にある寺院の相当数が「山」を意識した場所にあるとの指摘がある[17]。また、古代仏教寺院には、軍事的要素があったとの指摘[18]がある。

ジュニア向けの歴史本には「各地で古墳をつくってきた地域の一部の豪族が、評家をもうけ、寺院の建立を行っていくことが、この時代の新しい動きです。[19]」と書かれている。

出雲国風土記

元明天皇の詔より作られた各国の風土記は、ほとんどが失われた。ほぼ完全に現存する出雲国風土記には、「寺」・「新造院」・「堂」について記述がある[20]

出雲国風土記によると、意宇郡舎人郷・教昊寺のみ、「寺」として記載がある。創建者である僧・教昊の法号がつけられた寺で、安来市の野方廃寺が最有力である。出土した瓦は7世紀・第4四半期と島根県内で最古となり、新羅系といえる文様が見られたという。

「新造院」は出雲国風土記には郡家からの方位・距離や造営者(7院が郡司層)などが記載されていることから、島根県古代文化センターは、新造院を国家に寺として認可してもらうための施設だと有力視している。ほかに、716年の寺院併合例(続日本紀)後に新たに造られた施設だとする説がある。

「堂」は、日本霊異記の記述から、瓦葺きでない村落内寺院とされ、出雲では神社と併設されることがあった。

瓦文様

山田寺式、川原寺式、法隆寺式など、畿内寺院の瓦文様を持つが出土することが特徴となっている[21]

墨書土器

墨書土器などに見られる「大寺」については諸説ある。畿内では天皇発願の寺院を指し[22]地方では尊称として使われていたとされる[23]

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沿革

斑鳩宮若草伽藍を初めに、日本の都城と寺院が「同一の地割り上に乗っていた」との指摘がある。他にも百済宮と百済大寺大津京と南滋賀廃寺・崇福寺跡藤原京本薬師寺大官大寺があり、官衙は律令儒教のシンボル、寺院は仏教のシンボルであり、漢字が結びつけていたとの指摘がある[24]

『地方官衙と寺院 -郡衙周辺寺院を中心として-』の中で山中敏史は、孝徳天皇(在位645年〜654年)から天武天皇(在位673年〜686年)前半までを前期評段階、天武天皇後半から文武天皇(在位697年〜707年)までを後期評段階、8世紀第1四半期を初期郡段階と仮称した[25]

評造(評督、助督など)・郡司(大領、少領など)を務めた豪族が、寺院を建てることによって、中央との仕奉を示すとともに、中央からの先進的技術・物・思想を持ち込み、評・郡内での支配を強化しようとしたと考えられる[26]

天平19年(747年)11月の「国分寺造営督促の詔」により、造営体制を国司から郡司層に移行させたとされる。実際、武蔵国分寺下野国分寺からは、国内の郡すべての文字瓦などが発掘され、美濃国分寺(在地豪族の氏寺か)、能登国分寺(大興寺)、若狭国分寺(太興寺廃寺)には前身といえる寺院があった[27]。また、定額寺に指定された寺院は郡寺クラスが多かったとの指摘がある[28]

10世紀後半、国司制度が受領制(請負制)になると郡衙は一斉に無くなる[29]。それに伴い、ほとんどの郡寺が廃寺に追い込まれたと考えられる[30]

略年表

郡寺(比定寺院)の一覧

要約
視点

岐阜県博物館の特別展で[34]「全国的にも寺院と郡家が近接する位置にセットで存在することが明らかになっている。飛鳥・奈良時代の郡の支配において、官衙とともに寺院が大きな役割を果たしたことを示しており、今後、寺院跡が見つかっていない多藝郡などにおいても新たに見つかる可能性は大きい。また、逆に寺院跡の近辺からは郡家が見つかる可能性もある」との指摘がある。

郡寺は、各郡1寺が存在する国(伊賀国など)、各郡に郡寺が存在しない国(丹後国など)、各郡に複数寺院が存在する国(摂津国嶋上郡など)、郡寺が確認できていない国(伊勢国度会郡など)等がある[35]。一覧表は、奈良文化財研究所(2005)『地方官衙と寺院』等を参考に作成したものである[36]

畿内

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京都市最古の広隆寺、前身名に葛野秦寺(合併説あり)がある。
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  • 和泉国(716年に和泉監、757年に立国)は、27の古代寺院推定地があり、最古は秦廃寺(貝塚市、大鳥郡)である[38]
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東海道

郡名寺的として、阿拝郡に三田廃寺、伊賀郡が財良寺跡、名張郡夏見廃寺山田郡に鳳凰寺廃寺があるという[41]

  • 伊勢国 (飛鳥・白鳳寺院数:約20カ所[37])、吉備池廃寺に似た、額田廃寺(桑名郡と員弁郡の境)が最古の可能性が高い[42]
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  • 尾張国の最古は、後に国分寺に転用された尾張元興寺で、瓦(重圏文縁素弁蓮華文)は、飛騨・寿楽廃寺や信濃・明科廃寺にもみられる[44]
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  • 駿河国 静岡市埋蔵文化財センターの展示によると静岡県内最古は尾羽廃寺跡である。
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  • 相模国 「古瓦散布地も寺院跡を示すものと見做すならば、各郡に1寺か2寺が存在したことになる。」との指摘がある[47]
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東山道

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  • 美濃国での寺院分布は「多藝郡山県郡、(恵奈郡が成立している場合)土岐郡以外の各郡に、1カ所以上存在する[52]」との指摘があり、最古は宮処寺跡・宮代廃寺跡(垂井町、不破郡)、願興寺廃寺(御嵩町、可児郡)のいずれかである[53]
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  • 飛騨国は17廃寺で最古は寿楽寺廃寺(飛騨国伽藍?)である[54]
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  • 武蔵国は771年後に東海道となる。最古は寺谷廃寺(埼玉県比企郡滑川町)である[58]。勝呂廃寺(坂戸市、入間郡)は、物部直広成一族が郡司になったことで氏寺から郡寺へと性格が変わったと書かれている[59]高麗郡衙の付属寺院として女影廃寺 (日高市)が造られたと書かれている[60]
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北陸道

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  • 加賀国は823年まで越前国で末松廃寺(国史跡[64])がある。
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山陰道

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  • 但馬国は三宅廃寺(豊岡市、袴挟遺跡が出石郡家?但馬国府?)と七美郡殿岡廃寺(香美町)である。
  • 因幡国 白鳳時代から奈良時代:11カ寺(智頭郡のみ見当たらず)[66]、鳥取県で最古は大御堂廃寺、野方・弥陀ヶ平廃寺のいずれかである[67]
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  • 石見国 古代寺院は下府廃寺(国文化財)ふくめ3カ所[68]
  • 隠岐国 古代寺院は2カ所、高句麗系の瓦が出土している[68]

山陽道

  • 播磨国 (飛鳥・白鳳寺院数:約29カ所[37])、小神廃寺が最古の可能性がある[69]
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  • 備中国を含めた吉備最古の本格寺院として秦原廃寺(総社市、下道郡)がある[74]
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南海道

和歌山県立博物館の展示によると、7世紀後半の古代寺院として最上廃寺跡など15カ所あるという。

津名郡に志筑廃寺(淡路島最古)、三原郡に山惣廃寺がある。

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  • 土佐国 は8世紀初めまでの建立例として比江廃寺(国史跡)や秦泉寺廃寺や大寺廃寺がある[78]

西海道

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脚注

参考文献

関連項目

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