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赤字83線
赤字路線の廃線政策 ウィキペディアから
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赤字83線(あかじはちじゅうさんせん)とは、1968年(昭和43年)9月に国鉄諮問委員会が提出した意見書により、「使命を終えた」としてその廃止およびバス転換を促された日本国有鉄道(国鉄)のローカル線、もしくはその廃止の取組みをいう[1]。
この取組みは、戦時中の不要不急線の休止を別にすれば、積極的に国鉄ローカル線を廃止しようという本格的な動きであった。赤字83線の整理は中途半端に終わったことから、1980年代の国鉄末期に実施された特定地方交通線の取組みへと受け継がれていった。
前史
要約
視点
1950年代以前
1923年に死去した元・鉄道院運輸局長の木下淑夫は、同年に発行された遺稿「国有鉄道の将来」で、当時盛んだった地方の鉄道路線建設を批判して、輸送需要の少ない地域には鉄道よりもバスを走らせたほうがよいとの意見を述べた。第二次世界大戦後の1950年代前半からは、地方路線の建設がふたたび盛んになったが、赤字経営が問題となって、その合理化のための組織改革が行われ、マスコミでも話題になった[2]。
国鉄の不採算路線については、1950年代から有識者による厳しい意見があった。臨時公共企業体合理化審議会(会長:原安三郎)は1954年11月4日に、「国鉄の公共性からやむを得ず建設する不採算路線については、政府がその不採算路線の結果を補うだけの資金を補助し、またはその資金に対する金利を免除もしくは補助すべし」とした。日本国有鉄道経営調査会(会長:有沢広巳)も、1956年1月12日に同様の趣旨の答申を提出し、「経営が立ち直るまでの当分のあいだ、これを中止するのが適当である」とした。日本国有鉄道基本問題懇談会が1964年11月27日に提出した意見書では、「いわゆる閑散線区については、自動車による代行輸送の実施、営業の廃止等、諸外国における例を参考として、なおいっそうの合理化を推進する必要がある」と述べた。
佐藤信之は、2023年に出版した著書で、「もともと国鉄経営は盤石でなく、つねに設備投資の原資が不足する状況のなかで政治の要求を受けて新線の建設を続けていた」「高度経済成長期に国鉄経営も黒字が定着したことから(中略)この時期も自民党議員からはローカル線の建設の要求が続き、政治家主導による新線建設の仕組みとして日本鉄道建設公団の設置に向かった」と解説した。1960年代には、イギリス、西ドイツ、フランスなどの西ヨーロッパ諸国で、赤字ローカル線の廃止が相次ぎ、この情報は日本の国鉄にも影響した。1964年度には、日本の国鉄が赤字に転落した[3]。
建設線・予定線のバス転換
1957年ごろから国鉄は、建設線・予定線の沿線自治体に、鉄道新線を建設する代わりに、国鉄バスを運行することを転換した。そのモデルケースとなったのが、戦時中に線路を撤去され1944年から休止状態だった白棚線である。当初は鉄道として復旧する方針だったが、跡地を専用自動車道として整備し、1957年から国鉄バスを運行させ、運転本数や停留場を増やすことで利便性を向上させようとした。国鉄本社は、バス専用道計画を他地域にも適用させようとし、新線促進を目指していた関係者を白棚線に招き、バス化のメリットを説いた。1959年に宮守線(現:京都丹後鉄道宮福線)が建設線に昇格した時には、「自動車輸送との比較検討を行い」との条件も付けられた。しかし、ほとんどの地域は鉄道建設に固執し、バス運行に応じたのは阪本線のみだった[4]。
1960年の「赤字50線」
1960年(昭和35年)4月には、国鉄が経営効率の悪い全国50線区について廃止を検討したとの報道があった。当時の国鉄には225線区あったが、そのうち黒字は東海道本線、山陽本線、信越本線、東北本線、常磐線などの15線区のみで、残る線区による赤字は年間420億円(1959年度)であった。前述の通り白棚線のバス転換が功を奏したことから、赤字線区をバス代行にする方針が登場した。
1959年秋、国鉄の全支社に赤字線の調査を命じ、1960年3月の全国支社長会議で廃止候補50線が持ち寄られた。候補に挙げられた50線は、営業係数1041であった柳ヶ瀬線を筆頭に、いずれも営業係数170以上の路線であった。1959年度の路線別赤字額は、飯山線の2億8千万円はじめ最低でも1千万円であった。廃止候補線全部の総延長は1,634 kmにのぼり、鉄道廃止後は国鉄バスを新設する専用道や府県道を利用して走らせ、1日数往復程度の閑散線をもっと便利で頻繁なバスダイヤを組めるようにする計画であった。このバス転換で、当時29億5千万円の赤字が大幅に減る見込みとされた。当時の国鉄総裁・十河信二は、「赤字線問題についての検討は最終的なところに来ており近くハラを決める。現在の鉄道よりバスの方が便利であり地方線の国鉄赤字財政も改善されるだろう」とコメントしていた。
以下の路線が候補とされた。
- 北海道支社:相生線、興浜南線、興浜北線、根北線、札沼線、標津線、深名線、瀬棚線、富内線、松前線、湧網線。
- 東北支社:津軽線、小本線、川俣線、気仙沼線、日中線。
- 関東支社:烏山線、木原線、真岡線。
- 新潟支社:赤谷線、魚沼線、只見線。
- 中部支社:飯山線、明知線、大糸線、樽見線、三国線、柳ヶ瀬線。
- 関西支社:鍛冶屋線、倉吉線、篠山線、三江北線、信楽線、北条線、三木線、名松線、若桜線。
- 広島支社:三江南線。
- 四国支社:内子線、宇和島線、鍛冶屋原線。
- 九州支社:甘木線、高森線、妻線、日ノ影線、古江線、宮原線、矢部線、山野線[5]
同年5月には、第一着手として10線区を同年度内に廃止する方針を国鉄が決めたとの報道があった。これによると、6月早々、10線の関係者に各地元の状況を打診させ、同月下旬に全国支社長会議、理事会にかけ、早ければ秋にもレール撤去に着手の予定とされた。具体的には、根北線(斜里駅 - 根室標津駅[注釈 1])、札沼線(札幌駅 - 石狩沼田駅)、川俣線(松川駅 - 岩代川俣駅)、魚沼線(来迎寺駅 - 西小千谷駅)、柳ヶ瀬線(木ノ本駅 - 敦賀駅)、明知線(大井駅 - 明智駅)、篠山線(篠山口駅 - 福住駅)、鍛冶屋原線(板野駅 - 鍛冶屋原駅)、内子線(五郎駅 - 内子駅)、古庄線(牟岐線の貨物支線)が挙げられた[6]。
同年4月15日の衆議院運輸委員会では、長谷川峻・衆議院議員(自民党所属)と、十河国鉄総裁の間で、次のような質疑があった。
○長谷川(峻)委員 国鉄総裁にお尋ねしたいと思います。(中略)去る八日の総裁談話で、二百二十五線区のうち赤字の多い五十線だけ、鉄道をはずしてバス路線に変えるという談話を発表されております。私はこの真意をお伺いしたいのです。なぜなう(ママ)ば、この新聞記事が全国に出ましてから、遠くは北海道から鹿児島まで、みな大騒ぎをしております。しかもこういう問題は、御承知の通り鉄道を待望して作って、今バスが流行であるからただバスに簡単に変えるというふうな思いつきから、各支社が五十線を選んだとするならば、これは私は非常に不合理だと思う。貨物輸送のこともありますし、さらにまた地方の方々が長い間葉っておった鉄道が、国鉄のただ思いつきみたいにして、五十線もみな、全部路線をはずされるということになりますと、地方人心に与える影響は非常に大きいと思います。」
○十河説明員 今御指摘の新聞記事は多少誤解があるんじゃないかと思います。今お話のありましたように、今日二百二十五線のうち、相当赤字線が多いのであります。これをいろいろな面から今検討をいたしておるところでありまして、今日まだ、国鉄部内で何ら決定した意見はきまっておりません。あるいは国民経済上の観点から、あるいは利用者の利害という観点から、あるいは旅客あるいは貨物輸送の観点から、あるいはまた国鉄の経営上の観点から、いろいろな観点から今検討中でありまして(後略)
○長谷川(峻)委員 従来バス路線について成功したというのは白棚線一つですね。それから思いつかれて、新聞の報道が聞違ったかどうか知りませんけれども、それは全国一斉に出ておるのですよ。そうしてある場合にはアドバルーンを上げた。しかしこれは今検討中であるとするならば、発表されたといわれるものは全然誤報であった、今から研究、検討するというふうに了解してよろしゅうございますか。
○十河説明員 国鉄の検討の中で、これこれのものは総原価で赤字になっておる、これこれの線区は直接費で赤字になっておる、直接費で赤字になっておるものはこれだけあるということ、これは事実ですから発表いたしております。それをつかまえてこの分支線区はこうされるというふうに解釈したんではないかと思う。それだけではきまらないのであります。その他さっき申し上げましたいろいろな方面を検討して、各方面の検討を総合して、どういうふうにしたらいいか、どういうふうにすれば一番国民経済上有利であるとか、利用者に便利であるとかいうことを考えて決定いたしたい、こう考えております。
○長谷川(峻)委員 だんだんわかってきましたが、そうしますと今から先検討する、せんだっての話は、五十線の場合には全然間違いであるというふうに私は了解いたします。それでかまいませんか。
○十河説明員 決定したと書いてあるのは間違いなんです。まだ決定しておりません。[7]
同年5月13日の衆議院運輸委員会では、国鉄副総裁であった吾孫子豊が、児玉末男・衆議院議員(日本社会党所属)の質問に対して、次のように答弁した。
「先般新聞に出た問題とおっしゃるのは例の五十線の問題だと思うのでございますが、あれは別に国鉄当局として積極的に発表したというわけでもなく、また総裁が談話を発表したというようなことでも実際はございませんでしたので、新聞記者会見の際にそれらの問題についての二、三の質疑応答のようなことはあったようでございますが、その際非常に勉強家の新聞記者の方が、国鉄の審議室でいろいろ検討しておりました資料をいわばスクープされたようなことがもとになりまして、そういう研究しているものがあるならみんなにも見せろというような話になって、あの資料を国鉄の記者クラブの諸君にお見せした、こういうことでございます。それで、その中身はと申しますと、これはいろいろな仮定を置きまして、審議室の方で今研究をしておるわけなんでございますが、一応の目安としまして、線区別に見て、貨物がその単位線区について一年間の取り扱い数星が十八万五千トン以下、旅客が白四十万人以下というようなところは、国民経済的な見地から見て、むしろ自動車の分野であるというふうに目される線区ではなかろうかということで、ただいま申し上げましたような線区を、貨物十八万五千トン以下、旅客百四十万人以下というような基準で拾ってみますと、それがたまたま五本線になった。キロ数にいたしまして大体千六百キロほどになるわけでございます。五十線の線区が、この基準に合うと申しますか、あげられたわけでございまして、具体的に実際にこの五十線区について直ちに線路を撤去するとかしないとかいうようなことを、もちろんきめておるわけでもございませんし、また国鉄限りでそのようなことがきめ得る性格の事柄でもございません。ただ、私どもといたしましては、何とかして国鉄の全体の収支を改善し、安定させるために、どうしたらいいかというようなことを、いろいろな面から検討をいたしておりますので、その一つの方法として、一応の目安を置いて考えてみたのがあの五十線である、こういうことでございます。具体的にどうするかということについては、なお今後十分検討をした上できめたいと考えておりまするし、またそのように地方の支社等にも指図をいたしまして、検討を加えさせておるという段階でございます[8]。
このように、当時の国鉄首脳は、廃止を実行する可能性を否定していたが、その後の展開を見れば明らかなように、その後の国鉄内部では、赤字ローカル線廃止のための検討が水面下で続けられた。1960年に廃止候補として挙げられた路線のほとんどは、1968年の赤字83線、1980年代の特定地方交通線でも、繰り返し選定された。
廃止候補に挙げられた路線の沿線関係者からは、反対の声が相次いだ。例えば篠山線については、同年7月6日に兵庫県議会が、廃止反対の決議を満場一致で可決した[9]。廃止候補として挙げられた路線のうち、古庄線は1961年に、柳ヶ瀬線は1964年に、それぞれ廃止された。
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1968年・国鉄諮問委員会の「赤字83線」提言
要約
視点
国鉄諮問委員会は1967年10月、石田礼助総裁(当時)から「当面の財政問題について」という説明を受け、国鉄の赤字線問題を取り上げることにし、小委員会(主査:島田孝一・早稲田大学名誉教授)を発足させ検討した。1968年9月4日に諮問委員会の全体会議で意見書をまとめ、石田総裁へ提出した。意見書では、以下の要点が指摘された。
①いわゆるローカル線区の大半が、人口の過疎化、産業構造の変化、自動車の発達などで、輸送量は年々減少、それにつれ輸送量に比べ施設などが過剰の傾向を示し、国民経済的にマイナス、また、国鉄経営にとってお大きな負担となっている。
②鉄道と自動車の輸送コストを、同条件のもとで計算すると、1日1キロ当たりの輸送量が、旅客で1万5千人、貨物で2千トン以上は鉄道の方が、以下は自動車の方が、それぞれコスト安となる。
③この基準で、国鉄の線区を見ると、全体のうち88線区1万3400キロが鉄道の輸送分野、残りの7400キロが自動車の分野である。
ただ、自動車の分野とされた7400キロでも、実際にバス、トラックに切り替えられるか、鉄道網全体から見て、その線区の機能はどうか、沿線人口は減少しているかなど、9項目の基準を設けた。その結果、整理対象線区は、83線区2600キロ。いずれも、線路と並行して道路が整備され、自動車輸送に切り替えたほうが適当とされた。諮問委では、これまで国鉄・私鉄で、自動車輸送に切り替えた 柚木線(1967年に水害を理由に廃止)、杉津線(1962年の北陸トンネル開通で廃止された北陸本線の旧線である敦賀駅 - 今庄駅間)、 淡路交通鉄道線(1966年廃止)などの事例を調査し、切り替えに十分な手を打てば、地域の利便性はかえって高まるとされた。
意見書では、ローカル線が、全国均一運賃の採用で、原価の上では割高なのに、逆にバスより安い運賃になっていること。道路の新設や維持には地元負担が伴うのに、鉄道の場合は負担が無いばかりか、市町村納付金として、逆に地元財源を援助しているなどの矛盾を指摘した。自動車への切り替えが難しければ、採算の取れるような特別運賃の設定、地方公共団体が、その損失を負担するなどの方法を提案した。83線区2600キロを自動車輸送に切り替えると、今後10年間に約3千億円、20年間では9400億円も国鉄の負担が軽減され、鉄道近代化のための資金に活用できるとされた。当時、日本鉄道建設公団が建設を進めていた新線66線については、国鉄が要望する7線区(武蔵野線、 根岸線、 鹿島線、 湖西線など)を除いて建設を取りやめ、自動車輸送に合うよう計画を修正、同公団の力を新幹線網の建設に向けてほしいと望んだ。
石田国鉄総裁は、「ローカル赤字線問題は国鉄の体質改善をはかるうえで重要な問題であり、諮問委員会から廃止を勧告された線区は、地元の便益を十分確保しながら納得のいく方法で、なるべく早く自動車輸送に切り替えたい。できれば来年(引用者注:1969年)中にも、できるものから 運輸省に廃止申請を出したいと思うが、勧告された廃止赤字線区が最終的なものと決めたわけではなく、また、地元の意向を無視してごり押ししていくつもりもない。しかし、地元の理解と協力を求めたい」とコメントした[10]。
国鉄諮問委員長であった原安三郎(当時は日本化薬社長)は、読売新聞の「時の人」欄の記事で、「『実は、廃止したい路線が七千キロ以上もある。だが、国鉄の公共性を考えて、この程度に“遠慮”した』のだそうが、連日、国会議員や地元から電話で『本気でやるのか』と、問い合わせが殺到し『あきれた』という」と紹介された。当時の原は、1962年から国鉄諮問委員長を務めていた。原は、「先進国はどこでも赤字線をバスに切りかえている。石田国鉄総裁を全面的に支援して、是が非でも意見書通り実現させてみせる」「(引用者注:国鉄は)局長も課長も二年くらいでポストがかわってしまう。それも、無難に切り抜けようという安易さしかない。仕事をバトン・タッチする意欲がない。民間会社では考えられないことだ。これじゃ職員がみんなだらけてしまう」とコメントしていた。読売の記事では、「今回の意見書は、単に赤字路線の廃止をつきつけただけではなさそうだ。どこまで、国鉄がやる気をみせ、長年かかっても実現するかどうか見届けようというのが、この人の真意と受けとれた」と解説していた[11]。
意見書により、「使命を終えた」とされたローカル線の選定基準は次のとおりである。
- 営業キロが100 km以下で、鉄道網全体から見た機能が低く、沿線人口が少ない。
- 定期客の片道輸送量が3,000人以内、貨物の1日発着600 t以内。
- 輸送量の伸びが競合輸送機関を下回り、旅客・貨物とも減少している。
など
この基準により、83線 (2,590.6 km) が選定された。
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未達成な結果
要約
視点
1969年5月には、「日本国有鉄道財政再建促進特別措置法」が国会で成立した。この内容は、「昭和五十三年(引用者注:1978年)度までにその損益計算において利益が生ずるよう財政の健全性を回復することに置くものとする(第二条)」ことを目標として、そのための施策についての原則を定めたものだったが、赤字83線の廃止については、条文に明記されていない[12]。
国鉄諮問委員会は、1970年10月21日に意見書「国鉄の経営をいかにすべきか」を総裁に提出した。これは、全国247路線、約2万1千キロを、幹線系路線と地方交通線に分け、幹線67路線、約1万キロは自主経営、残りの地方交通線180路線、約1万1千キロは地方公共団体などとの共同経営(地方公社)か廃止するかについて国が審議する、地方交通線の赤字は、国や地方公共団体が負担するとの内容であった。
各地で反対運動が盛り上がるなど、地方の抵抗が強く、赤字83線で、提言が出た直後の1969年 - 1972年に廃止できたのは、幸袋線、根北線、鍛冶屋原線、三国線、篠山線、川俣線、札沼線のみであった。赤字83線には入らなかった路線でも、胆振線(京極駅 - 脇方駅間)、舞鶴線支線(中舞鶴線、東舞鶴駅 - 中舞鶴間)は、同時期に廃止された。
1972年度国鉄予算案では、廃止までの間、運営費を国と地方自治体で補助する「地方閑散線運営費補助金」が盛り込まれたが、実現しなかった。これは、沿線住民が閑散線区の存続を望む場合、各市町村は年間3億円ずつ運行費を負担するか、または廃止に協力した場合は国鉄が各市町村に対し、鉄道1キロあたり300万円ずつ特別支給金を交付するという内容であった[13]。
1972年(昭和47年)までに廃止されたのはわずか11線 (116.0 km) であった[1]。この他に83線に含まれていなかった4線 (19.0 km) も廃止されており、合わせて15線 (135.0 km) が廃止されている。
しかし、この間にも日本鉄道建設公団(鉄道公団)によるローカル線建設は続行され、廃止の一方で新たなローカル線が開業し、これら新線が新たな赤字を生み出すという矛盾が生じていた。赤字83線の取組み中に開業したローカル新線は、11線 (163.0 km) で、結局差し引きほぼゼロという奇妙な状態であった。
1972年(昭和47年)7月、田中角栄が内閣総理大臣に就任すると、この赤字路線廃止の取組みはあえなく打ち切られることになった。田中は自著『日本列島改造論』において、「赤字の地方線撤去は、論外。私企業と同じ物差しで国鉄の赤字を論じて再建を語るべきではない。」と主張している。田中は鉄道公団の生みの親ともいうべき人物である。
赤字83線の整理が中途半端に終わったことが、1980年代に特定地方交通線転換への強力な取組みにつながった。赤字83線に名を挙げられながら生き残ったローカル線の多くも特定地方交通線に名を連ねたが、その大半が廃止となり、第三セクター鉄道やバスへ転換された。最終的な転換特定地方交通線の数は、奇しくも同数の83線であったが、赤字83線と特定地方交通線では選定基準が異なるため、全く同じでは無い。
一方で、「赤字」に上げられながら新規に延伸し、現在もJR線として存続している路線も存在するが、それらの路線の大半が赤字83線の挫折以後も存廃を論議されたことのある状態である。
赤字83線とその後
要約
視点
以下本項では便宜上、意見書が提出された1968年(昭和43年)9月以降、1972年(昭和47年)7月7日の田中内閣発足までを取組み期間とする。路線名称は1968年当時のもの。
赤字83線として廃止された路線
赤字83線としての廃止は免れたものの、その後の取組みによって廃止された路線
存続している路線
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同時期に廃止された83線以外の路線
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(参考)赤字83線取組み以降、国鉄分割民営化までに開業したローカル線
要約
視点
赤字83線取組み終了後に開業した指定路線の延長区間については上記参照。(具体的には、白糠、阿仁合、古江、日ノ影、気仙沼、越美北、三江、宇和島、牟岐の各線)
赤字83線取組み期間中に開業したもの
赤字83線指定路線以外の路線
赤字83線指定路線の延長区間
赤字83線取組み終了後に開業した、赤字83線指定路線以外の路線
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脚注
参考文献
関連項目
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