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第36回衆議院議員総選挙
1980年に行われた日本の衆議院選挙 ウィキペディアから
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第36回衆議院議員総選挙(だい36かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1980年(昭和55年)6月22日に日本で行われた国会(衆議院)議員の総選挙である。
自民党が過半数を占める中で提出された内閣不信任案が事前の予測に反して可決され、解散に至ったことから、この解散は、「ハプニング解散」という俗称で知られている[1]。
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概要
与党内の対立によって内閣不信任決議案が可決する[2]という不測の事態で突如行われた解散総選挙であり(ハプニング解散)、前回の第35回衆議院議員総選挙からわずか8か月後に実施された(第25回総選挙からバカヤロー解散までの約6か月に次いで短い記録である)。結果として第12回参議院議員通常選挙と同日に実施されたが、これは史上初の衆参同日選挙であった。
この選挙期間中の6月12日に現職内閣総理大臣の大平正芳が急死するという事態が起こった。日本国憲法第70条では、衆議院議員総選挙後に初めて国会の召集があった時に内閣は総辞職するものと定めている。これは衆議院議員総選挙によって新たに衆議院が構成されることになることから、たとえ同一の者が内閣総理大臣に指名されるとしても内閣は新たにその信任の基礎を得るべきという趣旨からである[3]。一方で、70条では「内閣総理大臣が欠けたとき」には内閣はその中核的存在を欠くことになるため当然に総辞職しなければならないともしている[4][5]。そこで、衆議院解散から国会召集時までに「内閣総理大臣が欠けたとき」となった場合(総辞職すべき事由が重なる場合)については、以下の憲法解釈が対立する[6]。
- ただちに総辞職すべきと解する学説
- 「内閣総理大臣が欠けたとき」ではあるが、このような場合には国会召集時までは総辞職すべきでないと解する学説
この大平の急逝時においては、同日中に第2次大平内閣は総辞職した(職務執行内閣に移行し、国会召集時の総辞職を行わなかった)[7]。これは内閣総理大臣が欠けた時点で、内閣はすでに形式上総辞職しており、国会召集時に重ねて総辞職することは不可能との解釈をとったもので、上に示されたうち、前者の学説に沿ったものである[8]。
現職総理総裁の大平が死去したまま衆院選の投票日に突入したが、自民党としては誰が次期総理候補なのかは明白ではないまま選挙戦となった。大平が担っていた総理総裁権限については首相権限は伊東正義官房長官が総理臨時代理として、総裁権限は西村英一自民党副総裁が総裁代行としてそれぞれ職務を担当したが、選挙戦の結果西村は落選。伊東は当選するも後継総理を辞退、党内調整を経て自民党総務会長だった鈴木善幸が後継総理総裁となった(西村裁定)。
現職総理のみならず同日の参院選でも当選候補の過労死が発生している。
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選挙データ
内閣
解散日
解散名
公示日
投票日
改選数
- 511議席
選挙制度
- 選挙権
- 満20歳以上の日本国民
- 被選挙権
- 満25歳以上の日本国民
- 有権者数
- 80,925,034(男性:39,171,128 女性:41,753,906)
同日実施の選挙等
- 国民投票
選挙活動
党派別立候補者数
選挙結果
要約
視点
自民党執行部は不信任案に反対した田中・大平両主流派や旧中間派の議員と反主流派のうち本会議に出席して不信任案に反対した中曽根派議員を第1次公認とし、欠席した反主流派の議員は第2次公認という形を取った。当初は分裂選挙の様相を呈していたが、選挙中であった6月12日に大平正芳首相が急死するという緊急事態が起こり、それを受けて自民党主流・反主流両派は一転して融和・団結し、総裁代行となった田中派の西村英一副総裁と内閣総理大臣臨時代理に就任した大平派の伊東正義内閣官房長官が二人三脚で選挙運動を遂行するなか、全党一丸となって弔い選挙の様相を見せて選挙戦を進めた。
22日の投票で自民党は安定多数を超える284議席を獲得し大勝したが、一方で副総裁の西村英一と元法務大臣の稲葉修が落選。また同時に実施された参院選でも自民党は追加公認を含めて過半数を10議席以上上回る69議席を獲得し勝利した[9]。不信任案を提出した野党、社会党は現状維持の107議席だったが、委員長の飛鳥田一雄は辛勝、書記長の多賀谷真稔と後に総理大臣となる村山富市が落選した。公明党と共産党は大敗を喫し、民社党は微減、新自由クラブは議席を2ケタに回復した。これで6年間続いた衆参両院における与野党伯仲状態は完全に解消した。大平の死と引き換えに得た大勝利であった。
また、個別の選挙区の結果としては上記のとおり、自民党大勝の中心として後継総裁候補とも見られていた西村英一が大分2区で落選し、総務会長だった鈴木善幸が新たな総理総裁となった。また、東京6区では自民党唯一の公認女性候補だった山口シヅエが議席を失い、自民党、すなわち与党所属の女性衆議院議員(代議士)が不在となった。「自民党」と「与党」の双方における女性代議士の不在は、この13年後、1993年に行われた第40回衆議院議員総選挙まで続いた。
党派別獲得議席
- 投票率:74.57%(前回比:
6.56%)
- 【男性:73.72%(前回比:
6.30%) 女性:75.36%(前回比:
6.80%)】
党派別当選者内訳
- 無所属当選者の内訳は保守系(9)、中道系(2)である。
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政党
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議員
要約
視点
当選者
自由民主党 社会党 公明党 民社党 共産党 新自由クラブ 社民連 無所属
補欠当選等
初当選
- 35名
- ※:参議院議員経験者
- 自由民主党
- 18名
- 日本社会党
- 7名
- 日本共産党
- 2名
- 新自由クラブ
- 4名
- 社会民主連合
- 1名
- 無所属
- 3名
返り咲き・復帰
- 計44名
- 自由民主党
- 24名
- 日本社会党
- 13名
- 公明党
- 1名
- 新自由クラブ
- 4名
- 無所属
- 2名
引退・不出馬
- 計6名
- 自由民主党
- 5名
- 日本社会党
- 1名
落選
- 計74名
- 自由民主党
- 12名
- 日本社会党
- 19名
- 公明党
- 25名
- 日本共産党
- 12名
- 民社党
- 3名
- 無所属
- 3名
記録的当選・落選者
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選挙後
国会
- 衆議院議長選挙(1980年7月17日 投票者数:507 過半数:254)
- 福田一 (自民党) :505票
- 無効 : 2票
- 衆議院副議長選挙(1980年7月17日 投票者数:508 過半数:255)
- 内閣総理大臣指名選挙(1980年7月17日)
- 衆議院議決(投票者数:509 過半数:255)
- 内閣総理大臣指名選挙(1982年11月26日)
- 衆議院議決(投票者数:497 過半数:249)
- 中曽根康弘(自民党) :287票
- 飛鳥田一雄(社会党) :102票
- 竹入義勝 (公明党) : 34票
- 佐々木良作(民社党) : 31票
- 宮本顕治 (共産党) : 29票
- 田川誠一 (新自由ク): 13票
- 無効 : 1票
政党
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脚注
関連項目
参考文献
外部リンク
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