豊橋市
愛知県の市 ウィキペディアから
愛知県の市 ウィキペディアから
豊橋市(とよはしし)は、愛知県の東三河地方にある市。中核市に指定されている。愛知県庁から東三河地域に関する一部機能を移管した東三河県庁を有する東三河の中心都市。1906年(明治39年)市制施行。
この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
とよはしし 豊橋市 | |||||
---|---|---|---|---|---|
| |||||
| |||||
国 | 日本 | ||||
地方 | 中部地方、東海地方 | ||||
都道府県 | 愛知県 | ||||
市町村コード | 23201-7 | ||||
法人番号 | 3000020232017 | ||||
面積 |
262.00km2 | ||||
総人口 |
363,332人 [編集] (推計人口、2024年8月1日) | ||||
人口密度 | 1,387人/km2 | ||||
隣接自治体 |
豊川市、新城市、田原市 静岡県:浜松市、湖西市 | ||||
市の木 | くすのき | ||||
市の花 | つつじ | ||||
市の歌 |
豊橋市歌、躍進 豊橋音頭、ちぎり音頭 | ||||
豊橋市役所 | |||||
市長 | 浅井由崇 | ||||
所在地 |
〒440-8501 愛知県豊橋市今橋町1番地 北緯34度46分09秒 東経137度23分30秒 豊橋市役所 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
ウィキプロジェクト |
愛知県の南東部に位置する。東三河地方における経済・交通の中心である。市の人口は約36万人で県内5位。
総務省が定める中京大都市圏および静岡・浜松大都市圏域外であり独立した都市圏を形成しており[1]、豊橋都市圏の人口は約67万人である。2020年(令和2年)の昼夜間人口比率は97.1%である。
中世から江戸時代まで市の中心部は吉田(よしだ)と呼ばれていた。吉田という地名は全国各地にあったため、三州吉田と呼ばれることが多かった。
吉田は豊川と朝倉川の合流地点であり、渥美郡、宝飯郡、そして八名郡の境目に当たる。江戸時代には 吉田藩の城下町、吉田宿の宿場町、豊川水運で栄えた湊町であった。明治2年6月(1869年)の版籍奉還で、吉田から豊橋に改称した。
市徽章は、江戸時代末、吉田城に8代君臨した長沢・松平・大河内(ながさわ・まつだいら・おおこうち)家が用いていた馬印を横から見た形の千切(ちぎり)である。
三河港や豊川用水を有する。16世紀の今橋城(のち吉田城と改称)建築以来、東三河の中心に台頭し、江戸時代は特に、三州吉田藩の城下町、東海道五十三次の吉田宿・二川宿があった。幕末の石高は7万石であり、岡崎藩や西尾藩を上回って三河国内では最大だった。
伊勢神宮の神領の一覧表である神鳳鈔に、吉田御園と記載があり、神宮雑書にも、建久3神領注文、外宮領、承平年間宣下、長寛1免租。神宮雑書・建久3神領注文 = 吉田御園、外 = 給主故少納言重綱(藤原ヵ)所由 = 件御園、雑(新ヵ)神戸内往古神領也、承平以後官符宣旨重畳之上、長寛元年重被下奉免宣旨也 = 供祭物、上分米3石、雑用料17石、件上分米近年不究済之・神鳳鈔 = 吉田御園 = 外宮上分3石菓子、雑用20石・諸国御厨御園帳 = 吉田御園 = 3石、菓子、栗6篭。このことから、平安時代には、吉田の地名が確認できる。
今橋の初見は、応永5年11月22日の足利義満御判御教書の今橋御厨である。
貞応3年(1224年)頃の豊川は飽海川と呼ばれており、そこに架けられた橋の名前が今橋とされた。その後、大永2年(1522年)頃に今橋から吉田と改名されたという[2]。
牧野氏による吉田城築城のくだり(牛窪記)や、天文年中の牧野氏・今川氏の書状に見え、今橋跡職、名字之知にて御座候間、という今川氏への訴状。藩翰譜の牧野氏の項目に、今橋城が吉田城と改名されたという解説。天文年中の今川氏の書状で三州吉田という用語が見え、今橋が使用されなくなっている事実などから、牧野氏が治めていた時代には今橋が使用されていたが、今川氏が直轄支配の時代になると、吉田がもっぱら使われ、今橋は使用されなくなる。
徳川家の史料である三河物語や家忠日記では一貫して吉田となっており、伊勢神宮の史料でも吉田御園であり、今川氏による三河国領土化・吉田城の取得以後、一貫して吉田と呼称され、今橋が廃号となっていることなどからも、今橋が吉田に改称されたとは言い切れないだろう。
遊嚢賸記には、今橋ハ渡津ノ今道ヘカケタル故ノ名ナルベシ、という記述があり、東関紀行の文中にある、渡津の今道、という文言に今橋は由来するという。
前述の通り明治新政府は当時の三河国吉田藩の藩名が伊予国吉田藩(宇和島藩の支藩)(旧愛媛県北宇和郡吉田町、現愛媛県宇和島市)に似て紛らわしいとのことで藩名変更の命を下した[3]。その命を受け藩主は「豊橋、関屋、今橋」の3つの名を選んだ。新政府はその一番目の「豊橋」を採用して、正式に「豊橋藩」という藩名とすることを命じた。その後廃藩置県の後も豊橋の名が使われる。
『三州吉田記』の記述にあるように、酒井忠次の吉田川(豊川)への架橋以前に、橋は存在しておらず、鎌倉時代の史書(『東関紀行』・『海道記』・阿仏尼の『うたたねの記』および『十六夜日記』)にも、川の浅瀬を渡っていることが記述されている。 徳川氏の武将の酒井忠次が、1570年(元亀元年)、関屋口から下地にかけて吉田川(豊川)に吉田大橋(土橋)を架ける土木工事を実施した。[4]その後、池田輝政が、船町を整備し前城主・酒井忠次が吉田川に架けた土橋の吉田大橋を木橋に架け替え、その位置も整備した下流の船町に移動させた。『三州吉田記』に「元亀元年、関屋之渡口始メテ土橋ヲ架ス」とあり、1591年(天正19年)にこの土橋を船町へ移すと記す。江戸時代には、江戸幕府が整備、管理する長さ120間の大橋であった。
この船町の吉田大橋(吉田橋)は、明治時代に架け替えた時、とよはしと名称を変更した。さらに、昭和に入ってから国道1号を整備した際、その上流(関屋口から下地)に新たに掛けられた橋を、以前の船町で呼称していた吉田大橋(よしだおおはし)と、再び名付けた。この国道整備により、かつての東海道は愛知県道496号白鳥豊橋線として県道になり、正式にはもともと架かっていた県道の大橋(西側の橋)の名を豊橋(とよはし)とするようになった。ただ、市名と橋名を区別するため、橋名を(とよばし)と呼ぶようになった。国土交通省は、豊橋(橋)の名前を(とよはし)として、登録している。
豊川(とよかわ)というのは、古代律令制の三河国宝飯郡豊川郷に由来する。平城宮出土木簡に「参河国寶飯郡豊川郷」。長岡京出土木簡に、「延暦10年豊川里」。鎌倉時代になって鎌倉街道が整備されると「豊川宿」として機能した。鎌倉時代の史書では『海道記』に「豊河の宿」とある。『東関紀行』に「豊川といふ宿」と記載される。そして、現在の愛知県豊川市に至る。
豊川(とよがわ)は、古代律令制では飽海川(あくみがわ)と呼ばれた[要出典]。飽海(あくみ)とは渥美郡のことであり、7世紀までは、飽海(あくみ)と書かれたことが835年(承和5年)の木簡(太政官符)で確認されている。その後、室町時代から江戸時代までは吉田川と呼ばれた。[要出典] ことが『三河国聞書』から確認できる。1622年(元和8年)成立の『三河物語』においても、吉田河と記載されている。1849年(嘉永2年)の『徳川実紀』においても、吉田川と記載されている。愛知県図書館所蔵の江戸後期の三河国図においても、吉田川と記載されている。
中世から江戸時代まで、豊橋は吉田(三州吉田)と呼ばれていた。明治2年6月の版籍奉還で、吉田を豊橋と改めた。明治2年9月に成立した伊那県足助庁作成の三河国全図に、豊川(とよがわ)と記載されている。
愛知県の南東部に位置し、渥美半島の付け根部分にある。豊橋平野の上に市域が広がっており、豊川や梅田川などが流れる。南部は高師原、天伯原と呼ばれる台地となっている。
主な山として北東部の石巻山(358メートル)などがあり、弓張山地が静岡県との県境を形成している。南部は太平洋と接しており、片浜十三里(表浜海岸)と呼ばれる海岸はウミガメの産卵で知られる。三河湾沿岸には大規模な埋立地があり、工業用地や神野新田などの農業用地となっている。
南海トラフ巨大地震が発生した際には、最大7mの津波が到達することが予想されている。これは愛知県下の市町村で田原市と並び最も高い値である[5]。
気候は年間を通じて比較的温暖であり、冬季の降雪や積雪はほとんどない。
豊橋(2006年 - 2020年)の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 17.0 (62.6) |
21.7 (71.1) |
22.7 (72.9) |
26.7 (80.1) |
30.3 (86.5) |
34.1 (93.4) |
35.7 (96.3) |
37.9 (100.2) |
35.5 (95.9) |
30.8 (87.4) |
26.1 (79) |
22.4 (72.3) |
37.9 (100.2) |
平均最高気温 °C (°F) | 9.2 (48.6) |
10.4 (50.7) |
14.0 (57.2) |
18.6 (65.5) |
23.2 (73.8) |
25.9 (78.6) |
29.6 (85.3) |
31.5 (88.7) |
28.4 (83.1) |
23.2 (73.8) |
17.3 (63.1) |
11.8 (53.2) |
20.3 (68.5) |
日平均気温 °C (°F) | 5.4 (41.7) |
6.4 (43.5) |
9.5 (49.1) |
14.3 (57.7) |
19.0 (66.2) |
22.3 (72.1) |
26.0 (78.8) |
27.5 (81.5) |
24.4 (75.9) |
19.1 (66.4) |
13.3 (55.9) |
8.0 (46.4) |
16.3 (61.3) |
平均最低気温 °C (°F) | 1.9 (35.4) |
2.5 (36.5) |
5.2 (41.4) |
10.0 (50) |
15.1 (59.2) |
19.2 (66.6) |
23.2 (73.8) |
24.3 (75.7) |
21.0 (69.8) |
15.4 (59.7) |
9.3 (48.7) |
4.1 (39.4) |
12.6 (54.7) |
最低気温記録 °C (°F) | −4.3 (24.3) |
−4.4 (24.1) |
−1.6 (29.1) |
1.3 (34.3) |
8.3 (46.9) |
12.9 (55.2) |
18.7 (65.7) |
19.3 (66.7) |
12.5 (54.5) |
6.5 (43.7) |
0.7 (33.3) |
−2.2 (28) |
−4.4 (24.1) |
降水量 mm (inch) | 50.3 (1.98) |
79.9 (3.146) |
127.5 (5.02) |
150.9 (5.941) |
178.1 (7.012) |
184.6 (7.268) |
198.6 (7.819) |
126.8 (4.992) |
206.9 (8.146) |
210.9 (8.303) |
79.6 (3.134) |
57.2 (2.252) |
1,651.3 (65.012) |
平均降水日数 (≥1.0 mm) | 5.3 | 6.4 | 8.4 | 9.3 | 8.9 | 11.3 | 10.8 | 7.1 | 10.7 | 10.0 | 6.7 | 5.5 | 100.5 |
平均月間日照時間 | 197.8 | 178.4 | 210.2 | 207.9 | 223.7 | 161.8 | 186.6 | 236.8 | 171.1 | 166.1 | 170.0 | 183.4 | 2,293.8 |
出典1:Japan Meteorological Agency | |||||||||||||
出典2:気象庁[6] |
豊橋市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 豊橋市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 豊橋市
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
豊橋市(に相当する地域)の人口の推移
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||
総務省統計局 国勢調査より |
長らく愛知県第2の都市であったが、平成の大合併で市域が拡大したり名古屋の郊外都市として宅地造成が活発な豊田市、岡崎市、一宮市に抜かれ、国勢調査に基づいた2018年10月1日時点の推計人口は373,592人であり、県内では第5位となっている[7]。
豊橋市の人口は2009年を境に減少に入り[8]、2019年の統計では日本人人口は2,525人の転出超過となり、全国の市町村で6番目の多さとなった[9]。職を理由に首都圏や名古屋圏に人口が流出しており、住宅確保を理由に隣の豊川市にも流出している[10]。2060年には豊橋市の人口が30万人を割り込むという厳しい将来推計が出されている[11]。
2018年(平成30年)12月現在の豊橋市における外国人登録者数は17,775人が居住しており、県内では名古屋市と豊田市に次ぐ数である[12]。 これは市民全体の約4.6%に当たる。そのため当市は外国人市民への対応を積極的に進めてきた[13]。
豊橋市牛川町で1957年と1959年に約十万年前のものとされる人骨が発見され、牛川原人(牛川人)として紹介されていたが、2001年にお茶の水女子大学の教授である松浦秀治がその骨をフッ素年代測定法で調査したところ、ナウマンゾウのすねの骨という結果が出た。そのため人骨である可能性は低いとされる。
縄文時代の遺跡として嵩山(すせ)の蛇穴遺跡など数件がある。
弥生時代の遺跡として瓜郷遺跡がある。
市域に流れる川の流域には4世紀から7世紀頃の古墳(円墳、前方後円墳)も多く発見されている。
律令制(国郡制)の下で、三河国の渥美郡、宝飯郡、八名郡に属したとされる。 律令制の下で班田制が敷かれていたとされる遺跡が、嵩山や賀茂などで見つかっている。
また、初期の東海道が設置され、飽海川(あくみがわ、現在の豊川)河口には渡し場が置かれた。これは飽海川の渡しと呼ばれ、後に志香須賀(しかすが)の渡しとして『枕草子』の「渡は」の段などでも言及されており、よく知られている。飽海川はその後、吉田川に改称され、明治以降に豊川に改称された。「豊川」とは、現在の豊川市にあった古代集落・宝飯郡豊川郷を指す。
交通の要衝のこの地に目を付けた戸田全久(宗光)が二連木城(豊橋市仁連木町)を築城(1493年)、その後、西方の至近距離に、牛窪城(豊川市牛久保町)の牧野古白(成時)が今橋城(豊橋市今橋町)を築城した(1505年)。
1505年当時、東三河に今川氏の影響力が及んでおり、北条早雲を総大将とする今川氏親軍が三河国に侵攻し、今橋合戦で今橋城の牧野古石を討つなどしたが、松平長親との井田野合戦(岡崎市井田町)で敗北している。
その後、三河牧野氏と、二連木城等を有する戸田氏の間で抗争が起きたが、やがて、西三河をまとめた岡崎城の松平清康が東三河に侵攻、吉田城に篭る牧野信成、宇利城に篭る熊谷氏が防戦したが、戸田氏他の東三河の勢力も清康に降参し、ここに初めて、松平家による三河国統一が実現される。
しかしながら、森山崩れによって松平清康が横死したため、三河国は大混乱に陥り、東から今川義元、西から織田信秀が侵攻し、三河国は彼らの属領争奪の場と化す。 領国の蚕食を受けた松平氏は衰退し、今川氏の傘下となる。松平氏が撤退した後の吉田城は、城番の牧野成敏が城主となったが、その後これを略取した戸田宣成が、牧野氏の要請を受けた今川氏により討たれ、今川氏の直接支配となった。
1560年(永禄3年)桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、徳川家康は岡崎城に入城し、今川氏真を見限って独立を宣言。1565年(永禄8年)3月に吉田城が開城し、所属の今川軍と主将小原鎮実は遠江国に撤退した。家康は、重臣の酒井忠次を吉田城に入城させ、東三河の旗頭となした。そして、翌1566年(永禄9年)5月には牛久保城(豊川市)に残存勢力を結集していた牧野氏などの土豪なども家康の降伏の勧めに応じて、三河国は家康によりほぼ再統一された。
安土桃山時代、1590年(天正18年)に、関東移封で徳川家康が駿府から江戸に遷ると、池田輝政が東三河4郡を統べる吉田城主(15万2千石)となり、城の拡張や城下町の形成、吉田川(豊川)への吉田大橋(現在の豊橋)の建設(酒井忠次による土橋から木橋へ)などが行われた。
関ヶ原の戦いの後、江戸時代に入ると、吉田藩が設置され、3万石から8万石程度の譜代大名が治めた。吉田は城下町、湊町(吉田湊)、宿場町(吉田宿)として栄え、二川(豊橋市二川町、大岩町)も二川宿として栄えた。海道の脇街道として姫街道の八名郡嵩山(すせ)に嵩山宿が置かれた。吉田大橋(豊橋)は東海道におけるその重要性から、江戸幕府直轄の橋として管理された。 1752年には、藩主松平信復により吉田城内に藩校時習館が置かれた。
幕末の慶応3年7月27日(1867年8月)、牟呂村(現豊橋市牟呂町)で伊勢神宮のお札が降ったといわれる。 江戸時代、最後の藩主は、大河内長沢松平家の大河内信古である。そのため、今の市役所の徽章が大河内長沢松平家の徽章になっている。
1908年(明治41年)から1925年(大正14年)までは高師原に陸軍第15師団が置かれるなど、豊橋は軍都として繁栄した。こうした影響から市内の歓楽街も盛況を見せる一方、1915年(大正15年)の人口1万人に対する花柳病の患者数は約400人と名古屋市の5倍となった[16]。
また明治から昭和の初めまでは養蚕業、製糸業が非常に盛んであった。 太平洋戦争の最中には、1944年(昭和19年)12月7日の東南海地震と、1945年(昭和20年)6月20日のB29、136機による空襲(豊橋空襲)によって、市街地の7割が焼失した。
終戦後には将来の発展を見越して市街地の大規模な土地区画整理と戦災復興都市計画が実施されている。また、食料対策として高師原、天伯原の開墾と神野新田等の自作農化が行われた。 一方で、日本紡績(現・ユニチカ)を始めとした工場誘致活動を積極的に行い、郊外に工場が建てられていった。 農工業の発展で新たな水源が求められていた中、1968年(昭和43年)には豊川用水が完成し農業・工業の発展に寄与した。
1970年代から30年間にもわたって、全国の都市の中で農業粗生産額第1位を続けた。1959年(昭和34年)に完成した豊橋港(現在は三河港の一角)は、三河港の中心として発展した。1980年代以降、市街地の郊外化が進んだ。
郡 | 明治22年以前 | 明治22年10月1日 | 明治22年 - 明治45年 | 大正1年 - 大正15年 | 昭和1年 - 昭和64年 | 平成1年 - 現在 | 現在 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
渥 美 郡 |
吉田城下 | 豊橋船町 | 豊橋町 | 明治28年1月25日 合併 豊橋町 |
明治39年7月15日 合併 豊橋町 |
明治39年8月1日 市制 豊橋市 |
豊橋市 | 豊橋市 | 豊橋市 | 豊橋市 | ||||
豊橋湊町 | ||||||||||||||
豊橋上伝馬町 | ||||||||||||||
豊橋八町 | ||||||||||||||
豊橋関屋町 | ||||||||||||||
豊橋本町 | ||||||||||||||
豊橋札木町 | ||||||||||||||
豊橋呉服町 | ||||||||||||||
豊橋曲尺手町 | ||||||||||||||
豊橋下モ町 | ||||||||||||||
豊橋鍛冶町 | ||||||||||||||
豊橋松葉町 | ||||||||||||||
豊橋萱町 | ||||||||||||||
豊橋花園町 | ||||||||||||||
豊橋三浦町 | ||||||||||||||
豊橋指笠町 | ||||||||||||||
豊橋新銭町 | ||||||||||||||
豊橋魚町 | ||||||||||||||
豊橋紺屋町 | ||||||||||||||
豊橋神明町 | ||||||||||||||
豊橋清水町 | ||||||||||||||
豊橋手間町 | ||||||||||||||
豊橋吉屋町 | ||||||||||||||
飽海村 | 豊橋村 |
豊橋村 | ||||||||||||
仁連木村 | ||||||||||||||
東田村 | 東田村 | 豊岡村 | 豊岡村 | |||||||||||
瓦町村 | 瓦町村 | |||||||||||||
下岩崎村 | 岩田村 | 岩田村 | ||||||||||||
田尻村 | ||||||||||||||
平川新田 | ||||||||||||||
上岩崎村 | 岩崎村 | |||||||||||||
手洗村 | ||||||||||||||
飯村 | ||||||||||||||
三ノ輪村 | ||||||||||||||
花ケ崎村 | 花田村 | 花田村 | 花田村 | |||||||||||
羽田村 | ||||||||||||||
高足村 | 高師村 | 高師村 | 高師村 | 明治39年8月31日 合併 高師村 |
高師村 | 昭和7年9月1日 豊橋市に編入 | ||||||||
高足新々田 | ||||||||||||||
高足原尾先新田 | ||||||||||||||
藤並新田 | ||||||||||||||
森田新田 | ||||||||||||||
芦原新田 | ||||||||||||||
橋良村 | 福岡村 | 福岡村 | 福岡村 | |||||||||||
小浜村 | ||||||||||||||
小池村 | ||||||||||||||
佐藤村 | ||||||||||||||
山田村 | ||||||||||||||
小松新田 | ||||||||||||||
大崎村 | 大崎村 | 大崎村 | ||||||||||||
東植田村 | 植田村 | 植野村 | 明治24年11月10日 分立 植田村 | |||||||||||
西植田村 | ||||||||||||||
津田新田 | ||||||||||||||
野依村 | 野依村 | 明治24年11月10日 分立 野依村 | ||||||||||||
仏餉村 | ||||||||||||||
切反ケ谷村 | ||||||||||||||
草間村 | 磯辺村 | 磯辺村 | 磯辺村 | 磯辺村 | ||||||||||
向草間村 | ||||||||||||||
松井新田 | ||||||||||||||
上原新田 | ||||||||||||||
上牟呂村 | 牟呂村 | 牟呂村 | 牟呂村 | 明治39年7月1日 合併 牟呂吉田村 |
牟呂吉田村 | |||||||||
中牟呂村 | ||||||||||||||
下牟呂村 | ||||||||||||||
松島新田 | ||||||||||||||
富田新田 | ||||||||||||||
野田村 | 豊田村 | 東豊田村 | 吉田方村 | 吉田方村 | ||||||||||
吉川村 | ||||||||||||||
三相村 | ||||||||||||||
馬見塚村 | 西豊田村 | |||||||||||||
高須新田 | ||||||||||||||
青竹新田 | 青野村 | |||||||||||||
茅野新田 | 茅野新田 | |||||||||||||
土倉新田 | ||||||||||||||
下野新田 | ||||||||||||||
富久縞新田 | ||||||||||||||
加藤新田 | ||||||||||||||
牧新田 | ||||||||||||||
中村新田 | ||||||||||||||
宝 飯 郡 |
下地村 | 下地村 | 明治24年10月16日 町制 下地町 |
明治39年7月1日 合併 下地町 |
下地町 | |||||||||
大磯村 | 大村 | 大村 | 大村 | 大村 | ||||||||||
沖木村 | ||||||||||||||
住吉村 | ||||||||||||||
柴屋村 | ||||||||||||||
大蚊里村 | ||||||||||||||
長瀬村 | ||||||||||||||
下五井村 | 鹿菅村 | 鹿菅村 | ||||||||||||
瓜郷村 | ||||||||||||||
横須賀村 | 津田村 | |||||||||||||
藪下新田 | ||||||||||||||
清須新田 | ||||||||||||||
八 名 郡 |
五井村 | 西下条村 | 下条村 | 下条村 | 明治39年7月1日 合併 下川村 |
下川村 | ||||||||
八反ケ谷村 | ||||||||||||||
天王村 | ||||||||||||||
暮川村 | ||||||||||||||
藤ケ池村 | 東下条村 | |||||||||||||
竹之内村 | ||||||||||||||
堀之内村 | ||||||||||||||
白石新田 | ||||||||||||||
犬之子村 | ||||||||||||||
牛川村 | 牛川村 | 牛川村 | 牛川村 | |||||||||||
浪之上村 | ||||||||||||||
若宮村 | ||||||||||||||
野川新田 | ||||||||||||||
忠興新田 | ||||||||||||||
小鷹野新田 | ||||||||||||||
中沢新田 | ||||||||||||||
田中新田 | ||||||||||||||
多米村 | 多米村 | 美米村 | 明治25年12月23日 分立 多米村 |
明治39年7月1日 合併 石巻村 |
石巻村 | |||||||||
赤岩村 | ||||||||||||||
神郷村 | 三輪村 | 明治25年12月23日 分立 三輪村 |
石巻村 | 昭和30年3月1日 豊橋市に編入 | ||||||||||
金田村 | ||||||||||||||
神ケ谷村 | 神ケ谷村 | 玉川村 | 玉川村 | 玉川村 | ||||||||||
森岡新田 | ||||||||||||||
高井村 | ||||||||||||||
和田村 | ||||||||||||||
長楽村 | ||||||||||||||
嵩山村 | 嵩山村 | 嵩山村 | 嵩山村 | |||||||||||
月ケ谷村 | ||||||||||||||
長彦村 | ||||||||||||||
平野村 | 平野村 | 西郷村 | 西郷村 | |||||||||||
中野田新田 | ||||||||||||||
入文村 | 小野田村 | |||||||||||||
成沢村 | ||||||||||||||
馬越村 | ||||||||||||||
西川村 | ||||||||||||||
萩平村 | ||||||||||||||
中山村 | ||||||||||||||
渥 美 郡 |
大岩村 | 大川村 | 明治26年6月23日 町制 大川町 |
大川町 | 明治39年7月1日 合併 二川町 |
二川町 | 二川町 | |||||||
二川村 | 二川村 | |||||||||||||
大脇新田 | ||||||||||||||
雲谷村 | 谷川村 | 明治29年7月1日 分立 谷川村 | ||||||||||||
原村 | ||||||||||||||
中原村 | ||||||||||||||
上細谷村 | 五並村 | 上細谷村 | 細谷村 | 細谷村 | ||||||||||
下細谷村 | 下細谷村 | |||||||||||||
小島村 | 小島村 | 小沢村 | 小沢村 | |||||||||||
小松原村 | 小松原村 | |||||||||||||
寺沢村 | 寺沢村 | |||||||||||||
西七根村 | 七根村 | 高根村 | 高根村 | 明治39年8月31日 合併 高豊村 |
高豊村 | 高豊村 | ||||||||
東七根村 | ||||||||||||||
高塚村 | 豊南村 | 高塚村 | ||||||||||||
城下村 | ||||||||||||||
赤沢村 | 豊南村 | 豊南村 | 豊南村 | |||||||||||
万場新田 | ||||||||||||||
西伊古部村 | 伊古部村 | |||||||||||||
東伊古部村 | ||||||||||||||
北大津村 | 老津村 | 老津村 | 老津村 | 老津村 | 老津村 | |||||||||
南大津村 | ||||||||||||||
森崎新田 | ||||||||||||||
宝 飯 郡 |
前芝村 | 前芝村 | 前芝村 | 前芝村 | 前芝村 | 前芝村 | ||||||||
青木新田 | ||||||||||||||
山内新田 | ||||||||||||||
日色野村 | ||||||||||||||
梅藪村 | ||||||||||||||
渥 美 郡 |
杉山村 | 合併 杉谷村 (一部) |
分立 杉山村 |
杉山村 | 杉山村 | 明治39年9月10日 合併 杉山村(一部) |
杉山村(一部) | 杉山村(一部) | 昭和30年4月1日 豊橋市に編入 | |||||
神吉新田 | ||||||||||||||
八 名 郡 |
養父村 | 金沢村 | 金沢村 | 金沢村 | 金沢村 | 昭和26年4月1日 合併 双和村(一部) | ||||||||
御薗村 |
1906年(明治39年)8月1日に豊橋市が成立した。歴代市長は以下のとおりであるが、市長不在時期も多々ある。
代 | 氏名 | 就任日 | 退任日 |
---|---|---|---|
1 | 大口喜六 | 1907年1月7日 | 1912年1月10日 |
2 | 高橋小十郎 | 1912年2月12日 | 1913年3月8日 |
3 | 榊原弁吾 | 1913年8月29日 | 1914年3月28日 |
4 | 大口喜六 | 1914年4月27日 | 1916年2月20日 |
5-6 | 細谷忠男 | 1917年1月18日 | 1923年8月20日 |
7 | 吉川一太郎 | 1924年6月10日 | 1925年12月8日 |
8 | 田部井勝蔵 | 1926年8月5日 | 1930年8月4日 |
9 | 丸茂藤平 | 1930年8月30日 | 1934年8月29日 |
10 | 神戸小三郎 | 1934年9月3日 | 1938年7月7日 |
11 | 大口喜六 | 1938年9月17日 | 1940年12月10日 |
12 | 近藤寿市郎 | 1941年4月18日 | 1945年4月17日 |
13 | 水野保 | 1945年5月6日 | 1946年1月29日 |
14 | 横田忍 | 1946年3月29日 | 1947年4月4日 |
15-16 | 大竹藤知 | 1947年4月5日 | 1952年6月28日 |
17-18 | 大野佐長 | 1952年7月28日 | 1960年6月30日 |
19-22 | 河合陸郎 | 1960年7月1日 | 1975年3月26日 |
23-24 | 青木茂 | 1975年4月27日 | 1983年4月26日 |
25-28 | 高橋アキラ | 1983年4月27日 | 1996年10月2日 |
29-31 | 早川勝 | 1996年11月17日 | 2008年11月16日 |
32-34 | 佐原光一 | 2008年11月17日 | 2020年11月16日 |
35 | 浅井由崇 | 2020年11月17日 |
豊橋市役所 〒440-8501 豊橋市今橋町1番地
2015年1月に近隣の豊川市 · 蒲郡市 · 新城市 · 田原市 · 設楽町 · 東栄町 · 豊根村とともに、愛知県知事から許可を受けて東三河広域連合を設立した[24]。介護保険事業、市町村税の滞納整理、障害者支援区分認定審査会、消費者相談等に関する事務の一部、パスポート(一般旅券)の発行など業務を共同で実施している。
東三河広域連合の主たる事務所は、豊橋市職員会館(4階)に置かれている[25]。
2019年度(平成31年度)当初予算案[28]
会計名 | 予算額 | 前年度対比 |
---|---|---|
一般会計 | 1,297億4,000万円 | 1.1%減 |
特別会計 | 639億5,300万円 | 4.2%増 |
企業会計 | 619億6,100万円 | 2.9%増 |
全会計 | 2,556億5,400万円 | 1.1%増 |
2000年(平成12年)から2005年(平成17年)まで、普通交付税交付団体であった。「三位一体の改革」により交付税の削減が行われ、2006年(平成18年)度には交付税不交付団体になった。
2005年(平成17年)には愛知万博が開催された。名古屋市を除く愛知県内の市町村が、120の万博公式参加国をフレンドシップ相手国として迎え入れた[30]。
候補者名 | 当落 | 年齢 | 党派名 | 新旧別 | 得票数 |
---|---|---|---|---|---|
廣田勉 | 当 | 52 | 無所属 | 新 | 26,963票 |
竹上裕子 | 当 | 61 | 減税日本 | 新 | 16,090票 |
下奥奈歩 | 落 | 34 | 日本共産党 | 元 | 14,386票 |
検察庁はすべて豊橋市大国町111番地の「豊橋合同庁舎」の最上階である。
3つの裁判所が同じ庁舎に存在する。所在地は豊橋市大国町110番地。地方裁判所[注釈 2]と家庭裁判所の豊橋支部の管轄範囲は、豊橋市、豊川市、蒲郡市、新城市、田原市、北設楽郡である。また簡易裁判所の管轄は豊橋市、豊川市、蒲郡市、田原市である。
かつては製糸・紡績業が盛んだった。1927年時点の製糸生産高は長野県諏訪郡平野村(現在の岡谷市)に次いで全国第2位であり、大正・昭和戦前期には工業生産高の60-80%を製糸業が占めていた[34]。岡谷市や群馬県前橋市などとともに代表的な製糸都市であり、『豊橋音頭』には「三州豊橋糸の町」と唄われている[34]。また、1996年まで豊橋乾繭取引所があった。
市南部は畑が多く、キャベツ、白菜、トマトなど、露地または施設における野菜の栽培が盛んであり、牛、豚、鶏などの畜産も行われている[35]。市西部は水田が多く、稲作を中心としながら露地や施設の園芸が行われている。市北部では柿、なし、ぶどうなどの果樹栽培が盛んである[35]。 ちくわや寒天ゼリーといった加工食品も多く生産されている[36]。 農業産出額(農業粗生産額)では1967年(昭和42年)から2004年(平成16年)まで全国の自治体で第1位だった[35]。 2006年の農業産出額は474億円であり、724億円の田原市に次いで愛知県第2位、全国第6位だった[37]。
主な畜産業
豊橋を中心とした三河港は国内屈指の国際貿易港である。特に自動車の輸出入は金額・台数とも全国トップクラスであり[41]、ドイツのブレーマーハーフェン港と並ぶ自動車輸出入港である。
飲食関係
食品関係
自動車関係
製造関係
繊維関係
小売関係
その他
豊橋に拠点を置くマスメディアは、テレビ局1社、FM局1社、新聞社2社である。なお、名古屋に本社のあるメディアの中日新聞社、東海テレビ放送、CBCテレビ、名古屋テレビ放送、中京テレビ放送、東海ラジオ放送(一度撤退したが、2011年頃に再び「三河支局」の名で設置した)及びNHKは市内~三河地域の取材・営業拠点等の業務のため、支社・支局を置いている。なおその他の新聞社(朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞中部支社、日刊工業新聞社、静岡新聞社、静岡放送)も置いているところがある。
名古屋の放送局は豊橋中継所を設置している。かつてはCBCラジオが豊橋放送局内に設置した「向山スタジオ」から独自放送を行っていたが、2001年(平成13年)3月にスタジオを閉鎖した。また、東海ラジオも2000年(平成12年)頃まで豊橋放送局独自の番組を放送していた。
他の県内各市町村同様中日新聞が多数を占めている。次いで朝日新聞、読売新聞、毎日新聞などが続く。地元紙の東愛知新聞や東海日日新聞は1万部以下と極めて苦戦している。なお静岡県と隣接する地域なので、静岡県の地方紙である静岡新聞も購読可能である。
詳細は“豊橋中継局”を参照。
親局送信設備については東山タワーを参照。
いずれも空中線電力50W。
「本宮山」(岡崎市・旧額田町)の山頂に豊橋中継局(テレビ、FMラジオ)が設置されている。テレビは場所によっては二川中継所や田原中継所を利用する。AMラジオの豊橋中継所は豊橋市内に有る。
中心部を東海道が横断し、吉田宿、二川宿など古くから城下町、宿場町として栄えた。 現代でも東西の幹線として、東海道沿いに中心部を国道1号、JR東海の東海道新幹線、東海道本線、名古屋鉄道の名古屋本線が通り、南北の連絡線として飯田線・国道151号などが通る。 このため、三遠信における交通の要衝ともなっている。 また、三河湾岸の三河港は、自動車や貨物などの輸出入の重要拠点となっている。
中心駅:豊橋駅 鉄道事業法上の鉄道駅として中心となる豊橋駅は花田町にあり、全国初の民衆駅である。 市内の鉄道はJR、名鉄、豊橋鉄道の三社によって運営されている。 東海道新幹線が停車し、市内及び、周辺都市への玄関口となっている。 飯田方面にはJR飯田線が、田原方面には豊橋鉄道渥美線が伸びている。市内には豊橋鉄道の路面電車(東田本線)(軌道法適用の併用軌道)が走っており、旧吉田城下(豊橋公園前停留場・市役所前停留場)と豊橋駅・新豊橋駅ができたかつての渥美郡花田村(駅前停留場)を結んで市民の足として親しまれている。
※太字は豊橋市内の停車地
愛称名 | 運行会社 | 運行区間 | 昼/夜行 |
---|---|---|---|
首都圏発着 | |||
WILLER EXPRESS | 西三交通 | 東京駅八重洲口(BT東京八重洲)・横浜駅(YCAT) - 豊橋駅東口 | 昼行 |
TDL・TDS・池袋(サンシャインシティ) - 豊橋駅東口 | 夜行 | ||
VIPライナー | 平成エンタープライズ | 千葉駅・TDL・東京駅八重洲口(東京VIPラウンジ)・横浜駅東口 - 豊橋駅東口 | 夜行 |
新宿・豊橋エクスプレスほの国号 | 関東バス | 練馬駅北口・中野駅・バスタ新宿 - 豊橋駅前・藤沢町・植田車庫前 | 夜行 |
新宿駅西口 - 豊橋駅前・植田車庫前 | 昼行 | ||
JAMJAMライナー | ジャムジャムエクスプレス | TDL・バスタ新宿・横浜市(YCAT) - 豊橋駅東口 | 夜行 |
近畿圏発着 | |||
JAMJAMライナー | ジャムジャムエクスプレス | 神戸市(三宮)・大阪市(USJ・梅田)・京都市(京都駅八条口) - 豊橋駅東口 | 夜行 |
市街地を縦断する国道1号、市街地を避けて通る地域高規格道路の国道23号名豊道路の一部である豊橋バイパス・豊橋東バイパスが、自動車交通の中心となっている。 バイパス開通前までは、中心部では交通量が多く全て平面交差であるため、慢性的な渋滞が発生していた。特に、西八町交差点では国道1号、国道23号(蒲郡街道)、国道259号(田原街道)が交わるため渋滞が発生しやすく、周辺道路にも影響を与えていた。 バイパスは田園地帯を貫くように建設され、豊橋東バイパス・豊橋東IC - 豊橋バイパス・豊川為当IC(豊川市)は2013年6月に暫定2車線で全線開通(一部区間は4車線)し、市街地の渋滞緩和へ大きく寄与した。 一部区間を構成する豊川橋はかつて有料道路であったが2005年に無料化された。 田原市緑ヶ浜、明海町方面の交通分散化のため、国道259号バイパスの建設が進められている。
環状線では豊橋環状線および東三河環状線が、ゆっくりではあるが着実に整備が進められている。また、豊橋・豊橋東バイパスの開通に合わせ、各インターチェンジと市街地を結ぶ都市計画道路の建設・拡幅工事も行われている。
東名高速道路は、市域の北端を通過しているが、市内にはインターチェンジは設置されていない。このため、豊川IC(豊川市)や音羽蒲郡IC(豊川市)、三ヶ日IC(浜松市浜名区)、浜名バイパスを経由して浜松IC(浜松市中央区)や、浜松浜北IC(浜松市浜名区)などを利用するしかない。このような状態を解消するため、豊橋北バスストップ付近に豊橋新城スマートインターチェンジが設置される予定であり、令和3年8月3日に事業化された[42]。
市内を通る有料道路は、国道23号豊橋バイパスの一部である豊川橋が2005年に無料化されたのに続き、本坂トンネルが2008年に、小坂井バイパスが2016年にそれぞれ無料化され、現在は存在しない。また、市内東部の国道1号の県境付近の上り線では、静岡県警の電光掲示板が設置されている[注釈 4]。交通情報・交通案内は静岡県の物に準ずる。
|
|
従来、自動車のナンバープレートは、管轄する自動車検査登録事務所ごとに表示される地域名が決まり。 交付は愛知運輸支局豊橋自動車検査登録事務所で行われる。
日本アマチュアオーケストラ連盟の本部が置かれている。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.