富山県(とやまけん)は、日本の中部地方に位置する県。県庁所在地は富山市。
中部地方の日本海側、新潟県を含めた場合の北陸地方のほぼ中央にある。
富山県は、北方を日本海(大半は富山湾)、他三方を山脈で区切られている。令制国の越中国と領域を同じくする。
東の新潟県との県境は難所親不知として知られる。長野県との県境には飛騨山脈(北アルプス)が聳える。石川県との県境北部は宝達丘陵、南側は岐阜県などにまたがる両白山地である。南の岐阜県境には飛騨山脈や飛騨高地が控える。
山に囲まれているものの、西は倶利伽羅峠辺りで加賀国(現在の石川県南部)以西と結ぶ北陸道が通り、経済的・文化的結び付きは強い。戦国末期には越中の佐々成政と加賀の前田利家が争った。その後、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって越中は利家の子前田利長に与えられ、江戸時代の越中は加賀藩とその支藩である富山藩に統治されていた。廃藩置県では一時的に富山県(旧県)及び新川県が成立するも、人口が過小と見なされたことと歴史的経緯により、石川県に併合されてしまう。しかし、石川県議会では富山の水害復旧が放置された上に必要経費を石川側が独占する(県庁所在地の金沢の都市基盤整備などを優先する[1])形となり、治水はおろか生活や教育も苦しい状況となっていた。このような富山軽視の姿勢が目立ったことから分県運動が起こり[2]、旧越中国全域が分離独立する形で現在の富山県が成立した。
岐阜県境の山間部には「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として世界遺産(文化遺産)に登録されている五箇山、立山信仰などの山岳信仰で有名な立山連峰、山岳観光ルートの立山黒部アルペンルートなどがあり、日本で唯一氷河が現存する[3]。隣接する岐阜県北部の飛騨地方は、山々に遮られる形で岐阜市や名古屋市との交通の便が悪く、比較的近距離である富山県南部との経済的・文化的な結び付きが強い。そのため、富山(越中)と飛騨をあわせて飛越地方と呼ばれる事がある[4]。
北に面する富山湾は「世界で最も美しい湾クラブ」に加盟している。国際拠点港湾の伏木富山港は、北陸工業地域や環日本海貿易の拠点として発達した伏木港、富山港、富山新港の総称である。また、魚津、滑川、氷見などでは豊富な海産物が水揚げされる。うち、魚津から滑川にかけてはホタルイカの群遊海面、蜃気楼の見える海岸で有名である。
石川県からの独立を果たした明治から産業の発展が続き、北陸工業地帯を形成。YKKや三協立山など大手金属製品メーカーの発祥の地として知られる。北陸3県を中心に展開する北陸銀行や北陸電力などの本拠地でもある。
既に世界遺産(文化遺産)に登録されている「白川郷・五箇山の合掌造り集落」のほか、「近世高岡の文化遺産群」と「立山・黒部~防災大国日本のモデル-信仰・砂防・発電-~」の世界遺産(文化遺産)登録を目指す動きがある。「立山・黒部」については自然遺産、あるいは複合遺産としての登録を目指す可能性もある。
方言としては富山弁がある。地域によって、呉羽山周辺を境とする呉東方言と呉西方言、魚津弁などに分かれる。富山弁は北陸方言に属し、特に石川県の能登弁と類似性がある。「新鮮、生き生きとした、気力のある」を意味する「きときと」をはじめ、『広辞苑』に収められている言葉もある。
前述の「きときと」と表現される魚介類に加え、名水百選、平成の名水百選にそれぞれ県内から4か所が選ばれるなど、名水の産地として知名度が高い。
アクセントにおいて、「富山」の地名は、全国的には「とやま」と発音されるが、富山県全域、新潟県の上越市以西および岐阜県飛騨地方北部では「とやま」と平板に発音する。また、石川県加賀地方では「とやま」と発音する(太字はアクセントを置く部分)。
「富山」の地名のルーツについては富山市の地名の由来を参照のこと。
広袤
国土地理院の全国都道府県市区町村別面積調によると、富山県の面積は4247.54平方キロメートルである[5]。
国土地理院地理情報によると、富山県の東西南北それぞれの端は以下の位置である。加えて、および県境未確定地域に仮の境界線を入れて求めた重心も併記する。また統計局の平成27年国勢調査によると、人口重心は富山市呉羽本町付近にある。
概要 節内の全座標を示した地図 - OSM ...
閉じる
地理
長野県(旧信濃国)との間には険しい山脈(北アルプス、特に東寄りの後立山連峰)が聳える。踏破が容易でないが、江戸時代には加賀藩が奥山廻りを派遣して、地理の調査や信濃側からの材木盗伐取り締まりを行った。現代では登山者が多く、また1971年には富山県と長野県を直接結ぶ立山黒部アルペンルートが開通した。豪雪地帯であるため冬季は閉鎖されるうえ、マイカー規制などがあり、主にバスによる観光ルートとして使われる。登山やアルペンルート以外では、新潟県西部(糸魚川市や上越市など)を経由すれば、自動車や鉄道で長野県と行き来できる。
県の中部には、概ね複数の河川が形作った沖積平野の富山平野が広がる。山麓部には複数の川の扇状地が重なり合ってできた「複合扇状地」が見られる。
氷見市など県北西部は、能登半島の付け根の東側に当たる。
気候
富山県は日本海側気候であり、県内全域が豪雪地帯(一部地域は特別豪雪地帯)に指定されている[6]。夏はフェーン現象の影響で気温が上がり、高温多湿。標高の高い南部の山岳地帯は亜寒帯湿潤気候に属し寒さが厳しい。特に立山連峰は世界有数の豪雪地帯であり、立山および剱岳周辺には、氷河が確認されている。
しかし近年では、暖冬傾向にあり、降雪日数は減少してきている。
さらに見る 平年値 (月単位), 沿岸部 ...
富山県内各地の平年値(統計期間:1971年 - 2000年、出典:気象庁・気象統計情報)
平年値 (月単位) |
沿岸部 |
内陸部 |
氷見 | 高岡市 伏木 |
富山 | 魚津 |
朝日町 泊 | 富山市 秋ケ島 |
上市 | 富山市 八尾 |
砺波 | 南砺市 南砺高宮 |
平均 気温 (°C) |
最暖月 |
25.4 (8月) | 26.3 (8月) |
26.1 (8月) | 25.5 (8月) |
26.1 (8月) | |
23.9 (8月) | 25.6 (8月) |
25.4 (8月) | 25.0 (8月) |
最寒月 |
2.1 (2月) | 2.6 (2月) |
2.5 (1,2月) | 2.4 (2月) |
3.0 (2月) | |
0.2 (2月) | 1.8 (2月) |
1.8 (2月) | 1.6 (2月) |
降水量 (mm) |
最多月 |
245.3 (12月) | 249.4 (12月) |
255.4 (1月) | 265.8 (7月) |
295.5 (11月) | |
330.9 (7月) | 304.7 (1月) |
265.8 (1月) | 302.3 (1月) |
最少月 |
111.1 (4月) | 115.7 (4月) |
122.5 (4月) | 145.5 (4月) |
141.2 (4月) | |
181.7 (4月) | 127.4 (4月) |
115.6 (4月) | 126.6 (5月) |
閉じる
地域区分
伝統的に富山平野の中央部にある呉羽丘陵を境に東を呉東(ごとう)、西を呉西(ごせい)と呼んでいた。現在では市町村界によって区切った県東部・県西部という名称も使われている[注釈 1]。おおむね呉東・呉西に一致するが、富山市の呉羽地区及び婦負(ねい)地区(旧婦負郡)の一部は呉西でありながら県東部に属する。また、富山市婦負地区は、かつて気象庁の地方区分では県西部(西部婦負)に属していたが、行政区分との統一を図るため2006年3月1日より同市他地区と同じ県東部(東部南)へ管轄変更となった。
県東部から新川地区と富山地区、県西部を高岡・砺波地区とする3区分と南北に更に高岡・射水地域と砺波・小矢部地域として4エリアにする表記がある[7][8]。
本県には10市(2郡)4町1村の計15の自治体がある。自治体数15は47都道府県の中で最も少なく、最も多い北海道(179)のおよそ12分の1である。「町」の読みはすべて「まち」だが、地元の人々の中で「ちょう」と読む人が多くいる。「村」の読み(舟橋村一村のみ)は「むら」。また、富山県内の自治体におけるウェブサイトのURLは、富山県のサイトも含めすべてwww.(市町村区別).(自治体名).toyama.jpとなっており、lg.jpを採用する自治体がない唯一の都道府県となっている(富山県公式ウェブサイト 県内の市町村情報も参照)。
富山県は都市雇用圏として県全体が富山都市圏に属している(2015年)。都市圏の中心である富山市とその周辺自治体は人口減が緩慢だが、県西部・東部は減少率が高く県下第二の都市である高岡市さえも例外ではない。
富山県市町村人口増減率分布図(2015年度と2020年度国勢調査から算出)
増加
5.0 - 7.49 %
|
減少
0.0 - 2.5 %
2.5 - 5.0 %
5.0 - 7.5 %
7.5 - 9.99 %
|
|
富山県と全国の年齢別人口分布(2005年)
| 富山県の年齢・男女別人口分布(2005年) |
■紫色 ― 富山県 ■緑色 ― 日本全国
| ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 |
富山県(に相当する地域)の人口の推移
1970年(昭和45年)
| 1,029,695人
|
|
1975年(昭和50年)
| 1,070,791人
|
|
1980年(昭和55年)
| 1,103,459人
|
|
1985年(昭和60年)
| 1,118,369人
|
|
1990年(平成2年)
| 1,120,161人
|
|
1995年(平成7年)
| 1,123,125人
|
|
2000年(平成12年)
| 1,120,851人
|
|
2005年(平成17年)
| 1,111,729人
|
|
2010年(平成22年)
| 1,093,247人
|
|
2015年(平成27年)
| 1,066,328人
|
|
2020年(令和2年)
| 1,034,814人
| |
|
総務省統計局 国勢調査より |
都市
- 富山県内市別人口ランキング
概要 県内順位, 都市 ...
県内順位 |
都市 |
地域区分 |
人口 |
県内順位 |
都市 |
地域区分 |
人口 |
1 |
富山市 |
呉東地方 |
404,385人 |
6 |
氷見市 |
呉西地方 |
40,404人 |
2 |
高岡市 |
呉西地方 |
160,209人 |
7 |
魚津市 |
呉東地方 |
38,106人 |
3 |
射水市 |
呉西地方 |
88,725人 |
8 |
黒部市 |
呉東地方 |
38,197人 |
4 |
南砺市 |
呉西地方 |
44,609人 |
9 |
滑川市 |
呉東地方 |
31,728人 |
5 |
砺波市 |
呉西地方 |
46,810人 |
10 |
小矢部市 |
呉西地方 |
27,424人 |
2017年12月 現在 |
閉じる
- 富山県内市別人口密度ランキング(2016年(平成28年)現在)
- 射水市(1,990人/km2)
- 高岡市(1,940人/km2)
- 滑川市(1,650人/km2)
- 砺波市(1,250人/km2)
- 富山市(337人/km2)
県政
歴代知事(公選)
- 初代 館哲二(1947年4月19日〜1947年11月15日、1期)
- 2代 高辻武邦(1948年11月23日〜1956年9月30日、2期)
- 3代 吉田実(1956年9月30日〜1969年12月1日、4期)
- 4代 中田幸吉(1969年12月30日〜1980年9月18日、3期)
- 5代 中沖豊(1980年11月11日〜2004年11月8日、6期)
- 6代 石井隆一(2004年11月9日〜2020年11月8日、4期)
- 7代 新田八朗(2020年11月9日〜、1期目)
財政
平成18年度
- 財政力指数 0.4159
- 標準財政規模 2647億円
- 普通会計歳入 5206億円
- 経常収支比率 94.5%
- 人口一人当たり地方債残高 89万6267円 普通会計分のみ
- 実質公債費比率 16.3%
- ラスパイレス指数 96.3
地方債等の残高
- 1 普通会計分の地方債 9954億円
- 2 上記以外の特別会計分の地方債 902億円
- 3 第三セクター等の債務保証等にかかわる債務 264億円
地方債等の合計 1兆1120億円 (連結会計)
広域行政
富山県内における広域行政の主な形態は以下の通り。
- 東部
- 富山地区広域圏事務組合(富山市・滑川市・上市町・立山町・舟橋村) - ごみ処理
- 中新川広域行政事務組合(上市町・立山町・舟橋村) - 下水道、介護保険
- 新川広域圏事務組合(魚津市・黒部市・入善町・朝日町) - ごみ処理、し尿処理、斎場
- 西部
- 砺波広域圏事務組合(砺波市・南砺市) - ごみ処理、救急医療、上水道、ケーブルテレビ事業(ケーブルテレビ事業に限り小矢部市も含む)
- 砺波地域消防組合(砺波市・南砺市・小矢部市) - 広域消防
- 高岡地区広域圏事務組合(高岡市・小矢部市・氷見市) - ごみ処理、ソフト事業(広域観光など)
産業
富山県は古来より米所であった。特筆すべき資源として、豊富な水資源とそれを利用した水力発電がある。富山県は明治から昭和にかけてこの電力を生かして第一次産業から第二次産業、つまり日本海側屈指の工業地域北陸工業地域へと産業シフトを果たした。第三次産業の情報処理業はインテックなど企業向けの事業者がバックボーンである。一方で美術(アート&デザイン)への関心が比較的高く、多くの美術館や、地方としては珍しいアニメ制作会社(P.A.WORKS)がある。
第一次産業
農地は減少傾向にあるが、耕作地における水田率は全国1位 (95.9%)。明治時代から続く砺波地区やその後に発展した入善地区においてはチューリップの栽培が盛んであり、異彩を放っている[221]。北部に占める富山湾の恩恵により、漁業も盛んであったが、近年は定置網漁を除く、その他の漁業は衰退の傾向にある。しかし、国民のグルメ指向と輸送時間の短縮化により、従来は移送が不可能であったシロエビなど、今まで売れなかった商品が注目されている。
- 農業:米、砺波のチューリップ、福光の干し柿、入善のジャンボ西瓜(黒部西瓜)
- 漁業 - 富山湾は「天然のいけす」と呼ばれるほど豊かな漁場で[222]、漁業や魚介類を使う水産加工・食品産業(鱒寿司など)が発達している。他県に無い特色としては伝統的なブリ定置網漁、日本唯一の群泳海域を持つホタルイカ漁、保存技術の発達で可能になったシロエビ漁など。また、元々は捨てられていたゲンゲ(幻魚)は網に掛かったものが食用とされている。カニ籠漁は魚津が発祥である。
- 林業 - 山の大半が国立公園のため、あまり盛んではない。[要出典]
第二次産業
富山県は日本海側最大の工業集積地であり、北陸工業地域の中核である。ライフラインや銀行の本店があり、北陸経済の重要な拠点となっている。
立山連峰の豊富な水資源と水力発電を利用して産業が発達している。特に電気料金は北陸電力が日本で最も安い電気料金を実現しており[223]、多量の電気を必要とするアルミニウム精錬とその関連産業が栄えてきた。臨海部を中心として石油精製、重化学工業、各種電気製造が発達している。特定重要港湾の伏木富山港では大量の原料の輸入と製品の輸出が行われている。
「越中の薬売り」の伝統から医薬品の製造・販売が盛んである。製薬業は景気後退や高齢化の進行に強い。ジェネリックブームの恩恵もあり、平成不況の中でも安定している。
第三次産業
商業
県外への輸出は伝統的に富山の売薬やブリ街道が有名である。古くから北前船で知られる日本海側貿易の中継拠点であったが、現代ではさらに環日本海貿易の拠点として発達し、中古車などの取引拠点となっている。
県内商業としては伝統的には富山市の総曲輪(そうがわ)などの中心市街地が栄えていた。近年では車社会化(モータリゼーション)が進行し、幹線道路沿いの郊外店が主流となっている。それに伴い大型店舗化が進行している[224]。富山市と高岡市の商圏は県内のみならず岐阜県飛騨地方や新潟県上越地方をも収めるが、隣県の石川県金沢市の商圏と競合関係にある。
消防
- 単独設置
- 組合設置
- 砺波地域消防組合(砺波市、南砺市、小矢部市)
- 富山県東部消防組合(魚津市、滑川市、上市町、舟橋村)
- 舟橋村は常備消防が未設置で救急業務のみを立山町に委託していたが、組合加入により委託を取り止めることになった。
- 新川地域消防組合(黒部市、入善町、朝日町)
道路
道路整備率は75.7%(2006年)と全国で最高水準にある[225]一方で、混雑率は大都市圏よりはるかに低い(1,079台/124時間)[225]。
港
富山湾に設けられた湾港群は、古くより沿岸貿易路の中継拠点であった。現代では環日本海貿易のハブ(中継路)として、そして北陸工業地帯と世界をアクセスする。
富山湾は黒潮親潮の潮境が生み出す豊穣な漁場であるため、漁港としても重要である。
学校登山
- 今も昔も縁の下の力持ちとして物事を成し遂げるような我慢強い県民性の基となっている。
- 江戸時代 - 県民の今も昔も心の中に立山が存在し、心の拠り所になっている[226]。本県でのかっての立山禅定登山の伝統に時は遡ること江戸時代、旧越中国の多くの村では、男子は15歳又は16歳になると成人儀礼として集団で立山(雄山)も登拝する風習があり、この立山詣りで一人前と認められた[227]。日本での学校登山の草分けである。
- 戦国時代 - 富山県は、散居景観(散居村)で知られる砺波平野(となみへいや)に所在する。戦国時代には加賀一向一揆が越中へ浸透し、上杉謙信が越中を平定した。散居景観は、加賀一向一揆を引きずった結果という説もある[228]。
- 明治時代以降 - 明治以来、富山県内の小学校で、学校行事として立山で学校登山が行われてきた[229]。富山中学校では、大正4年から学校登山が行われたが、教師3名の引率で全校生徒から希望者を募って、30名近くの生徒が参加した。また、約百名の希望者がいて立山登山へのあこがれが強かったという[230]。
- 昭和期 - 昭和期になると登山ブームが起きて、県外から登山客が激増し、子どもたちが山小屋に到着した時には、満員で宿泊を断られるような危険性と隣り合わせだった[229]。さらに、当時は煙たく、八畳に25人で横になることもできない状態だったようで、逃げるように翌朝早く小屋を出発したとある。この体験から、雇った案内人4人の内、二人を先に行かせて宿を確保するようにしたとある。昭和9年に藤橋まで軌道が利用できるようになって、1日目に室堂まで行けるようになり1日短縮するも、一日の行程が延びただけで、小学生の足では小屋に15時までには着けない[230][231]。
- 戦時中 - 戦況が悪化した昭和18年には[232]、「健民運動夏季心身鍛練実施要項」「国民学校体練科教授要項改正」[229]で、ついに立山登山が修練のための強制参加となった。 富山中学校では厳格な健康診断を実施して身体強健な者を少数だけ遥び[229]3年生140名が2班に分かれ、第1隊約100名は雄山・浄土・立山温泉の2泊3日コースで、策2隊約40名が 1泊2日で雄山登頂のみのコースである[230]。
- 戦後 - 富山市立愛宕小学校は昭和24年に立山登山を行ったが、その後昭和36年まで、小学校で立山登山は継続して行われた様子はない。小学校の先生が引率してたとはいえ、麓から歩いて3泊4日から6泊7日である。佐々成政の「さらさら越え」と比べうる。
- 立山黒部アルペンルート全通後 - 富山地方鉄道立山駅から美女平駅までの区間の立山ケーブルカーが開業したのは1954年(昭和29年)。昭和20年代の早い時期から立山登山を実施して富山市立芝園中学校では「例年落伍者が5. 6名は出た」が、教員たちは、そうした生徒を介助しながら登ったようである[229]。 立山黒部アルペンルートが全通開通したのは、1971年(昭和46年)6月1日である[233]。バスで室堂まで移動して一泊二日。小学校で出発式を終えて学校集団登山をして、全員無事で帰校式を終える[234][235]。
- 近年 - 2003年(平成15年)7月、小学生が転落し収容先の病院で死亡が確認される事故が起こって以後、学校からの登山の計画や届出での規則が強化された[注釈 4]。また、県教育委員会主催で県下から小学6年生を募集し「12歳立山夢登山」も行なっている[229]。
新聞社
- 補足
富山県は全国紙の発行本社が東京本社・大阪本社とそれぞれ別になっている。
放送局
- テレビ
- 補足
- ラジオ
- コミュニティFM
- 呉西地区
- ラジオたかおか (高岡市・富山新聞/北國新聞系列・ミュージックバードを配信)
- エフエムとなみ (砺波市・北日本新聞系列・ミュージックバードを配信)
- エフエムいみず (射水市・北日本新聞系列・J-WAVEを配信)
- 呉東地区
富山県・石川県のほとんどのコミュニティ局は新聞社系列となっており、富山ではより顕著になっている。
- ケーブルテレビ
- 補足
上記の大半が富山県ケーブルテレビ協議会加盟局であり、あわせて県内世帯カバー率100%を達成している。また、全局で石川県の北陸朝日放送(ANN系)が区域外再放送により視聴可能だが、TXN系列局は再放送が行われていない。
県民性
貯蓄率は高く、「越中の一つ残し」と言われるほどである。「自分の家を持って一人前」という風潮があり、持ち家率は全国最高である[注釈 5]。さらに家のサイズ(延べ床面積)も全国一大きい[注釈 6]。
子弟の教育にも熱心な傾向があり、全国学力調査など教育関係の統計で、上位に位置することが多い[247]。
大家族傾向がある[注釈 7]ため、世帯収入が全国最高水準である[注釈 8]。逆に生活保護家庭の割合は極端に低く、全国ワーストである[注釈 9]。
乳幼児を祖父母などに預けることが比較的容易なこともあって、共働き率が全国最高水準である[注釈 10]。石川の「嫁は越中から貰え」という格言は、富山の女性は働き者とされるところからきている。コロッケの消費が多いのも共働きが多いからとされる。
「サラリーマン小説」を得意にした富山市出身の源氏鶏太は「富山県人である宿命」(『わが文壇的自叙伝』集英社)に同窓会に出てみんな泥くさいとし「私自身、極めて泥くさい人間であることを知っているし、それが富山県人の特性であると信じている。ただし、あえて弁解すれば、泥くさいということは、軽薄でないということだ」と書いている。
富山で過ごしたことがある宮本輝『天の夜曲 流転の海・第四部』には主人公の友人・久保敏松が富山人というのは、地味ではあっても、進取の気概を内に秘めていて、粘り強く自分の仕事に工夫を凝らすという特質を持っているような気がする、という。
この勤倹克己を地で行くような県民性は、安田財閥で安田講堂に名を残す安田善次郎や、浅野財閥の浅野総一郎、ホテルニューオータニの大谷米太郎のような経済的成功者を多く生み出してきた。
海産物を好む食文化を持っており、魚介類の消費額が全国一多い[248]。特にコンブ、ブリ、イカの消費額が群を抜いて大きい[248]。
北陸地方は一向一揆で知られる浄土真宗が盛んで、歴史的にも富山県民の価値観にも強い影響を与えてきた。たとえば堕胎・間引きを忌んだことから、江戸時代から人口増加率が特に高く、全国に移住者を出していた[249]。関東での銭湯経営者に新潟県と共に富山県出身者が多い理由は、これは厳しい仕事だからとされる。北海道開拓においても、富山県出身者が有意に多く[250]、北方領土からの引揚者も北海道に次ぎ2番目に多い。北陸銀行も北海道各地に支店が存在し、北海道銀行とほくほくフィナンシャルグループとして経営統合するに至った。
県内の広範囲から見られる立山連峰は、山岳信仰の舞台になっていて立山は富士山・白山と共に日本三霊山の一つである。
北陸地方は熱烈な野球ファンは少ないとされるが[251]、富山県ではプロ野球チームの中では読売ジャイアンツ(巨人)のファンが多いとされる[252][253][254]。一方で中日ドラゴンズも富山で主催試合を複数回開催しており、1999年時点では中日球団公認の高岡銅器を製造・販売している業者がいたことも報じられているが[255]、中日ファンは少数派とされている[256]。ちなみに、フジテレビアナウンサーの石本沙織は巨人ファン、千葉ロッテマリーンズの石川歩は中日ファン、元鹿島アントラーズの柳沢敦は阪神タイガースファンを公言している。これは、「富山県民は人と違うことをしたがらない」とされる県民性があるからである。
県民性に関する本の多くは浄土真宗信者の勤勉さと家族の絆、富山の売薬によるパイオニア精神などを通して、勤勉でありながら、結婚式などのライフイベントでお金を蕩尽する部分にフォーカスしている。NHKなどの県民調査では石川県とのライバル意識が強いとされる。
食文化
- 郷土料理
スポーツ
- 世界遺産
- 国宝
- 瑞龍寺 仏殿、法堂、山門(高岡市)
- 勝興寺 本堂、大広間及び式台(高岡市)
- 重要伝統的建造物群保存地区
- 山町筋(高岡市)
- 金屋町(高岡市)
- 吉久(高岡市)
- 越中五箇山相倉集落(南砺市)
- 越中五箇山菅沼集落(南砺市)
富山県が友好関係を有する地域は以下の通り。
このほか、製薬産業が盛んな共通点で協力するため、スイスのバーゼル=シュタット準州、バーゼル=ラント準州と交流協定を結んでいる[262]。
太字は映画化またはテレビドラマ化された作品。
映画
注釈
残るJR在来線はすべて地方交通線で、非電化・単線となっている。
あいの風とやま鉄道線高岡駅 - 富山駅 - 黒部駅間で毎時概ね2本、富山地方鉄道本線電鉄富山駅 - 寺田駅間は頻発。
県教委によれば、ここ数年では県内で立山登山を行った小中学校は60-70校で推移しているという[236]。
富山県83.9%、全国平均64.3%、東京都47.2%(2005年)統計局国勢調査調査開始以来全国1位
富山県156.9m2、全国平均95.2m2、東京都65.9m2(2005年) 統計局国勢調査
富山県3.01人、全国平均2.60人、東京都2.17人(2005年)統計局国勢調査 福井山形に次ぐ全国3位
富山県0.59世帯、全国平均2.14世帯、大阪府4.35世帯(2005年)社会福祉行政業務報告の引用 100世帯あたりの生活保護世帯数
富山県56.57%、全国平均44.43%、奈良県36.30%(2005年)統計局国勢調査の引用福井山形に次ぐ全国3位
出典
『デジタル鳥瞰 47都道府県庁所在都市 東日本編』(2015年8月6日、講談社発行、八幡和郎著)
北アルプス立山連峰で発見の氷の塊が日本初の氷河の可能性高いと、立山カルデラ砂防博物館学芸員。 2010/11/30 17:05 共同通信配信
『日本書紀』崇神天皇10年秋7月条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
『国史大系第七巻』所収『古事記』中巻・垂仁天皇条、1898年(明治31年)7月、経済雑誌社
『古事記伝』二十五巻にこれを「越中国婦負郡白鳥神社」、「新川郡鳥取郷」に比定する説あり(本居宣長『古事記伝』三、1930年(昭和5年)5月、日本名著刊行会)
富山県編『越中史料』第1巻、1909年(明治42年)9月、富山県
『日本書紀』景行天皇25年7月3日条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
『先代旧事本紀』巻十「国造本紀」より(『国史大系』第七巻、1898年(明治31年)8月、経済雑誌社)
『日本書紀』仲哀天皇元年閏11月4日条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
『日本書紀』敏達天皇2年5月3日条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
『日本書紀』敏達天皇3年5月5日条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
『日本書紀』崇峻天皇2年7月1日(壬辰)条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
『日本書紀』皇極天皇元年9月21日条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
大屋愷敆編『富山県史談』、1894年(明治27年)12月、大橋書店
『日本書紀』斉明天皇4年4月条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
『日本書紀』斉明天皇6年2月条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
高瀬重雄編、『日本歴史地名大系第16巻 富山県の地名』、2001年(平成13年)7月、平凡社
野崎雅明『肯構泉達録』、1892年(明治25年)1月、富山日報社
富山県『越中史料』第1巻、1909年(明治42年)9月、富山県
『続群書類従』第三輯上神祇部所収「類聚既験抄」、1924年(大正13年)2月、続群書類従完成会
『古事類苑』地部二、1913年(大正2年)7月、神宮司庁
佐伯有義編、『富山県神社祭神御事歴』、1924年(大正13年)5月、富山県神職会
寺島良安『和漢三才図会』第三冊、1901年(明治34年)11月、中外出版社
神道大系編纂会編、『神道大系神社編三十四 越中・越後・佐渡国』、1986年(昭和61年)7月、神道大系編纂会
神道大系編纂会編『神道大系文学編一 神道集』、1988年(昭和63年)2月、神道大系編纂会
富山大百科事典編集事務局編『富山大百科事典』、1994年(平成6年)8月、北日本新聞社
『続日本紀』大宝2年3月甲申条(『国史大系』第二巻、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
日本歴史地理学会校訂、『大日本地誌大系 諸国叢書北陸之壱』、1917年(大正6年)4月、大日本地誌大系刊行会
『続日本紀』慶雲3年2月26日条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
『続日本紀』和銅2年3月壬戌条(『国史大系』第二巻、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
『続日本紀』養老3年7月9日条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
『続日本紀』養老3年7月13日条(『国史大系』第二巻、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
文部省編、『史蹟調査報告第六輯』、1932年(昭和7年)2月、文部省
『続日本紀』天平4年5月乙巳条(『国史大系』第二巻、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
『類聚三代格』巻三(仏事下)(『国史大系』第十二巻、1900年(明治33年)9月、経済雑誌社)
『国史大辞典第二巻』、1980年(昭和55年)1月、吉川弘文館
『続日本紀』天平13年12月丙戌条(『国史大系』第二巻、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
『続日本紀』天平16年9月甲戌条(『国史大系』第二巻、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
『続日本紀』天平18年4月丙戌条(『国史大系』第二巻、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
『続日本紀』天平18年6月壬寅条(『国史大系』第二巻、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
佐伯昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校註『萬葉集』四、2003年(平成15年)10月、岩波書店
神道大系編纂会編『越中国神社由来』、『神道大系 神社編三十四 越中・越後・佐渡国』所収、1986年(昭和61年)7月、神道大系編纂会
鹿持雅澄、『万葉集古義 七』、1932年(昭和7年)6月、精文館
森斌、「家持天平二十年出挙の諸郡巡行歌の特質」、『広島女学院大学日本文学』第12号、2002年(平成14年)7月、広島女学院大学
『続日本紀』天平宝宇元年5月8日条(『国史大系』第二巻、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
『続日本紀』天平宝字2年9月28日条(『国史大系』第二巻、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
『続日本紀』宝亀6年3月2日条(『国史大系』第二巻、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
『続日本紀』宝亀10年12月14日条(『国史大系』第二巻、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
神道大系編纂会編、『神道大系首編一 神道集成』、1981年(昭和56年)3月、神道大系編纂会
『日本逸史』延暦14年8月18日条(『国史大系』第六巻、1897年(明治30年)12月、経済雑誌社)
『日本後紀』延暦23年6月10日条(『国史大系』第三巻、昭和41年8月、吉川弘文館)
『日本逸史』大同3年5月24日条(『国史大系』第六巻、1897年(明治30年)12月、経済雑誌社)
『公卿補任』(第一篇)大同元年条(『国史大系』第五十三巻、1964年(昭和39年)7月、吉川弘文館)
『日本紀略』弘仁元年5月27日条(『国史大系』第五巻、1897年(明治30年)12月、経済雑誌社
『日本後紀』弘仁6年2月9日条(『国史大系』第三巻、昭和41年8月、吉川弘文館)
『続日本後紀』承和7年9月29日条(『国史大系』第三巻、1897年(明治30年)6月、経済雑誌社)
『続日本後紀』承和12年9月1日条(『国史大系』第三巻、1897年(明治30年)6月、経済雑誌社)
『日本文徳天皇実録』斉衡元年3月7日条(『国史大系』第三巻、1897年(明治30年)6月、経済雑誌社)
『日本文徳天皇実録』斉衡元年12月27日条(『国史大系』第三巻、1897年(明治30年)6月、経済雑誌社)
『日本文徳天皇実録』貞観元年1月27日条(『国史大系』第三巻、1897年(明治30年)6月、経済雑誌社)
『日本文徳天皇実録』貞観2年5月29日条(『国史大系』第三巻、1897年(明治30年)6月、経済雑誌社)
『日本三代実録』貞観4年10月9日条(『国史大系』第四巻、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
『日本三代実録』貞観5年6月17日条(『国史大系』第四巻、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
『日本三代実録』貞観5年8月15日条(『国史大系』第四巻、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
『日本三代実録』貞観5年9月25日条(『国史大系』第四巻、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
『日本三代実録』貞観6年3月23日条(『国史大系』第四巻、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
『日本三代実録』貞観9年2月27日条(『国史大系』第四巻、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
『日本三代実録』貞観9年10月5日条(『国史大系』第四巻、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
『日本三代実録』貞観15年12月15日条(『国史大系』第四巻、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
『日本三代実録』貞観16年7月11日条(『国史大系第四巻』、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
『日本三代実録』元慶2年5月8日条(『国史大系第四巻』、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
『日本三代実録』元慶3年2月8日条(『国史大系第四巻』、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
『日本三代実録』元慶3年10月29日条(『国史大系』第四巻、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
『日本三代実録』元慶7年1月26日条(『国史大系』第四巻、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
『日本三代実録』仁和2年12月18日条(『国史大系』第四巻、1897年(明治30年)7月、経済雑誌社)
『日本紀略』寛平元年8月22日条(『国史大系』第五巻、1897年(明治30年)12月、経済雑誌社)
東京大学史料編纂所編『大日本史料』第一編之二、1928年(昭和3年)3月、東京大学出版会
蘆田伊人編『大日本地誌大系 三州地理誌稿』、1931年(昭和6年)、雄山閣
神道大系編纂会編、『神道大系古典編十二 延喜式(下)』、1993年(平成5年)8月、神道大系編纂会
皇典講究所・全国神職会校訂『校訂延喜式』上巻、1929年(昭和4年)9月、大岡山書店
馬渕和夫・国東文麿・今野達校註『今昔物語集一』、1971年(昭和46年)7月10日、小学館
東京大学史料編纂所編『大日本史料第二篇之十二』、1971年(昭和46年)12月、東京大学出版会
『朝野群載』巻22諸国雑事上(『国史大系第二十九巻上』、1964年(昭和39年)11月、吉川弘文館)
『扶桑略記』巻29(『国史大系第六巻』、1897年(明治30年)12月、経済雑誌社)
『朝野群載』巻6(『国史大系第二十九巻上』、1964年(昭和39年)11月、吉川弘文館)
藤原宗友編『本朝新修往生伝』、1882年(明治15年)1月、永田文昌堂
源光圀編『大日本史』二百五十九巻、1907年(明治40年)、徳川総子(出版)
『百錬抄』巻9(『国史大系』第十四巻、1901年(明治34年)5月、経済雑誌社)
藤原兼実『玉葉』第二巻(巻第三十八)、1906年(明治39年)6月、国書刊行会
市古貞次校註、『平家物語ニ(日本古典文学全集30』、1975年(昭和50年)6月、小学館
町田嘉章・浅野建二編『日本民謡集』、1960年(昭和35年)9月、岩波書店
『国史大辞典』第十二巻、1991年(平成3年)6月、吉川弘文館
東京帝国大学編『大日本史料』第五編之五、1926年(大正15年)3月、東京帝国大学
『吾妻鏡』巻六、文治2年6月21日条(『国史大系』第三十二巻、1964年(昭和39年)7月、吉川弘文館)
『愚管抄』巻5(『国史大系』第十九巻、1964年(昭和39年)12月、吉川弘文館
梶原正昭校註、『義経記』、2000年(平成12年)1月、小学館
『吾妻鏡』巻七、文治3年3月2日条(『国史大系』第三十二巻、1964年(昭和39年)7月、吉川弘文館)
東京帝国大学編『大日本史料』第四編之一、1902年(明治35年)8月、東京帝国大学
東京帝国大学文学部史料編纂掛編『大日本史料』第四編補遺別冊一、1920年(大正9年)1月、東京帝国大学
東京帝国大学編『大日本史料』第四編之八、1908年(明治41年)12月、東京帝国大学
佐々木月樵編、『親鸞伝叢書』、1908年(明治41年)7月、無我山房
妻木直良編『真宗全書33』、1913年(大正2年)1月、蔵経書院
東京帝国大学編『大日本史料』第四編之十六、1918年(大正7年)3月、東京帝国大学
『吾妻鏡』巻廿五、承久3年5月25日条(『国史大系第三十二巻』、1964年(昭和39年)7月、吉川弘文館)
『吾妻鏡』巻廿五、承久3年6月8日条(『国史大系』第三十二巻、1964年(昭和39年)7月、吉川弘文館)
望月信亨『望月仏教大辞典』第二巻、1932年(昭和7年)9月、世界聖典刊行協会
『続愚史抄』十九、正慶2年2月19日条(『国史大系』第十三巻、1966年(昭和41年)3月、吉川弘文館)
後藤丹治・釜田喜三郎校註、『太平記』一(日本古典文学大系34)』、1960年(昭和35年)8月、岩波書店
東京帝国大学編『大日本史料』第六編之二、1901年(明治34年)10月、東京帝国大学
富田景周編『三州志 故墟考 図譜村籍』、1884年(明治17年)6月、益智館
東京帝国大学編『大日本史料』第六編之六、1907年(明治40年)3月、東京帝国大学
塙保己一編、『群書類従』第九輯(巻二百三十一)、1894年(明治27年)3月、経済雑誌社
東京帝国大学編『大日本史料』第六編之八、1908年(明治41年)12月、東京帝国大学
東京帝国大学編、『大日本史料』第六編之九、1910年(明治43年)3月、東京帝国大学
東京大学史料編纂所編、『大日本史料』第六編之十三、1972年(昭和42年)5月、東京大学出版会
東京大学史料編纂所編、『大日本史料』第六編之十五、1972年(昭和42年)10月、東京大学出版会
東京大学史料編纂所編『大日本史料』第六編之十六、1972年(昭和42年)12月、東京大学出版会
東京大学史料編纂所編『大日本史料』第六編之二十四、1973年(昭和48年)12月、東京大学出版会
東京大学史料編纂所編『大日本史料』第六編之二十九、1974年(昭和49年)4月、東京大学出版会
東京大学史料編纂所編『大日本史料』第六編之三十二、1974年(昭和49年)6月、東京大学出版会
東京大学史料編纂所編『大日本史料』第六編之三十四、1975年(昭和50年)3月、東京大学出版会
望月信亨編『望月佛教大辞典』第三巻、1933年(昭和8年)12月、世界聖典刊行協会
寺嶋良安『和漢三才図会』、1906年(明治39年)11月、吉川弘文館
東京大学史料編纂所『大日本史料』第七編之二、1968年(昭和43年)10月、東京大学出版会
坂井誠一、『富山県の歴史』、1960年(昭和35年)2月、山川出版社
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第十一巻(畠山持国項)、1990年(平成2年)9月、吉川弘文館
東京大学史料編纂所編『史料綜覧』巻七、1965年(昭和40年)6月、東京大学出版会
増補「史料大成」刊行会編『増補史料大成第三十九巻 康富記三』、1965年(昭和40年)9月、臨川書店
東京帝国大学編『大日本史料第九編之七』、1944年(昭和19年)2月、東京帝国大学文学部史料編纂所
高瀬重雄編『日本歴史地名大系第16巻 富山県の地名』、2001年(平成13年)7月、平凡社
深井甚三・本郷真紹・久保尚文・市川文彦『富山県の歴史』、1997年(平成9年)8月、山川出版社
東京大学史料編纂所編、『大日本古文書家わけ第十八 東大寺文書之二十二』、「下長カ直宗書状」(文書番号一七二三)、2014年(平成26年)3月、東京大学出版会
竹内理三編、『増補続史料大成 第六巻(後法興院記二)』、1967年(昭和42年)4月、臨川書店
笠原一男・井上鋭夫校註、「朝倉始末記一(賀越闘諍記一)」、『蓮如 一向一揆(日本思想大系17)』、1972年(昭和47年)9月、岩波書店
国史大辞典編集委員会編、『国史大辞典第一巻』(足利義稙条)、1979年(昭和54年)3月、吉川弘文館
竹内理三編、『増補続史料大成第七巻(後法興院記三)』、1967年(昭和42年)4月、臨川書店
増補「史料大成」刊行会編、『増補史料大成第四十三巻(親長卿記二)』、1965年(昭和40年)9月、臨川書店
井上鋭夫校訂、『日本海文化叢書第一巻 加越能寺社由来上巻』、昭和49年4月、石川県図書館協会
東京帝国大学編『大日本史料』第九編之一』、1928年(昭和3年)1月、東京帝国大学文学部史料編纂掛
東京帝国大学編『大日本史料』第九編之六、1939年(昭和14年)9月、東京帝国大学文学部史料編纂掛
東京大学史料編纂所編『大日本史料』第九編之九、1954年(昭和29年)3月、東京大学出版会
東京大学史料編纂所『大日本史料』第九編之十一、1956年(昭和31年)3月、東京大学出版会
高橋義彦編『越佐史料』巻三、1927年(昭和2年)11月、三秀舎
富田景周編『三州志 来因概覧 仝附録』、1884年(明治17年)5月、益智館
黒坂勝美編、『国史大系第五十五巻 公卿補任第三篇』(天文14年条)、1965年(昭和40年)7月、吉川弘文館
早川純三郎編『言継卿記』第二、1914年(大正3年)9月、国書刊行会
高橋義彦編『越佐史料』巻四、1928年(昭和3年)9月、三秀舎
富田景周編、『三州志 腱嚢余考』、1883年(明治16年)2月、益智館
萩原頼平編、『甲斐志料集成九 歴史部三』、1934年(昭和9年)9月、甲斐志料刊行会
東京大学史料編纂所編『大日本史料』第十編之一、1968年(昭和43年)7月、東京大学出版会
東京大学史料編纂所編『大日本史料』第十編之三、1969年(昭和49年)3月、東京大学出版会
東京大学史料編纂所編『大日本史料』第十編之五、1969年(昭和44年)11月、東京大学出版会
東京大学史料編纂所編『大日本史料』第十編之六、1970年(昭和45年)3月、東京大学出版会
東京大学史料編纂所編『大日本史料』第十編之九、1971年(昭和46年)3月、東京大学出版会
東京大学史料編纂所『大日本史料』第十編之十、1971年(昭和46年)7月、東京大学出版会
東京大学史料編纂所編『大日本史料』第十編之二十三、2000年(平成12年)5月、東京大学出版会
近藤瓶城編『改定史籍集覧』第十九冊、1901年(明治34年)4月、近藤出版部
富山市役所編『富山市史』、1909年(明治42年)9月、富山市役所
富田景周編、『三州志 来因概覧 仝附録』、1884年(明治17年)5月、益智館
遠藤和子「戦国の遺産・佐々堤」、『土と基礎』第39巻3号所収、1991年(平成3年)3月、公益社団法人地盤工学会
富山県編『越中史料』第1巻、1909年(明治42年)9月、富山県
近藤瓶城編『改定史籍集覧』第十九冊、1901年(明治34年)4月、近藤出版部
富山県『越中史料』第1巻、1909年(明治42年)9月、富山県
富田景周編、『三州志 腱嚢余考』、1883年(明治16年)2月、益智館
越後史料叢書編輯部編、『越後史料叢書第壱編 北越太平記全』、1914年(大正3年)9月、文港堂及び笹谷書店
東京帝国大学編『大日本史料』第十一編之一、1927年(昭和2年)3月、東京帝国大学文学部史料編纂掛
東京帝国大学編『大日本史料』第十一編之三、1930年(昭和5年)3月、東京帝国大学文学部史料編纂掛
東京帝国大学編『大日本史料』第十一編之四、1932年(昭和7年)4月、東京帝国大学文学部史料編纂掛
東京大学史料編纂所編『大日本史料』第十一編之八、1952年(昭和27年)3月、東京大学出版会
東京大学史料編纂所編『大日本史料』第十一編之九、1952年(昭和27年)3月、東京大学出版会
東京大学史料編纂所編『大日本史料』第十一編之十、1956年(昭和31年)11月、東京大学出版会
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第六巻、1985年(昭和60年)9月、吉川弘文館
近藤瓶城編『改定史籍集覧』第六冊、1900年(明治33年)11月、近藤出版部
東京大学史料編纂所編『大日本史料』第十一編之十四、1972年(昭和47年)3月、東京大学出版会
東京大学史料編纂所編『大日本史料』第十一編之十六、1978年(昭和53年)3月、東京大学出版会
東京大学史料編纂所編『大日本史料』第十一編之十八、2000年(平成12年)8月、東京大学出版会
侯爵前田家編輯部編『加賀藩史料第壱編』、1929年(昭和4年)4月、石黒文吉
富田景周編『三州志 故墟考 図譜村籍』、1884年(明治17年)6月、益智館
東京大学史料編纂所編、『大日本史料第十一編之二十三』、2002年(平成14年)3月、東京大学出版会
富山県編『越中史料』第2巻、1909年(明治42年)9月、富山県
富田景周編『三州志 腱嚢余考』、1884年(明治17年)4月、益智館
浜黒崎郷土編纂委員会編『浜黒崎の近現代史』、2000年(平成12年)9月、富山市浜黒崎自治振興会
東京帝国大学編『大日本史料』第十二編之二、1901年(明治34年)11月、東京帝国大学
東京帝国大学編『大日本史料』第十二編之三、1902年(明治35年)11月、東京帝国大学
侯爵前田家編輯部編『加賀藩史料』第2巻、1930年(昭和5年)2月、石黒文吉
東京大学史料編纂所編『大日本史料』第十二編之六、1970年(昭和45年)3月、東京大学出版会
明治神社誌料編纂所編、『府県郷社明治神社誌料中巻』、1912年(明治45年)1月、明治神社誌料編纂所
東京大学史料編纂所編、『大日本史料第十二編之九』、1971年(昭和46年)3月、東京大学出版会
国書刊行会編、『史籍雑纂 第二』、1911年(明治44年)11月、国書刊行会
蘆田伊人編、『大日本地誌大系 三州地理誌稿』、1931年(昭和6年)、雄山閣
富山県射水郡本江村役場編、『本江村史』、1929年(昭和4年)、富山県射水郡本江村役場
富田景周編『三州志 腱嚢余考』、1884年(明治17年)4月、益智館
侯爵前田家編輯部編『加賀藩史料』第3編、1930年(昭和5年)7月、石黒文吉
下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p318 河出書房新社刊 2003年11月30日刊 全国書誌番号:20522067
下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p345 河出書房新社 2003年11月30日刊 全国書誌番号:20522067
高田幸男(北日本新聞社相談役) 著「富山・長野連続女性誘拐殺人事件 とやまながのれんぞくじょせいゆうかいさつじんじけん」、富山大百科事典編集事務局 編『富山大百科事典』 下巻(初版)、北日本新聞社、1994年8月1日、485-486頁。 NCID BN11094657。
“立山登山”. 小谷部市立蟹谷小学校. 2023年7月23日閲覧。
“会社案内”. 実業建設新報社. 2020年5月3日閲覧。
“会社概要”. 北陸放送. 2020年5月3日閲覧。
“会社情報”. 石川テレビ放送. 2020年5月3日閲覧。
“会社案内”. テレビ金沢. 2020年5月3日閲覧。
“会社概要”. 北陸朝日放送. 2020年5月3日閲覧。
“会社案内”. グッドラック. 2020年5月3日閲覧。
『毎日新聞』2004年4月8日朝刊石川地方版19頁「[スポーツの現場]甲子園で勝てない疑問=平本泰章記者 /石川」(毎日新聞社)
『読売新聞』2008年8月8日東京朝刊富山県版31頁「2万2000人、Gに酔う 富山で15年ぶり公式戦=富山」(読売新聞北陸支社)
『読売新聞』2009年11月12日東京朝刊富山県版2面30頁「2年ぶりG戦 北陸シリーズ開催 ファンら期待に胸膨らます=富山」(読売新聞北陸支社)
『毎日新聞』1999年5月22日朝刊富山地方版「[喜怒哀楽]喜 野村監督並みの指揮官を /富山」(毎日新聞社【野地哲郎】)
『北陸中日新聞』1999年10月23日朝刊第12版第二社会面31頁「「高岡銅器」も願う竜日本一 V記念品でPR 球団とグッズ契約 『活性化の力に』」(中日新聞北陸支社)
『中日新聞』2000年1月3日朝刊地方総合版25頁「辰に託す景気回復 “空想”に終わらせないでネ 高岡銅器 ドラゴンズ置物 富山 新商品開発に意欲満々」(中日新聞社)
富山県商工労働部経営支援課地域産業係 (2016年7月5日). “とやまの伝統工芸品”. 富山県. 2018年3月12日閲覧。
『新聞に見る20世紀の富山 第3巻』(2000年11月26日、北日本新聞社発行)124頁。
『新聞に見る20世紀の富山 第3巻』(2000年11月26日、北日本新聞社発行)208頁。