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寛文印知

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寛文印知(かんぶんいんち)は、寛文4年4月5日1664年4月30日)に江戸幕府日本全国の大名に対して一斉に領知判物領知朱印状領知目録を交付した法律。また、翌寛文5年(1665年)には、公家門跡寺社などに対しても同様の措置が取られ、江戸幕府の大名領知権と日本全国の土地支配権を名実ともに確立した。全国の大名・公家・寺社などが持っていた朱印状が一斉に回収・再交付されたため、これを特に寛文朱印改(かんぶんのしゅいんあらため)と呼び、これに基づいて交付された朱印状を特に寛文朱印状と呼ぶ。

概要

要約
視点

従来は幕府から個々の領主に対して、領地判物・朱印状などの所領給付を示す文書を与えていたが、寛文4年3月7日に全国の大名に対して一旦これを返納することを命じた。続いて、4月5日付で全国の大名に対して同時に第4代将軍徳川家綱の名義によって同一書式の領知判物・朱印状・領知目録を交付したのである。なお、万石以上領地を有する大名として御朱印・目録留が交付されたのは合計219家に上るが、甲府徳川家及び館林徳川家徳川御三家は対象外であり、万石以上の大名であっても18の支藩には領地判物・朱印状が交付されなかった。また本藩・支藩論争で扱いがまとまらなかった伊予宇和島藩、伊予吉田藩の伊達両家には後日交付となった。

続いて、寛文5年3月1日に、公家・門跡・寺社に対しても同様の命令が出されて、同年の7月以後に順次新しい同一書式の領知判物・朱印状・領知目録を交付したのである。なお、公家と複数の徳川将軍から朱印状を受けた寺社及び50石以上の寺社領を持つ寺社に対しては個々に交付されたが、これに当てはまらない寺社については、所属する宗派本寺などに対して一括して朱印状などが与えられた。これによって公家97家、門跡寺院27、比丘尼(尼寺)27、院家12、その他寺院1,076、神社365、その他7に対して交付が行われた。

寺領・社領の安堵と同時に日本全国の全ての寺院・僧侶を対象とする諸宗寺院法度、全ての神社・神職を対象とする諸社禰宜神主法度を制定して、寺院・神社それぞれに対して一元的な統制を行った[1]

領知目録には、徳川将軍家が所領として与えた具体的な郡村の名称とその石高について明記され、領主の領有する具体的な範囲が確定された。また、江戸幕府による領知判物・朱印状・領知目録の書式と書札礼は以後これを定型とした。

実際に奉行としてこれを行ったのは、大名領担当は小笠原長矩永井尚庸公家領担当は稲葉正則寺社領担当は井上正利加々爪直澄、符案及び訂正は久保正之右筆支配)であった。一連の交付によって発給された領知判物・朱印状・領知目録の総数は1830通に及ぶ。後にこれらの内容は『寛文印知集』(『寛文印知留』など諸本によって名称は異なる)と呼ばれた記録集にまとめられた。これは作成年代・編者は不明であるが、江戸幕府の全国統治の基本資料として、多くの写本・異本が作成されている。また、これによって同時期の全国の大名の配置と石高がほぼ把握出来るために、日本史教科書などでは、これに基づいて作成された大名の配置図が採用されることが多い。

さらに見る 宛先, 合計 (通) ...

寛文印知を受けた寺社は1,507箇所に及ぶが、日光山東照宮・大献院廟領1万3630石8斗6升9合、久能山東照宮領3,000石など、主要な寺社が漏れていた。また50石以下の小寺社への頒布も実施されなかった。ただし3代将軍の徳川家光の時は、慶安元年(1648年)3月17日から慶安2年(1649年)11月29日にかけて、寺社への追加の朱印状約3,150通の発給を実施しており、徳川家綱も遅れて寺社への頒布を実施する予定があった可能性がある。[2] また家光の時までは万石未満の旗本の一部にも朱印状による領知安堵が行われていたが、家綱による寛文印知以降は旗本への領知安堵は黒印状に統一された。

貞享元年(1684年)に徳川綱吉が将軍職を継ぐと、寛文印知の対象外であった小規模寺社を含めて朱印状などの再交付(継目安堵)を行い、大名229通、公家107通、寺社4,535通、集物7通、合計4,878通が交付された。印知の対象となった寺社は寛文印知の時に比べて3倍以上に増えた。貞享印知の状況は国立公文書館所蔵「貞享御判物御朱印改記」にまとまっており、『寛文朱印留』と同種の本が貞享印知でも作成されたことが判るが、詳細な写本は現存しない。

さらに見る 代, 将軍 ...

第6代将軍の徳川家宣は、大名への判物・朱印状230通の発給を行い、また寺社・旗本への印知実施のための御触書を出したが、寺社・旗本への印知を実施する前に死去しており、旗本への朱印状の発給は復活しなかった。次の徳川家継も早世したため、判物・朱印状発給の準備も行われなかった。第8代将軍の徳川吉宗以後将軍の交替ごとに同じように継目安堵が行われる事となった。

第14代将軍の徳川家茂は公家領の印知を行わず、寺社領の印知も東海・関東・陸奥の寺社に留まった。最後の将軍の徳川慶喜は在任期間が1年であり、一切の印知を行わなかった。

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寛文印知の記載例

寛文印知の記載例として、以下に播磨赤穂藩藩主浅野長直宛の領知朱印状と領知目録を示す(ただし賀西郡の内24村の村名を省略する)。一つの郡一円を領有する場合には「~郡一円」と表記され、領知目録には村名が記載されない。また一つの郡・村を複数の領主が分割する場合は「~郡之内」「~之内」と表記される。

播磨国赤穂郡百拾九箇村三万五千弐百石、賀西郡内三拾
三箇村八千九百弐拾石八斗余、賀東郡内弐拾四箇村八千
弐百壱石九斗余、佐用郡内五箇村千弐百拾弐石弐斗、都
合五万三千五百石余(目録在別紙)事、如前々充行之訖、全可領知
者也、仍如件
  寛文四年四月五日御朱印
                 筆者
                   大橋長左衛門
        浅野内匠頭とのへ

 目録
播磨国
 赤穂郡一円 百十九箇村
  高三万五千弐百石
   外三百六拾弐石六斗七升五合籠高
 賀西郡之内 三拾三箇村
  上野村 広原村 佐谷村 下芥田村
  (中略)
  新田村
  高八千九百弐拾石八斗五合
 賀東郡之内 弐拾四箇村
  穂積村 会我村 村貝村 垂水村
  窪田村 鳥居村 家原村 中村
  北村 梶原村 木梨村 上田村之内
  仁我井村 大門村 沢部村 黍田村
  下三草村 上三草村 牧野村 多井田村
  田中村 北野村 河高村 野村
  高八千弐百壱石九斗七升四合
 佐用郡之内 五箇村
  西本郷村 海田村 蔵垣内村 中山村
  山田村
  高千弐百拾弐石弐斗
 都合五万三千五百三拾四石九斗七升九合
右今度被差上郡村之帳面相改、達 上聞所被成下 御朱
印也、此儀両人奉行依被 仰付執達如件
                 永井 伊賀守
                      尚庸
  寛文四年四月五日
                 小笠原山城守
                      長瀬
     浅野内匠頭殿

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寛文印知における諸藩の石高と領地

要約
視点

凡例

以下に寛文印知領知目録記載の寛文4年(1664年)における諸藩の領地の分布を、国郡別の石高・村数、及び都合石高によりまとめる。

  • 史料は国立資料館編『寛文朱印留』を底本とし、国書刊行会編「寛文印知集」(『續々群書類従』収録)などにより一部修正した。
  • 記載順の内、1番~51番までには領知判物が、52番~219番には領知朱印状が交付されている。寛文印知が発給されなかった伊予宇和島藩、伊予吉田藩については、貞享元年(1684年)の徳川綱吉による貞享印知の石高・所領を本表の後ろに掲載した。また慶長13年(1608年)の尾張一国知行宛行の秀忠判物を除き、江戸時代を通じて領知判物交付の無かった徳川御両典・御三家については、幕府直轄領(天領)の石高[3]を含め、参考として寛文印知の前後の石高・所領を本表の末尾に掲載した。なお長州藩(4家)、熊本藩(1家)、佐賀藩(3家)、津山藩(1家)、水戸藩(2家)の支藩11家については、本藩の寛文印知に言及が全くないが、参考のために本表に加えた。御三家の御附家老尾張藩(2家)、紀州藩(2家)、水戸藩(1家))、その他諸藩の万石以上の陪臣(万石格を含めて約200家)は省略した。
  • 藩主の名前はを記載し、括弧内に領知判物・朱印状と領知目録に記載される宛名に伴う官位等を括弧内に示す。また本姓とは別に松平姓を名乗る場合には松平を付加し、そうでない場合は本姓を省略する(領知判物・朱印状の宛名にのみ記載の本姓は省略せず)。実際に記載される宛名は以下の通りであり、国主格などの大名の場合、領知判物・朱印状と領知目録とで宛名書きが異なる。
  • 松平光長(越後三位中将/越後守): 領知判物には「越後三位中将殿」、領知目録には「松平越後守殿」と記載。
  • 保科正之(会津中将/肥後守): 領知判物には「会津中将殿」、領知目録には「保科肥後守殿」と記載。
  • 前田綱紀(加賀中将/松平加賀守): 領知判物には「加賀中将殿」、領知目録には「松平加賀守殿」と記載。
  • 伊達綱村 (松平亀千代): 当主が数え6歳と幼少のために官位を持たず、領知判物・領知目録共に「松平亀千代殿」と記載。
寛文印知に記述のない琉球王、徳川宗家・御両典・御三家及び支藩11家については諱のみを括弧で示す。
  • 参考のために藩庁(陣屋等)の所在地をまとめるが、寛文印知には藩庁所在地は記載されていない。また「藩」、「藩主」、「藩庁」などの用語が公文書で使われるようになったのは大政奉還前後からあり、寛文印知には「藩」という言葉は全く使用されていない。
  • 郡別石高の合計と領知目録記載の石高が異なる場合は、郡別石高の合計を実数とし、領知目録記載の都合高を括弧内に示す。また石高は石を単位として小数点以下第五位まで示す。なお1 石 = 10 斗 = 100 升 = 1,000 合 = 10,000 勺 = 100,000 才である。また領知判物・朱印状には以下のように「~余」と、端数を切り捨てた数字を記載するのが慣例となっている。
  • 松平光長: 領知判物・領知目録ともに「都合弐拾六万石余」と記載され、領知目録も端数を切り捨て。
  • 保科正之: 領知判物・領知目録ともに「都合弐拾三万石」と記載され、元々領知高が端数まで揃えられている。
  • 前田綱紀: 領知判物には「都合百弐万五千石余」、領知目録には「都合百弐万五千弐拾石弐斗八升弐合」と記載され、領知目録は端数まで表記。
  • 伊達綱村: 領知判物には「都合六拾万石余事、内三万石伊達兵部大輔、三万石田村右京亮可進退之、残五拾六万石余」、領知目録には「惣高残五拾六万五拾五石七斗九升八合」と記載され、領知目録には端数まで表記。
  • 個別に領知判物・朱印状・目録が発給されていない支藩7家(越前松岡藩、越前吉江藩土佐中村藩丹後田辺藩陸奥陸奥一関藩、陸奥岩沼藩伊予新谷藩)、万石以下の内分の旗本(陸奥黒石領など)の石高については、一部の例外を除き、本藩の石高に支藩の石高を含めた都合高と、支藩の石高を除いた本藩のみの石高(残高)の二種類が、本藩宛の領知判物・朱印状・目録に記載されている。一般に支藩の石高を含めた都合高を本藩公称の朱印高とする。
  • 徳川御両典・御三家には領知判物・目録が発給されなかったため、とりわけ将軍家を継いだために消滅した甲府藩館林藩に関する本表の国郡別村数・石高の情報は不完全である。同様に将軍直轄地の全国分布の詳細が残っているのは元禄以降であり本表では空欄とする。

寛文印知における諸藩の石高と領地

さらに見る 記載順, 藩主名 ...
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不受不施派との関係

日蓮宗の中でも不受不施派と呼ばれる集団は、日蓮宗以外の者から布施供養は受けるべきではなく(不受)、信者ではない者に布施供養を施してはならない(不施)、という立場を取り、日蓮宗の信者ではない江戸幕府に従う事を拒否し、寛永7年(1630年)の身池対論(不施不受の影響下にあった池上本門寺とこれに批判的な久遠寺の代表が江戸城内で論争を行った事件)以降、同派はキリスト教と同様に禁止・弾圧政策が取られたが、その後もいくつかの寺院は不施不受を貫いた。ところが、寛文印知にあたって寺領の安堵を受ける事を巡って寺領の安堵を拒否する意見と寺領は慈悲であって布施ではないとする意見に分かれ、前者を取った寺院はこれを口実に弾圧の対象とされた。後者は悲田派と称されて存続が許されたが、結局元禄4年(1691年)に改めて不施不受が全面禁止となった際に改宗をさせられることになった[1]

脚注

参考文献

関連項目

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