長野市
長野県庁所在地 ウィキペディアから
長野県庁所在地 ウィキペディアから
長野市(ながのし)は、長野県の北信地方にある県内で最も人口が多い市であり、長野県の県庁所在地、中核市に指定されている。また、長野都市圏・北信地方の中心都市。
ながのし 長野市 | |||||
---|---|---|---|---|---|
| |||||
国 | 日本 | ||||
地方 | 中部地方(甲信越地方) | ||||
都道府県 | 長野県 | ||||
市町村コード | 20201-1 | ||||
法人番号 | 3000020202011 | ||||
面積 |
834.81km2 | ||||
総人口 |
361,922人 [編集] (推計人口、2024年8月1日) | ||||
人口密度 | 434人/km2 | ||||
隣接自治体 |
須坂市、中野市、千曲市、上田市、大町市、東筑摩郡筑北村、麻績村、生坂村、上水内郡信濃町、飯綱町、小川村、北安曇郡白馬村、小谷村、上高井郡小布施町 新潟県妙高市 | ||||
市の木 | シナノキ | ||||
市の花 | リンゴ[1] | ||||
市の歌 | 長野市市歌(1967年3月29日制定) | ||||
長野市役所 | |||||
市長 | 荻原健司 | ||||
所在地 |
〒380-8512 長野県長野市大字鶴賀緑町1613番地 北緯36度38分55秒 東経138度11分41秒 長野市役所 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
ウィキプロジェクト |
1998年には長野オリンピック・パラリンピックが開催された。また、2005年には第8回スペシャルオリンピックス冬季世界大会が行われた。
市内にある長野県庁本庁舎は、標高371.3メートルの地点に建っており[2]、日本の47都道府県庁舎の中で最も高い場所にある。
長野市は上信越高原国立公園の飯縄山、戸隠山、黒姫山などの北信五岳を背景に、市内の中央には一級河川である千曲川、犀川の2大河川が流れている。
長野盆地は、東部山地と西部山地に挟まれた、面積およそ300平方キロメートル、標高330~380メートルの盆地である。善光寺平とも呼ばれてきた。長野盆地の中には千曲川・犀川・裾花川など大小の河川が多数流れ込み、千曲川に合流している。長野盆地内の千曲川は高低差が小さいため、流れが穏やかである。千曲川沿いには、洪水の際に川が氾濫して土砂が堆積した沖積地が広がっている。洪水の被害を受けやすい沖積地は昔から主に耕作地として利用されてきたが、治水が進んだ現代では市街地化が進んだところも見られる。
西部山地から流れ込む犀川と裾花川は、上流から多量の砂礫を盆地内へ運び込んでいるため、傾斜が緩やかで大規模な扇状地を形成している。長野市の主な市街地は、こうした扇状地の上に形成されている[3]。
西部山地は戸隠山や聖山、虫倉山など一部の山を除くと、標高1000メートル以下のなだらかな山々から構成されている。山地をつくっている地層が比較的新しくて軟質なため、地滑りが多く発生している。古い地滑りの跡地は、とてもなだらかな地形をしていて土壌も肥沃なため、耕作地や住宅地として利用されている。
西部山地の斜面は、かつては薪炭林や農耕に必要な採草地として利用されていたが、現在ではあまり利用や手入れが行われておらず、荒廃が進んでいる。[3]
東部山地は、高いところで標高1200メートル以上もある高い山地で、しかも硬い岩盤でできているため、とても急峻な地形をしている。山地に平地が乏しいので耕作地は少なく、その大半が森林となっている。若穂や松代の山際には、小規模な扇状地が見られる。土壌が砂礫質で地表に水が乏しいため、一部が住宅地として利用されているほかは主に果樹園として利用されている。[3]
2008年における地目別の土地面積は次の通りであった。
市の中心部は盆地に位置することから寒暖の差が激しい。夏に高温を記録することも多い一方で、冬の寒さは厳しい。このように、気温の日較差、年較差が大きい大陸性気候と言える。中央高地式気候の典型とされることもあるが、日本海側気候の特色も併せ持ち、市北部の山間部は日本海側気候の豪雪地帯である。一方で、市街地中心部は降雨も降雪も限られている。
気温は年間を通して東北地方南部の会津若松市や山形市と同程度であり、県庁所在地としても冷涼な都市に属する。冬季の寒さは日照時間の短さに由来するが、一方で平均的な雲量は7前後と決して多くないことから放射冷却が発生しやすく、日没後には気温が急速に低下する。1月の平均最低気温は−3.9 ℃と、全国的に見ても低い。ただし、長野県内では高い方である。最低気温記録は−17.0 ℃(1934年1月24日)であるが、これは長野県内では高い。曇天の日が多いこともあり日中の気温が上がらず真冬日を観測することも珍しくなく、長野県内の主要都市では諏訪市と並んで真冬日が多い地域とされる。最低気温については上昇傾向が見られ、これはヒートアイランド・都市化の影響を受ける市街地で顕著である。かつては毎年のように記録していた−10 ℃以下の気温が観測されることは80年代以降少なくなっている。21世紀に入ってからその傾向は顕著となり、2007年から2023年までの間で−10 ℃以下の気温を観測したのは2012年、2016年、2018年、2022年、2023年のみである。1961年以降の最低気温は−15.0 ℃(1967年1月17日)、2000年以降では−12.0℃(2001年1月16日)と、県内の気象観測地点では県南部の南信濃に次いで高い。
長野市でも北部山間部は、日本海側気候の特性が強い豪雪地帯である。その一方で、中心市街地より南は、山脈の下降気流の影響を受けるため、降雪量は少なくなり、そこそこ積もるという程度である。中心市街地に近い長野地方気象台(長野市箱清水1丁目)を例にとると、年間降雪量は163 cmで、従前の平年値に比較して100cmほど減少したものの、それでも豪雪地のイメージを持つ新潟市を上回る量であり、冬型の気圧配置による降雪だけでなく南岸低気圧の影響による降雪も見られるため、降雪が少ないとは言えない。ただし冬期の降水量は月間で50mm前後に過ぎず、年間の最深積雪も40cm以下に収まる年が多い。観測史上の最深積雪も1946年12月11日に観測された80 cmであり、より降雪量が少ない松本市の78cmと同程度となる。
降水は年間を通して少なく、都道府県庁所在地中最小の降水量である。長野市以外の県庁所在地で降水量が少ない都市として岡山市や甲府市、札幌市が挙げられるが、いずれも平年降水量は1100 mmを超えるのに対し長野市の平年降水量は965 mmと、際立って低い印象を受ける。ただし、2000年以降は年間降水量が1000mmを超える年が目立っており、2011年から2020年までの間で1000mmを下回った回数は2012年と2017年のみである。
夏は、日本国内で見れば晴天が多く、日照時間も多い方であり、日射しも強い。観測史上の最高気温は1994年8月16日の38.7 ℃である。8月の平均最高気温は31.1 ℃に達し、猛暑日が観測されることも珍しくないなど昼間の暑さは厳しい。1994年以降は年間の猛暑日日数が0日になったことがない。相対湿度も日本の中では上位だが、一方で日本気象協会が提唱する「ジメ暑日」は少ない。最低気温は比較的低く熱帯夜になることは稀に観測する程度で記録がない年も多く、朝晩は過ごしやすいと言える。
長野地方気象台は1889年から気象観測が行われてきたことと、観測露場の環境が良いために、気象庁による東日本の平均気温の算出地点の1つにされている。
長野市箱清水(長野地方気象台、標高418m)の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 18.1 (64.6) |
22.5 (72.5) |
24.7 (76.5) |
30.8 (87.4) |
34.2 (93.6) |
35.9 (96.6) |
37.9 (100.2) |
38.7 (101.7) |
36.3 (97.3) |
32.2 (90) |
26.2 (79.2) |
22.0 (71.6) |
38.7 (101.7) |
平均最高気温 °C (°F) | 3.8 (38.8) |
5.3 (41.5) |
10.3 (50.5) |
17.4 (63.3) |
23.2 (73.8) |
26.1 (79) |
29.7 (85.5) |
31.1 (88) |
26.2 (79.2) |
19.7 (67.5) |
13.4 (56.1) |
6.9 (44.4) |
17.8 (64) |
日平均気温 °C (°F) | −0.4 (31.3) |
0.4 (32.7) |
4.3 (39.7) |
10.6 (51.1) |
16.4 (61.5) |
20.4 (68.7) |
24.3 (75.7) |
25.4 (77.7) |
21.0 (69.8) |
14.4 (57.9) |
7.9 (46.2) |
2.3 (36.1) |
12.3 (54.1) |
平均最低気温 °C (°F) | −3.9 (25) |
−3.7 (25.3) |
−0.5 (31.1) |
4.9 (40.8) |
10.9 (51.6) |
16.1 (61) |
20.5 (68.9) |
21.5 (70.7) |
17.2 (63) |
10.3 (50.5) |
3.4 (38.1) |
−1.5 (29.3) |
7.9 (46.2) |
最低気温記録 °C (°F) | −17.0 (1.4) |
−16.4 (2.5) |
−14.6 (5.7) |
−6.5 (20.3) |
−1.8 (28.8) |
3.9 (39) |
10.2 (50.4) |
10.7 (51.3) |
5.5 (41.9) |
−1.9 (28.6) |
−11.4 (11.5) |
−15.2 (4.6) |
−17.0 (1.4) |
降水量 mm (inch) | 54.6 (2.15) |
49.1 (1.933) |
60.1 (2.366) |
56.9 (2.24) |
69.3 (2.728) |
106.1 (4.177) |
137.7 (5.421) |
111.8 (4.402) |
125.5 (4.941) |
100.3 (3.949) |
44.4 (1.748) |
49.4 (1.945) |
965.1 (37.996) |
降雪量 cm (inch) | 63 (24.8) |
50 (19.7) |
17 (6.7) |
2 (0.8) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
1 (0.4) |
30 (11.8) |
163 (64.2) |
平均降水日数 (≥0.5 mm) | 12.7 | 11.0 | 11.3 | 9.8 | 9.6 | 11.6 | 13.5 | 10.8 | 10.6 | 9.2 | 8.6 | 11.2 | 130.0 |
平均降雪日数 | 24.0 | 20.1 | 15.6 | 3.2 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 3.6 | 19.0 | 85.6 |
% 湿度 | 79 | 74 | 68 | 61 | 63 | 71 | 75 | 73 | 74 | 75 | 76 | 79 | 72 |
平均月間日照時間 | 128.4 | 140.2 | 173.3 | 199.4 | 214.8 | 167.4 | 168.8 | 201.1 | 151.2 | 152.1 | 142.3 | 131.1 | 1,969.9 |
出典:気象庁 (平均値:1991年-2020年、極値:1889年-現在)[4][5] |
長野地方気象台(1961 - 1990年平均)の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
平均最高気温 °C (°F) | 3.1 (37.6) |
4.2 (39.6) |
8.6 (47.5) |
17.1 (62.8) |
23.3 (73.9) |
25.0 (77) |
28.7 (83.7) |
30.5 (86.9) |
24.9 (76.8) |
18.5 (65.3) |
12.6 (54.7) |
6.4 (43.5) |
16.8 (62.2) |
日平均気温 °C (°F) | −1.2 (29.8) |
−0.5 (31.1) |
3.0 (37.4) |
10.4 (50.7) |
15.7 (60.3) |
19.6 (67.3) |
23.5 (74.3) |
24.8 (76.6) |
19.9 (67.8) |
13.1 (55.6) |
7.2 (45) |
1.7 (35.1) |
11.5 (52.7) |
平均最低気温 °C (°F) | −4.9 (23.2) |
−4.3 (24.3) |
−1.5 (29.3) |
4.8 (40.6) |
10.0 (50) |
15.3 (59.5) |
19.8 (67.6) |
20.9 (69.6) |
16.3 (61.3) |
8.8 (47.8) |
2.7 (36.9) |
−2.1 (28.2) |
7.2 (45) |
出典:理科年表 |
信州新町(1991年 - 2020年)の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 15.3 (59.5) |
21.0 (69.8) |
25.8 (78.4) |
30.1 (86.2) |
34.6 (94.3) |
35.8 (96.4) |
37.2 (99) |
38.6 (101.5) |
35.3 (95.5) |
29.8 (85.6) |
25.2 (77.4) |
21.6 (70.9) |
38.6 (101.5) |
平均最高気温 °C (°F) | 3.6 (38.5) |
4.9 (40.8) |
9.9 (49.8) |
17.1 (62.8) |
22.8 (73) |
25.8 (78.4) |
29.2 (84.6) |
30.4 (86.7) |
25.4 (77.7) |
19.1 (66.4) |
13.2 (55.8) |
6.8 (44.2) |
17.4 (63.3) |
日平均気温 °C (°F) | −1.4 (29.5) |
−0.8 (30.6) |
3.1 (37.6) |
9.3 (48.7) |
15.1 (59.2) |
19.2 (66.6) |
22.9 (73.2) |
23.9 (75) |
19.5 (67.1) |
13.0 (55.4) |
6.6 (43.9) |
1.2 (34.2) |
11.0 (51.8) |
平均最低気温 °C (°F) | −5.5 (22.1) |
−5.4 (22.3) |
−2.1 (28.2) |
2.8 (37) |
8.5 (47.3) |
14.1 (57.4) |
18.8 (65.8) |
19.5 (67.1) |
15.5 (59.9) |
8.8 (47.8) |
2.0 (35.6) |
−2.7 (27.1) |
6.2 (43.2) |
最低気温記録 °C (°F) | −15.3 (4.5) |
−13.4 (7.9) |
−10.3 (13.5) |
−5.8 (21.6) |
−1.5 (29.3) |
4.1 (39.4) |
11.6 (52.9) |
11.2 (52.2) |
4.3 (39.7) |
−0.6 (30.9) |
−4.6 (23.7) |
−12.3 (9.9) |
−15.3 (4.5) |
降水量 mm (inch) | 56.2 (2.213) |
52.4 (2.063) |
76.3 (3.004) |
76.4 (3.008) |
88.7 (3.492) |
123.2 (4.85) |
146.5 (5.768) |
111.2 (4.378) |
148.7 (5.854) |
122.8 (4.835) |
53.8 (2.118) |
51.3 (2.02) |
1,107.4 (43.598) |
平均降水日数 (≥1.0 mm) | 10.4 | 8.8 | 10.8 | 9.4 | 9.5 | 11.0 | 13.4 | 9.9 | 10.4 | 9.1 | 7.6 | 10.3 | 120.7 |
平均月間日照時間 | 123.2 | 139.5 | 171.6 | 200.4 | 209.3 | 158.7 | 158.1 | 192.1 | 137.1 | 145.0 | 139.5 | 124.8 | 1,899.1 |
出典1:Japan Meteorological Agency | |||||||||||||
出典2:気象庁[6] |
長野市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 長野市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 長野市
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
長野市(に相当する地域)の人口の推移
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||
総務省統計局 国勢調査より |
14の管区と52の地区から構成される(以下の人口はいずれも2023年3月1日現在の推計人口。
長野市域における人類のあゆみは飯綱高原などの高原や山地から始まった。代表的な飯綱高原の上ケ屋遺跡は約2万年前の旧石器時代のものである。縄文時代の遺跡も、豊野地区の上浅野遺跡(市有形文化財)、中条地区の宮遺跡をはじめとして多彩に見つかっており、当時のムラの様子をうかがうことができる[7]。
弥生時代には長野盆地でも稲作が行われるようになる。また、この時代にはコメなどをめぐり争いが発生。柳原地区の水内坐一元神社遺跡は、防御用の大きな溝を巡らせた環濠集落であり、そのことがうかがえる。弥生時代後半には「赤い土器(箱清水式土器)」が特徴的に使われだし、長野盆地を中心とした千曲川・犀川流域は「赤い土器のクニ」と呼ばれる独自の文化圏を形成した[8]。
4世紀の中ごろ以降、千曲川を見下ろす山の上には、川柳将軍塚古墳(篠ノ井石川)や和田東山3号墳(若穂保科)といった大型の前方後円墳が築かれるようになる。これらは地域の「王」であるのと同時に、ヤマト政権のメンバーでもあった。5世紀中ごろになると、大型古墳の築造と入れ替わるように、大室地区に集中的に古墳が築かれるようになる。総数500基を超える大室古墳群は朝鮮半島とかかわりのあった人々の墓と考えられる[9]。
善光寺平の中心とした「シナノ」のクニは少なくとも4世紀前半にはヤマト政権のもとに入っていたと考えられる。「シナノ」は和銅5年(712年)編纂の『古事記』では「科野」、養老4年(720年)の『日本書紀』では「信濃」が統一的に使われている。このことから、7世紀後半には「科野」が用いられ、大宝令の制定を経た大宝4年(704年)に諸国の刻印が初めて鋳造された際、「信濃」の表記に改称されたと推定される[10]。
長野市の代表的な寺社に善光寺と戸隠神社がある。善光寺の名が文献上初めて登場するのは平安時代、10世紀に成立した『僧妙達蘇生注記』で、このころには地方の有力寺院となっていたことがわかる。一方、戸隠神社は、11世紀初めの『能因歌枕』で歌枕のひとつに「とがくし」が挙げられているなど、存在が中央に認められつつあったことがわかっている[11]。
治承4年(1180年)、木曾義仲は平氏を追討するため兵を挙げ、中信から東北信に進出した。これに対し、越後の平氏方の城資職は数万騎を率いて信濃に入る。平氏約4万、源氏約3千の両軍が養和元年(1181年)に篠ノ井の横田で戦った。これが横田河原の戦いである。義仲は、高井郡の井上光盛ら北信濃の豪族たちの助力によって勝利した[12]。
長野市は善光寺の門前町として発展してきた。善光寺は治承3年(1179年)焼失したが、源平合戦に勝利した源頼朝の命によって10年後の建久2年に再興された。その後も執権・北条家が善光寺を篤く信仰し、鎌倉時代には善光寺信仰が全国に広まり、門前町として地域が形成されていくことになる。『一遍聖絵』からは、この当時の善光寺と門前の賑わいを見て取ることができる[13]。
鎌倉幕府が滅びると、北条時行が諏訪氏を頼って挙兵。八幡河原、篠井河原、四宮河原で信濃守護・小笠原貞宗と戦った。中先代の乱(青沼合戦)である。観応の擾乱に続く南北朝の争いでは国人領主達が2派閥に別れ、これらが守護や関東管領の命令に従わず、市内や近隣の各所は戦場と化した。
南北朝の動乱がようやく治まった応永6年(1399年)、室町幕府の足利義満は小笠原長秀を信濃守護に任命。それに対し、地元の北信濃きっての有力国人「村上氏」たちは大文字一揆を形成。二者は対立し、大塔合戦が起きた。結果、小笠原氏は降伏し、京都に逃れることとなる[14]。
戦国時代になると武田信玄と上杉謙信が対立し、天文22年(1533年)に両軍は川中島で決戦することとなった。戦いは小競り合いも含めて5回起き、中でも永禄4年(1561年)秋の戦いは激戦となった。この川中島の戦いは地域の武将だけでなく、寺社にも影響を与える。善光寺の本尊・善光寺如来は権威の象徴として、武将の手を転々とすることになる。まず武田信玄とその子・勝頼、次に織田信長、徳川家康、そして豊臣秀吉の手に渡る。最終的に善光寺に帰るまでの44年間、本尊は各地を流転し、そのため門前町も衰退することになった。また戸隠神社は騒乱に巻き込まれたため、信徒たちは文禄3年(1594年)まで、30年間も小川筏ヶ峰(現在の小川村)に避難を余儀なくされた[15]。
戦国時代後期、現長野市域を含む北信濃は武田領であったが、1582年の武田氏の滅亡によって一時的に織田領となった後、本能寺の変以降は上杉氏が北信濃の川中島四郡(高井郡、水内郡、更級郡、埴科郡)を慶長年間初頭まで支配した。なお、川中島の合戦の際に武田方の拠点として松代に造られた海津城は、江戸時代に入ると川中島四郡を治める信濃国最大の領国の中核として発展した。
江戸時代になると主要5街道に次ぐ脇街道として北国街道が整備された。北国街道は追分宿(軽井沢町)で中山道から分岐し、矢代宿(千曲市)を過ぎて2つに分かれる。ひとつは千曲川と犀川を越えて善光寺宿から牟礼宿(飯綱町)に至るルート、もうひとつは松代城下を通り、福島宿(須坂市)北で千曲川を渡り長沼宿から牟礼宿に至るルートであった。江戸時代初期以降、繁栄する善光寺町を通る前者が北国街道の主となり、後者は犀川の洪水による舟留めの際の迂回ルートとして利用された[16]。
北国街道は諸大名が参勤交代するルートとしても使われた。また、江戸まで距離も短く難所も少ないため、佐渡金銀の「御金荷」を運ぶ輸送路にもなっていた。
またこの時代、長野市域の大半は松代藩領で占められ、そこに善光寺や戸隠山といった寺社領、飯山藩領、須坂藩領、上田藩領、塩崎知行所などが所在した。その松代藩の政庁である松代城は、先に述べた海津城がその始まりとされる。その後、城下町も整備され、松代城は北信濃支配の拠点として重要な役割を担うようになっていった。
元和8年(1622年)、真田信之が移管されて初代松代藩主となる。ここに真田氏による松代藩の治世が始まり、それは明治維新まで10代250年も続いた。信之は町づくりや産業振興に力を尽くす一方、質素倹約を励行すると共に文武を奨励。それは幕末や明治に活躍する佐久間象山や長谷川昭道を輩出する下地となった[17]。
一方、衰退していた善光寺と門前町だが、本尊が戻ったことによって次第に復興していく。本堂が火災で焼失すると、その資金調達のために自ら出向いて出開帳を行い、全国へさらに善光寺信仰を広めるきっかけとなった。全国各地から善光寺参りの参詣者が集まり、門前町はより繁栄。信濃へ入る道はすべて善光寺道と呼ばれた。
発展した長野市域だが、江戸時代には巨大な災害が2つ起きている。寛保2年(1742年)、7月下旬から起きた大暴風雨によって千曲川本流支流ともにすさまじい氾濫が起きた。被害は甚大で、松代藩領では住宅の被害が2835軒、死者1220名、死んだ馬が32匹に及んだ。松代城にまで浸水し、「戌の満水」と呼ばれる[18]。
また弘化4年(1847年)3月24日夜10時ごろ、マグニチュード7.4と推定される大地震が北信濃を襲った。今日では善光寺地震と呼ばれ、長野県下で発生した地震の中でも最大規模とされている。折しも善光寺では御開帳が行われ、大勢の参詣者が集まっていた。多数の家屋が倒壊すると共に、門前町は猛火に包まれ、数千人の犠牲者が出たとされる。また二次災害として山崩れ、洪水なども起き、死者は8586人に及んでいる[19]。
長野県の前身は中野県だったが、松代騒動に続く明治3年(1870年)の中野騒動により、現在の中野市にあった中野県庁が焼き討ちに遭って焼失。結局、明治4年(1871年)に長野村の善光寺町へ県庁を移転、長野県に名前を変更することが決まった。最初の長野県は旧幕府領を管轄する県だったが、明治4年の廃藩置県に伴い、東北信6郡を管轄する長野県となった。さらに明治9年(1876年)、筑摩県の中南信4群をあわせて、旧信濃国10郡が長野県となった。
明治7年(1874年)、長野村は長野町となり、同9年(1876年)長野町は箱清水村と合併。さらに同22年(1889年)の町村制で長野町、南長野町、西長野町、鶴賀町と茂菅村が合併して新たな長野町が誕生した。さらに、明治30年(1897年)には県下最初の市制を施行して、ついに長野市となった。
明治21年(1888年)、長野から直江津まで鉄道が開通したことをきっかけに、商工業が発展し近代的市街地が形成された。大規模敷地を要する官庁や文化施設は市街地縁辺部に設置され、市街地との連絡道路が建設されることで、新しい町が生まれて市街地が拡大していった。
明治には富国策として繊維産業に力が入れられ、その影響で市域でも蚕を飼う養蚕農家が急増した。そんな中、明治7年(1874年)には旧松代藩士・大里忠一郎ら数名が、松代町西条に国内初の民間資本による器械製糸場を設立した(西条村製糸場、後に六公社と改称)。六公社には官営の富岡製糸場で工女として働き、蒸気器械製糸技術を学んだ和田英らの十数名も技術指導者として参画した。
しかし、世界恐慌が起きると昭和5年(1930年)には生糸関連の価格が大暴落する昭和恐慌が始まった。ほとんどの農家が養蚕を行い、製糸工場の女工も多かった長野市の影響は甚大だった。昭和7年(1932年)には景気が急激に回復するが、製糸工場はその波に乗り遅れ、少しずつ衰退していった。
太平洋戦争の敗色が濃厚になった昭和19年(1944年)、天皇と直属の最高作戦指導機関の大本営を東京から長野に移す計画が始まる。同年10月に松代の象山、舞鶴山、皆神山に巨大な地下壕を設ける工事が開始。翌年8月15日、日本の降伏で戦争が終結したため工事は中止されたが、本体の8割方は完成していた。工事の主要な労働は勤労動員、学徒動員、朝鮮労働者らが担ったとされる。
またアメリカ軍による本土爆撃も激しさを増した昭和20年(1945年)、8月13日の早朝午前6時50分ごろから午後3時50分ごろまで、6回に渡って長野市は機銃の掃射や爆撃を受けた。終戦2日前のことであり、長野空襲と称される。この時の死者は47人であったとされる。
昭和22年(1947年)10月、昭和天皇の戦後巡幸が行われた。市内の学校、療養所などに行幸[20]。
戦後から現在に至るまで、4回の市町村合併が行われた。まず昭和28年(1954年)の昭和の大合併で、長野市へ周辺の10か村が編入された。次に昭和41年(1966)年にはさらに篠ノ井市など7市町村と大合併を行う。そして平成の大合併では平成17年(2005年)に4町村を、同22年(2010年)にはさらに2町村を長野市に合併した。
一方、昭和40年(1965)年から松代で微小の地震が日に何度も起こる松代群発地震が発生。4年後終息するまで、64万8000回を数えた。昭和60年(1985年)には地附山で大規模な地滑りが発生し、26人の死者と多くの住宅被害を出した。台風による犀川や千曲川の氾濫、堤防の決壊は戦後何度も起こり、そのたびに農地や家屋が被害に遭った。特に令和元年(2019年)の台風19号災害では、長沼地区や豊野地区を中心に例を見ないほどの多くの被害が出た。
また交通分野では、平成5年(1993年)に長野自動車道・上越自動車道が開通。平成9年(1997年)には、長野新幹線が開通した。さらに、平成27年(2015年)には長野‐金沢間が開通し、北陸新幹線として開業した。
平成10年(1998年)に開催された長野オリンピック・パラリンピックでは競技会場が充実すると共に、外国からの訪問者との交流も盛んになった。その中でも一校一国運動はその後、世界的に広まった。現在、長野市は国際会議観光都市として認定されている。
町村制施行前の沿革については上水内郡、更級郡、埴科郡、上高井郡も参照
「長野」という地名が歴史上初めて登場するのは、戦国時代・元亀元年(1570年)の武田信玄の書状である。長野市立図書館のある長門町一帯が、近世には「長野町」とも呼ばれていたようで、上長野・下長野という小字名がある。また、現在の信大教育学部のあたりには袖長野・中長野・西長野の小字名があり、信大教育学部あたりから長門町付近にかけての緩傾斜地についた小土地名が「長野」と考えられる[23]。
この「長野」という地名は、善光寺平に裾花川が砂礫を運んでつくった扇状地に由来すると思われる。「野」はゆるく傾斜する場所を意味することから、長い緩やかな傾斜地を「長野」と呼んだのだろう[23]。
「長野村」という地名は、中世末期から見られたらしい。中世末から近世にかけての「水内郡長野村」は、おおよそ現在の長野市大字長野に相当する。1601年(慶長6年)に、同郡箱清水村、七瀬村、及び三輪村の一部(間もなく平柴村に変更)と共に善光寺領とされた。
箱清水村は、1875年(明治8年)に長野町と合併、七瀬村は1876年(明治9年)に鶴賀村の一部となり鶴賀町を経て長野町へ、三輪村は1889年(明治22年)に三輪村、平柴村は1889年(明治22年)に安茂里村を経て、いずれも現在は長野市に属する。長野村のうち、善光寺南の参道は門前町として、また北国街道のルートとされたことから宿場町としても発展して市街地化(町場化)した。こうして市街地化した区域、および松代藩領でこれに隣接して同様に市街地化した妻科村(現長野市大字南長野)および権堂村(現長野市大字鶴賀の一部)のそれぞれ一部も含めて、町場全体の総称として善光寺町(または「善光寺宿」)という呼称が行われるようになった。その結果「長野村」とは、同村のうち町場の「善光寺町」および善光寺境内を除いた北西部の農村区域を指すものと理解されていた。
しかし、検地帳上の公的な村名は善光寺町の区域も含めて「長野村」であり、そのまま明治維新後に至った。すなわち、「善光寺町」とは本来「長野村」の一部であり、明治になってから「善光寺町」が「長野村」と改称されたわけではなく、「善光寺町」が「長野村」の旧称であったわけでもない。
代 | 氏名 | 就任日 | 退任日 | 備考 |
---|---|---|---|---|
官選 | ||||
1 | 佐藤八郎右衛門 | 1897年(明治30年)7月14日 | 1899年(明治32年)1月13日 | |
2 | 鈴木小右衛門 | 1899年(明治32年)4月22日 | 1905年(明治38年)4月21日 | |
1905年(明治38年)4月22日 | 1911年(明治44年)4月21日 | |||
3 | 牧野元 | 1911年(明治44年)6月7日 | 1917年(大正6年)6月6日 | |
1917年(大正6年)6月7日 | 1921年(大正10年)1月25日 | |||
4 | 三田幸司 | 1921年(大正10年)4月30日 | 1921年(大正10年)12月27日 | |
5 | 丸山弁三郎 | 1922年(大正11年)4月26日 | 1926年(大正15年)4月25日 | |
1926年(大正15年)4月26日 | 1930年(昭和5年)4月25日 | |||
1930年(昭和5年)4月26日 | 1934年(昭和9年)4月25日 | |||
6 | 七沢清助 | 1934年(昭和9年)5月1日 | 1934年(昭和9年)7月12日 | |
7 | 藤井伊右衛門 | 1934年(昭和9年)12月7日 | 1937年(昭和12年)5月23日 | |
8 | 高野忠衛 | 1937年(昭和12年)10月4日 | 1941年(昭和16年)10月3日 | |
9 | 石垣倉治 | 1941年(昭和16年)10月20日 | 1942年(昭和17年)4月7日 | 死去 |
10 | 高野忠衛 | 1942年(昭和17年)4月17日 | 1946年(昭和21年)4月16日 | |
1946年(昭和21年)6月21日 | 1946年(昭和21年)11月12日 | |||
公選(旧・長野市) | ||||
11 | 松橋久左衛門 | 1947年(昭和22年)4月5日 | 1951年(昭和26年)4月4日 | |
1951年(昭和26年)4月25日 | 1954年(昭和29年)11月19日 | |||
12 | 倉島至 | 1954年(昭和29年)12月12日 | 1958年(昭和33年)12月11日 | |
1958年(昭和33年)12月12日 | 1962年(昭和37年)12月5日 | |||
13 | 夏目忠雄 | 1962年(昭和37年)12月6日 | 1966年(昭和41年)10月15日 | [注釈 1] |
公選(現・長野市) | ||||
1 | 夏目忠雄 | 1966年(昭和41年)11月14日 | 1970年(昭和45年)11月13日 | [注釈 2] |
1970年(昭和45年)11月14日 | 1973年(昭和48年)10月18日 | |||
2 | 柳原正之 | 1973年(昭和48年)11月11日 | 1977年(昭和52年)11月10日 | |
1977年(昭和52年)11月11日 | 1981年(昭和56年)11月10日 | |||
1981年(昭和56年)11月11日 | 1985年(昭和60年)11月10日 | |||
3 | 塚田佐 | 1985年(昭和60年)11月11日 | 1989年(平成元年)11月10日 | |
1989年(平成元年)11月11日 | 1993年(平成5年)11月10日 | |||
1993年(平成5年)11月11日 | 1997年(平成9年)11月10日 | |||
1997年(平成9年)11月11日 | 2001年(平成13年)11月10日 | |||
4 | 鷲澤正一 | 2001年(平成13年)11月11日 | 2005年(平成17年)11月10日 | |
2005年(平成17年)11月11日 | 2009年(平成21年)11月10日 | |||
2009年(平成21年)11月11日 | 2013年(平成25年)11月10日 | |||
5 | 加藤久雄 | 2013年(平成25年)11月11日 | 2017年(平成29年)11月10日 | |
2017年(平成29年)11月11日 | 2021年(令和3年)11月10日 | |||
6 | 荻原健司 | 2021年(令和3年)11月11日 | 現職 |
長野県は1995年の段階で、ゴミのリサイクル率17.0パーセントと、当時の日本の都道府県の中で2位の水準にあった[注釈 3][25]。そんな背景がある中で、長野市では環境問題への取組みとして、第6回持続可能な地域社会をつくる日本の環境首都コンテストに参加した。
無集配郵便局
博物館・記念館
県立:12校(普通科9校、職業科3校)
市立:1校(職業科1校)
私立:8校(普通科8校)
国立:1校
市立:25校
私立:4校
長野市は都市圏人口が約60万人である。車社会が進展している一方で、日本の中規模地方都市としては公共交通手段を利用した通勤・通学が盛んであり、朝夕のラッシュ時には鉄道駅やバス停が多くの通勤・通学客で混雑する。そのため信越本線は朝ラッシュ時6両の編成による運行が見られ、長電長野線においても短い間隔で通勤形車両によって運行されるほか、通勤利用による混雑の対策として長野駅には自動改札機が設置されている。また、路線バスにおいては川中島バスが長野駅~松代間にて座席指定制の「通勤ライナー」を運行するなど、通勤利用対策を行っている[27]。
東日本旅客鉄道(JR東日本)、しなの鉄道、長野電鉄の3社の路線が市内を通る。
2011年12月6日、松代・若穂・篠ノ井・更北・川中島の沿線5地区の住民自治協議会長の連名で、長野電鉄屋代線廃止後の跡地を活用したLRTの導入を求める請願が長野市議会に提出され、同年12月16日の長野市議会12月定例会にて全会一致の賛成で採択された。これを受けて長野市は市の交通対策審議会に諮問、新交通システム導入検討部会において、LRT及び長野駅‐松代駅間の新交通システム導入に関する調査検討を行った。
2013年5月29日から同年6月21日に実施した「長野市新交通システム導入可能性調査」の結果を踏まえて、長野市交通対策審議会は2014年2月12日に、旧屋代線を除いた計画中の5ルート(長野駅 - 善光寺、長野駅 - 若槻団地、長野駅 - 綿内駅、長野駅 - 松代、長野駅 - 篠ノ井駅)での採算性や事業実施の難易度(市が検討する中で最も営業区間の長い長野駅 - 篠ノ井駅ルートの場合、市が負担する事業費を172億円、年間運行経費が6億4000万円と見込み1人当たりの平均運賃を試算すると、LRTで570円、BRTでは280円にのぼる)を考え、中期的にはBRTについて検討を進め、長期的には将来の需要喚起や技術革新などを勘案した上で、LRTへの移行を踏まえ今後検討を深めていく必要があるとした。
その後、2014年7月30日に発表された「新交通システムの導入に関する中間報告書」においては、「LRT化には、大規模な投資が必要となるが、投資を上回る事業便益が生じてこない状況」(「継続した運行のためには、相当高い運賃設定」か「相当な観光客の誘客(現状松代地区に年間60万人であるところ、215万人)」が必要)とし、運行は「沿線人口の大幅な増加又はLRT利用観光客の大幅な増加」もしくは「赤字分を全て行政で負担」が条件だが、いずれもその可能性は低いと評価した[28]。
県道(一部)
都市の成り立ちが県庁所在地であり、官公署が集中していたことから、卸売業を中心に商業が発達している。現在は卸売業・小売業・宿泊業・飲食サービス業の企業が多い。これらのうち卸売業・小売業では飲食料品小売業が、宿泊業・飲食サービス業では飲食店が、それぞれ最も多い業種である。[29]
また、工業の特色としては、企業数で食料品、印刷業、生産用機械器具がトップ3を占め、製造品出荷額では、電子回路基板、みそ、無線通信機械器具、オフセット印刷、電子計算機(パソコンを除く)の品目が出荷額の多い順になっている。[29]
明治以降から印刷業が発達してきたため、長野市では印刷業の企業数およびその製造品出荷額が非常に多い。近年のデジタル化、紙離れなどにより業界は厳しい状況にあるが、現在でも脈々とその流れは続いている。[29]
また、出荷額の多い電子回路基板、無線通信機械器具、電子計算機の品目を製造する企業のほとんどは、昭和初期から戦争中の疎開によって長野市に移転したものである。戦後も当地に留まり、時代の流れと共に大きく発展した。[29]
製造品出荷額のトップ20には食料品製造業の「みそ」を筆頭に、惣菜、精米・精麦があり、自然の豊かな長野市の気候風土を反映しているといえる。[29]
第1次産業 - 農業産出額(2020年)163.4億円(県3位)[30]
FM長野は松本市に本社を置くが、それ以外の局は長野市に本社、本部を置く。
建築物
史跡
仏像
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.