岡崎市
愛知県の市 ウィキペディアから
愛知県の市 ウィキペディアから
岡崎市(おかざきし)は、愛知県のほぼ中央に位置する市。中核市、中枢中核都市に指定されている。隣接する豊田市とともに西三河地域の中心都市。1916年(大正5年)市制施行。
おかざきし 岡崎市 | |||||
---|---|---|---|---|---|
| |||||
| |||||
国 | 日本 | ||||
地方 | 中部地方、東海地方 | ||||
都道府県 | 愛知県 | ||||
市町村コード | 23202-5 | ||||
法人番号 | 3000020232025 | ||||
面積 |
387.20km2 | ||||
総人口 |
381,565人 [編集] (推計人口、2024年8月1日) | ||||
人口密度 | 985人/km2 | ||||
隣接自治体 | 豊川市、豊田市、安城市、西尾市、蒲郡市、新城市、額田郡幸田町 | ||||
市の木 | ミカワクロマツ | ||||
市の花 | フジ、サクラ | ||||
市の鳥 | ハクセキレイ | ||||
岡崎市役所 | |||||
市長 | 中根康浩 | ||||
所在地 |
〒444-8601 愛知県岡崎市十王町二丁目9番地 北緯34度57分17秒 東経137度10分23秒 岡崎市役所 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
ウィキプロジェクト |
研究教育施設や史跡が多く、市の規模に比しては文教都市の色が濃い。中世の鎌倉街道や江戸時代の東海道の宿場町でもある岡崎宿、および岡崎城の城下町として栄えた。廃藩置県の際に一時存在した額田県の県庁所在地であり、岡崎城がその庁舎となっていた[3]。中心部は旧額田郡で、一部に旧碧海郡の地域も含まれる。
足利氏族でもある細川氏、仁木氏、戸崎氏のほか、江戸幕府を開いた徳川家康の生誕地でもある。伝統地場産業には八丁味噌、花火、石製品などが知られる。
現在は中京圏(名古屋都市圏)に属する名古屋市の衛星都市であり[4]、昼夜間人口比率は93.9%と流入人口より流出人口のほうが大きく上回っている[5]。中京工業地帯に含まれ、三菱自動車工業やアイシン(トヨタグループの自動車部品メーカー)などの自動車関連工場が集まる。
共通語では「おかざき」と発音されるが、当市民をはじめとした地元民は、「川崎」と同じように「おかざき」と平板に発音する。人名(姓)の場合は「おかざき」と発音して区別する。岡崎が舞台となったNHK連続テレビ小説『純情きらり』や、大河ドラマの『徳川家康』の中でも放映開始当初は「おかざき」と発音していたが、途中から平板な発音に改められた。2016年には、NHKにおいて平板な発音が「地元放送局アクセント」として正式に許容されるようになった[6]。
岡崎市は愛知県の中央部にあり、中央高地に連なる美濃三河高原と岡崎平野の接点に位置する。 中京圏の中心都市名古屋市から約35キロメートルの距離にあり、市内を東西に国道1号、南北に国道248号及び国道473号が通っている[7][8]。また東名高速道路岡崎インターチェンジや、新東名高速道路岡崎東インターチェンジといった広域交通網の拠点のほか、主要地方道等の愛知県道も多くあり、市内各所で渋滞が発生している。鉄道は、市内を東西に抜けるJR東海道線及び名鉄名古屋本線と岡崎駅から豊田市方面へ結び、名鉄三河線や愛知高速交通東部丘陵線、JR中央線と接続する愛知環状鉄道線の計3路線、16駅が設置されている。名鉄の東岡崎駅周辺が市内中心部であり、JRの岡崎駅は中心部から離れた場所に位置している。
面積は387.24平方キロメートルで豊田市、新城市に次ぎ愛知県内3位。なお、岡崎市内には活断層や推定活断層は見つかっていない[9]。
中央アルプスの大川入山に発する矢作川が市内を南北に流れ、東西に流れる乙川など、市内に20本程流れる河川の全てが矢作川の支流である。 岡崎市内には、この豊富な水を利用した大規模工場や水田地帯が多くある。多数の河川により形成された沖積平野上に市の中心市街があり、市の東部は美濃三河高原を構成する山地となっている。最高峰は標高789mの本宮山であるが、平野部にも丘陵が点在しており市内の標高差が700メートル以上ある変化に富んだ地形となっている。市域の約60%が森林であり、その豊かな自然環境から自然公園法に基づき南部の桑谷山周辺が三河湾国定公園に、東部の本宮山及び巴山周辺が本宮山県立自然公園にそれぞれ指定されている[10]。また岡崎市の中心部には岡崎城があり、城を中心とした岡崎公園は桜の名所としても有名である。
太平洋側気候で、特に平野部は温暖で冬でも雪が降ることはほとんどない[8][11]。
1991年から2020年の30年の平年値で[12]、年平均気温は15.5℃、8月の平均日最高気温は32.7℃、1月の平均日最低気温は-0.7℃、年間降水量は1507.6mmである[12]。
岡崎市(1991年 - 2020年)の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 17.2 (63) |
21.6 (70.9) |
24.7 (76.5) |
29.5 (85.1) |
33.0 (91.4) |
37.4 (99.3) |
39.3 (102.7) |
38.8 (101.8) |
37.8 (100) |
31.9 (89.4) |
26.1 (79) |
23.1 (73.6) |
39.3 (102.7) |
平均最高気温 °C (°F) | 9.1 (48.4) |
10.2 (50.4) |
14.1 (57.4) |
19.6 (67.3) |
24.2 (75.6) |
27.1 (80.8) |
31.0 (87.8) |
32.7 (90.9) |
29.0 (84.2) |
23.3 (73.9) |
17.4 (63.3) |
11.6 (52.9) |
20.8 (69.4) |
日平均気温 °C (°F) | 4.1 (39.4) |
5.0 (41) |
8.6 (47.5) |
13.8 (56.8) |
18.6 (65.5) |
22.3 (72.1) |
26.2 (79.2) |
27.4 (81.3) |
23.9 (75) |
17.9 (64.2) |
11.8 (53.2) |
6.4 (43.5) |
15.5 (59.9) |
平均最低気温 °C (°F) | −0.7 (30.7) |
0.0 (32) |
3.1 (37.6) |
8.1 (46.6) |
13.3 (55.9) |
18.2 (64.8) |
22.5 (72.5) |
23.3 (73.9) |
19.7 (67.5) |
13.2 (55.8) |
6.5 (43.7) |
1.4 (34.5) |
10.7 (51.3) |
最低気温記録 °C (°F) | −7.6 (18.3) |
−7.6 (18.3) |
−4.7 (23.5) |
−1.9 (28.6) |
3.1 (37.6) |
8.9 (48) |
15.1 (59.2) |
14.8 (58.6) |
7.8 (46) |
2.3 (36.1) |
−1.7 (28.9) |
−6.5 (20.3) |
−7.6 (18.3) |
降水量 mm (inch) | 53.7 (2.114) |
60.9 (2.398) |
115.8 (4.559) |
123.6 (4.866) |
139.4 (5.488) |
177.1 (6.972) |
181.4 (7.142) |
117.9 (4.642) |
223.5 (8.799) |
177.1 (6.972) |
80.2 (3.157) |
57.2 (2.252) |
1,507.6 (59.354) |
平均月間日照時間 | 172.0 | 165.5 | 191.5 | 193.5 | 194.2 | 136.7 | 164.8 | 210.8 | 159.6 | 162.2 | 162.8 | 167.4 | 2,081 |
出典1:気象庁[14] | |||||||||||||
出典2:気象庁[15] |
隣接する豊田市にはトヨタ自動車の中枢機能があり、当市周辺にはトヨタ自動車関連企業が多いため、近年は住宅地を次々と造成しベッドタウンとしての性格が強くなりつつある。
岡崎市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 岡崎市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 岡崎市
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
岡崎市(に相当する地域)の人口の推移
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||
総務省統計局 国勢調査より |
1920年の人口は約3万8500人で、名古屋市(約43万人)、豊橋市(約6万5000人)に次ぐ愛知県第3位だった。「平成の大合併」では、岡崎市は人口の少ない中山間地域である額田地区の併合にとどまった一方、豊田市が複数の町村と合併し、大きく拡大した。その結果、2016年2月15日に公表された国勢調査結果では、名古屋市、豊田市に次いで、愛知県第3位の人口となった[16]。
2021年の人口は約38万4000人であったが、2030年まで増加傾向が続くとの推計がなされている[16][17]。人口の分布としては、市域の4割を占める東部の山間地帯にあたる額田地区(旧額田郡額田町)の人口が8,551人と少なく、平野部に人口が集中している。
矢作川や乙川流域の肥大な平野部に位置し、温暖な気候のこの地域には、旧石器時代から人々が生活していた[18]。仁木八幡宮遺跡や美合の五本松遺跡等が旧石器時代の遺跡である。また額田地区の西牧野遺跡は旧石器時代から江戸時代にかけての複合遺跡である。国の史跡となっている六名の真宮遺跡は、縄文時代から鎌倉時代までの土器片や遺構、土器棺などが多く発掘されている複合遺跡であり、官衙跡ともいわれる[19][20][21]。
古墳時代には、当初安城周辺に比して小さな勢力しか存在しなかった。のちに大きな権力を有する豪族が現れ、4世紀後半には比較的大きな帆立貝形古墳である於新造古墳が西阿知和に作られ、4世紀末には、直径100メートル以上の、当時の三河地方では最大級となる甲山第1号墳が六供に作られた[22]。また景行天皇皇子である五十狭城入彦皇子墓として宮内庁から治定されている和志山古墳などの前方後円墳も現れ、ヤマト王権勢力下となっていたことが伺われる。同じく景行天皇皇子であるヤマトタケルの東夷征伐に関わる伝承も、矢作神社の由緒など、市内に多く伝わる。飛鳥時代に入ると、6世紀に物部守屋の子・真福が願主となり三河最古寺院真福寺が築かれ[23]、7世紀には物部氏氏寺とされる巨大古代寺院北野廃寺が建立された。また同時期に岩津古墳群も作られた[18][19]。702年(大宝2年)には、持統天皇が壬申の乱の功労をねぎらうため村積山を訪れたが、同山山頂にも物部氏建立と伝わる村積神社が鎮座する[24]。
8世紀中頃に、新城(仁木)郷、鴨田郷、位賀(伊賀)郷、額田郷、麻津郷、六名郷、大野郷、駅家郷(山綱)の額田八郷及び碧海郡の駅家郷(宇頭)や谷部郷(本郷)、鷲取郷(北野)、河内郷(上和田・下和田)、碧海郷(青野)などができた。また927年成立の延喜式では、三河国三駅として山綱駅家や宇頭の鳥捕駅などが挙げられている[19][25][26][27][28][29]。
古代の物部氏に代わり、中世になると藤原氏の勢力が当地でも伸長した。11世紀の平安時代後期に藤原南家の藤原季綱が三河守になると、一部の領土等を譲り受けた兄弟の藤原季兼が岡崎に移り住み、開発領主として荘園開発を進め勢力を伸ばした。額田冠者を名乗った季兼の子藤原季範の三女由良御前は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の母であり、季範の養女(実孫)は、足利氏宗家初代当主足利義康の妻である[30][31][32][33]。
鎌倉時代には三河は関東御分国となり、三河守を務めた、季範の養子で頼朝の弟の源範頼が、上地八幡宮を創建した。鎌倉街道沿いの明大寺の地には矢作東宿(矢作宿)が設置され栄えた。また、滝山寺は初代将軍源頼朝の従兄弟が住職を務めるなどし、幕府の庇護を受けた。13世紀に藤原季範の玄孫にあたる足利氏宗家第三代足利義氏が、承久の乱の恩賞として額田郡を領有し、鎌倉幕府の三河守護等として矢作東宿に拠点を構えて以降、足利氏や、足利氏系氏族、足利氏家臣などが代々三河守護を務めた。足利氏系の細川氏及び仁木氏が現在の市内細川町及び仁木町にそれぞれ置かれたほか、吉良氏、一色氏、今川氏といった足利氏支流が西三河に分立されて足利氏の第二の拠点となった。1335年に中先代の乱の混乱の中足利直義が甥の千寿王や成良親王とともに矢作に逃れ、1336年の矢作川の戦いでは、三河の足利一族が矢作東宿に集まった[33]。
室町時代になると幕府御料所として栄え、多くの奉公衆が置かれた。また、義氏により本堂が建立された滝山寺や、将軍足利義満により建立された天恩寺等が幕府の庇護を受けた。幕府を二分する観応の擾乱が起きると、三河の足利一族の間でも争いがなされた。三河守護を務めていた高氏一族は乱でほぼ滅亡し、乱後に将軍足利尊氏から菅生郷の寄進を受けた高氏出身の尼僧明阿により、一族の菩提所として現籠田町に総持尼寺が開かれ、門前町が発展した。特に15世紀の室町時代中期から大きな発展を見せ、三河守護仁木氏の守護代だった西郷氏が明大寺や龍頭山(現岡崎城)に城や砦を築くとともに、矢作川に北野から矢作にわたる堤防を作り、幾筋にも分流していた矢作川を、一筋の流れにまとめた[18][19][32][33][34]。
室町時代後期頃になると、六代将軍足利義教により三河守護一色義貫が殺され、代わって細川氏が守護に就いたものの、他地に先駆け内戦状態となった。
岩津城を本拠とした国人領主松平氏第三代松平信光は、保久城主山下氏を滅ぼしたのち、井ノ口の砦を拠点として発生した額田郡一揆を幕府政所執事伊勢貞親被官として平定し力を伸ばした。応仁の乱では、三河への復権を狙う一色氏を、三河守護細川成之とともに破り、戦国時代に岡崎城や安祥城を獲得し、南部まで勢力を伸ばした。
その後三河守護が置かれない状態となり、信光の後は、当初鴨田に分立されていた四代松平親忠が、井田野で挙母城主中条氏らを破り、鴨田の館跡に大樹寺を建立するなどした。五代松平長親は、三河に侵攻してきた今川氏親家臣の北条早雲を井田野で破ったとされる[33]。
1524年(大永4年)、松平宗家七代松平清康が、山中城の岡崎松平家を攻略し、安城岡崎を兼領する。そして明大寺の岡崎城から龍頭山の砦に拠点を移し、1531年(享禄4年)には龍頭山の砦を整備・拡張し、岡崎城(別名、竜城、竜ヶ城)とした。清康の死後、松平氏が今川氏の庇護下に入ると、市域は今川と織田の抗争の前線となり(小豆坂の戦い)、多くの城が作られた。
桶狭間の戦いで今川義元が戦死した後、第九代松平元康は、大樹寺で住職に諭されたのち、生誕の地岡崎城に戻って旧家臣団を再編成し、やがて今川氏から独立、徳川家康と改名する。以後織田信長の盟友として勢力を拡大した。1564年(永禄7年)には、針崎町の勝鬘寺等を拠点に起きた三河一向一揆を平定した[33]。武田信玄の侵攻に備えるため、1570年(元亀元年)に家康の拠点が浜松城に移ったのちも、岡崎城は長男松平信康(徳川信康)が城主を務めるなどし、長篠の戦いでは、岡崎城から出発した家康らが、片寄の天恩寺を経て長篠城に向かった。また、本能寺の変に伴う伊賀越えの際には、畿内から逃れた家康が岡崎城に帰還した。
1590年(天正18年)、家康が関東移封により多くの三河武士とともに江戸に移ると、豊臣家臣・田中吉政が岡崎城に入った。吉政は家康に対する抑えとして城を拡張し、石垣や城壁などを用いた近世城郭にふさわしいものに整備したが、秀吉の死後家康に接近し、関ヶ原の戦いでは家康側についた。また、城下町の整備も積極的に行われ、岡崎の郊外を通っていた東海道が岡崎城下町の中心を通るように変更され、現在の岡崎城の原型が造られた。
江戸時代に入ると、岡崎藩が立藩され、徳川家康誕生の地として別格の扱いを受けるようになった。家康の死に際しては、大樹寺の住職が立ち会い、死後大樹寺に位牌が納められた。第3代将軍の徳川家光は家康への尊敬心が強かったとされ、滝山東照宮の創建、伊賀八幡宮及び六所神社の改築などを行い、現在いずれも国の重要文化財となっている。東海道沿線には岡崎宿、藤川宿の2宿が置かれ、宿場町が栄えた。また、「五万石でも岡崎様は、お城下まで舟が着く」と謡われているように、矢作川と乙川の合流地点にある岡崎は水運の要衝であり、矢作川には当時としては日本最長の矢作橋が架けられる程であった。
岡崎藩初代藩主の本多康重は、東海道の整備、城下町の建設などに尽力し、「岡崎の27曲がり」といわれる多数のクランク状の道が整備された。これは、普段の生活では影響は無い曲がり角が、敵軍の急襲の際には進攻の妨げとなるように設計されたものである。また、江戸中期には矢作川沿いの農村で綿作が盛んに行なわれるようになり、三河木綿が特産品として生産されるようになった。
歴代岡崎藩主は全て名門譜代大名から選ばれ、老中を務めた水野忠之や松平康福、本多忠民など、江戸幕府の要職者を輩出した。歴代藩主が幕閣に入ったことや臨時課役による出費で、岡崎藩の財政は悪く、第6代藩主の水野忠辰が幽閉されるなど度々藩政の混乱を招いた[35]。幕末に岡崎藩主を務めた本多忠民は、徳川家康の側近徳川四天王であった岡崎出身の本多忠勝系本多氏宗家第15代であったが、戊辰戦争で徳川方には付かず明治新政府軍に与したため、脱藩浪士との対立が起きた。最後の藩主となった次の本多忠直は、明治維新後岡崎藩知事を務めた。
岡崎の地は岡崎藩の他にも、南部には三河中島藩や、大岡越前として有名な大岡忠相から始まる西大平藩が、北部には大給松平家が支配した奥殿藩がそれぞれ置かれ、奥殿藩第8代藩主の松平乗謨は老中や陸軍総裁を務めた。また、藩の他に、直轄領や幕府官僚の知行、徳川家菩提寺の大樹寺領を始めとした多数の寺社領が配置され、徳川家康出身地として広義の幕府領として扱われた[34][36]。
明治の世になると、廃藩置県により岡崎藩が岡崎県となり、岡崎県、次いで額田県の県庁が置かれた。8世紀から伝わる伝統の三河木綿を引き継いだ水車動力のガラ紡、官営愛知紡績所が操業し、国鉄東海道本線、名鉄岡崎市内線、西尾線、名古屋本線、挙母線が開通し、岡崎の近代化を一層促進した。岡崎は西三河の中心都市として栄え、西三河中から学生が集まる愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)、愛知第二師範学校(現・愛知教育大学)、岡崎町立高等女学校(現・愛知県立岡崎北高等学校)なども置かれた[37]。
1916年(大正5年)7月1日に市制を施行し、愛知県3番目、全国では67番目の市として岡崎市が誕生した。人口が多かったことから、太平洋戦争時、 1942年(昭和17年)2月1日から大都市部で行われた味噌と醤油の配給制度の適用対象地となった(県下では名古屋市、豊橋市、一ノ宮市、半田市、瀬戸市も同日から実施)[38]。同時に衣料品にも点数切符制が導入された。
また、岡崎海軍航空隊が置かれたことなどから、1945年(昭和20年)7月20日に空襲を受け、市街地の大部分が焼失した(岡崎空襲)[18][19]。市内を走る路面電車の車庫が燃えたため、急遽京都から車両を調達したこともあった。また、資材供出のために西尾線は休止された。太平洋戦争末期には、全国4番目の高等師範学校として岡崎高等師範学校(現名古屋大学教育学部)が設置された。
戦後、休止中の西尾線のうち岡崎駅前 - 福岡町間が福岡線として再開したが、モータリゼーションの流れに押され1962年に名鉄岡崎市内線、挙母線とともに廃線となった。その後、国鉄岡多線が開通し、トヨタ自動車の自動車輸送やユニチカ岡崎工場向けの原料輸送が行われた。
1970年(昭和45年)に三菱自動車工業が北野町に大規模な開発センター兼工場を設置するなど、当市にも工業化の波が押し寄せてきた。それに伴い、康生地区への大型商業施設の進出も激化した。1971年(昭和46年)4月10日には「岡崎ショッピングセンター・レオ」(核店舗は松坂屋岡崎店)が、1972年(昭和47年)10月5日には「セントラルパークビル・セルビ」が、1973年(昭和48年)4月には「名鉄サンリバー」が完成。1976年(昭和51年)6月1日には「岡崎シビコ」(核店舗はジャスコ岡崎店)が開店した[39]。その後、商業の中心地は康生から移り分散したものの、今日にいたる間に西三河地方屈指の商圏が形成され、同地方随一の商業都市として発展した。
岡崎という地名は、もともとは中世に明大寺町にあったとされる明大寺城や矢作宿が、竜美ヶ丘のある丘陵の出崎にあったことから名付けられたものとされる。その後、西郷氏により明大寺から菅生郷に城が移され、岡崎という地名が拡張されて用いられるようになったものと考えられる[31][40]。初めて岡崎という地名が確認できるのは、1484年作成の上宮寺「門徒次第之事」にある「オカサキ」との記述である。『三河国名所図会』には、「岡崎は享禄(1528年-1531年)以来の名號にして、其以前は菅生郷なり」、と記載されているため、1531年(享禄4年)に松平清康が龍頭山砦を岡崎城と命名した以降、使われていると思われる。
代 | 氏名 | 就任 | 退任 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 千賀又市 | 1916年(大正 | 5年)10月14日1918年(大正 | 7年) 7月12日任期中に死去 |
2-4 | 本多敏樹 | 1918年(大正 | 7年)12月17日1922年(大正11年)12月 | 日|
1922年(大正11年)12月 | 6日1926年(大正15年)12月 | 日|||
1926年(大正15年)12月 | 6日1930年(大正15年)12月 | 5日|||
5 | 小野庄造 | 1930年(昭和 | 5年)12月12日1931年(昭和 | 6年)12月 8日辞職 |
6 | 小瀧喜七郎 | 1933年(昭和 | 8年) 1月16日1935年(昭和10年)11月23日 | 辞職 |
7-9 | 菅野経三郎 | 1935年(昭和10年)12月23日 | 1939年(昭和14年)12月22日 | |
1940年(昭和15年) | 2月22日1944年(昭和19年) | 2月 日|||
1944年(昭和19年) | 2月22日1946年(昭和21年)11月 | 1日辞職 | ||
10-12 | 竹内京治 | 1947年(昭和22年) | 4月 5日1951年(昭和26年) | 4月 4日|
1951年(昭和26年) | 4月23日1955年(昭和30年) | 4月22日|||
1955年(昭和30年) | 4月30日1959年(昭和34年) | 4月29日|||
13-15 | 太田光二 | 1959年(昭和34年) | 5月 2日1963年(昭和38年) | 5月 1日|
1963年(昭和38年) | 5月 2日1967年(昭和42年) | 5月 1日|||
1967年(昭和42年) | 5月 2日1971年(昭和46年) | 5月 1日|||
16-18 | 内田喜久 | 1971年(昭和46年) | 5月 2日1975年(昭和50年) | 5月 1日|
1975年(昭和50年) | 5月 2日1979年(昭和54年) | 5月 1日|||
1979年(昭和54年) | 5月 2日1980年(昭和55年) | 6月30日辞職 | ||
19-23 | 中根鎭夫 | 1980年(昭和55年) | 8月17日1984年(昭和59年) | 8月16日|
1984年(昭和59年) | 8月17日1988年(昭和63年) | 8月16日|||
1988年(昭和63年) | 8月17日1992年(平成 | 4年) 8月16日|||
1992年(平成 | 4年) 8月17日1996年(平成 | 8年) 8月16日|||
1996年(平成 | 8年) 8月17日2000年(平成12年) | 8月16日|||
24-26 | 柴田紘一 | 2000年(平成12年) | 9月10日2004年(平成16年) | 9月 9日|
2004年(平成16年) | 9月12日2008年(平成20年) | 9月11日|||
2008年(平成20年)10月 | 5日2012年(平成24年)10月 | 4日|||
27-28 | 内田康宏 | 2012年(平成24年)10月21日 | 2016年(平成28年)10月20日 | |
2016年(平成28年)10月21日 | 2020年(令和 | 2年)10月20日|||
29 | 中根康浩 | 2020年(令和 | 2年)10月21日現職 |
総合政策部 | 企画課、秘書課、広報課、地域創生課 |
---|---|
財務部 | 財政課、行政経営課、市民税課、資産税課、納税課 |
総務部 | 総務文書課、人事課、契約課、情報政策課、庁舎車両管理室 |
市民生活部 | 自治振興課、安全安心課、防災課、市民課、 岡崎支所、大平支所、東部支所、岩津支所、矢作支所、六ツ美支所、額田支所、消費生活センター |
社会文化部 | 文化振興課、スポーツ振興課、男女共同参画課、国際課、市民協働推進課、 中央図書館、美術博物館、岡崎地域文化広場、美術館、市民センター |
福祉部 | 地域福祉課、総務課、障がい福祉課、長寿課、介護保険課、国保年金課、医療助成室、 福祉の村 |
保健部 | 保健企画課、生活衛生課、健康増進課、動物総合センター |
こども部 | こども育成課、家庭児童課、保育課 |
環境部 | 環境政策課、環境保全課、廃棄物対策課、ごみ対策課、 八帖クリーンセンター、中央クリーンセンター、総合検査センター |
経済振興部 | 商工労政課、観光推進課、農務課、林務課、農業支援センター |
都市整備部 | 都市計画課、まちづくりデザイン課、拠点整備課、乙川リバーフロント推進課、 市街地整備課、公園緑地課 |
土木建設部 | 事業調査課、土木管理課、道路維持課、道路建設課、河川課、農地整備課 |
建築部 | 建築指導課、建築課、施設保全課、住宅課 |
市民病院 | 岡崎市民病院、看護専門学校 |
消防本部 | 消防本部 |
上下水道局 | 総務課、サービス課、水道工事課、水道浄水課、下水施設課、下水工事課 |
会計管理者 | 会計課 |
議会事務局 | 総務課、議事課 |
教育委員会事務局 | 総務課、学校給食センター、施設課、学校指導課、社会教育課、 総合学習センター、少年自然の家、教育相談センター |
監査委員事務局 | 監査委員事務局 |
農業委員会事務局 | 農業委員会 |
名称 | 建物 | 住所 |
---|---|---|
岡崎支所 | 岡崎市シビックセンター | 羽根町字貴登野15番地 |
大平支所 | 大平市民センター | 大平町字皿田6番地 |
東部支所 | 東部市民センター | 山綱町字天神2番地9 |
岩津支所 | 岡崎市北部地域交流センター・なごみん | 西蔵前町字季平45番地1 |
矢作支所 | 岡崎市西部地域交流センター・やはぎかん | 矢作町字尊所45番地1 |
六ツ美支所 | 六ツ美市民センター | 下青野町字天神64番地 |
額田支所 | 額田センター(2018年2月13日供用開始)[50] | 樫山町字山ノ神21番地1 |
作詞は北原白秋、作曲は山田耕筰であり、1937年6月29日に発表、1962年4月には条例によって正式に市歌と定められた。あまり歌われる機会はない。
2019年度(平成31年度)当初予算案[51]
会計名 | 予算額 | 前年度対比 |
---|---|---|
一般会計 | 1,300億2,000万円 | 5.3%増 |
特別会計 | 689億7,521万2千円 | 6.3%増 |
企業会計 | 607億9,695万3千円 | 14.7%増 |
全会計 | 2,597億9,216万5千円 | 7.6%増 |
候補者名 | 当落 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 |
---|---|---|---|---|---|
中根義高 | 当 | 40 | 自由民主党 | 新 | 64,827票 |
鈴木雅登 | 当 | 42 | 無所属 | 新 | 35,206票 |
梅村順一 | 落 | 54 | 自由民主党 | 新 | 30,186票 |
中川博登 | 落 | 34 | 無所属 | 新 | 25,680票 |
候補者名 | 当落 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 |
---|---|---|---|---|---|
西久保長史 | 当 | 56 | 民主党 | 新 | 28,996票 |
内田康宏 | 当 | 58 | 自由民主党 | 現 | 27,279票 |
青山秋男 | 当 | 64 | 自由民主党 | 現 | 24,183票 |
園山康男 | 当 | 46 | 日本一愛知の会 | 新 | 23,874票 |
中根義高 | 落 | 38 | 自由民主党 | 新 | 21,621票 |
厚生労働省国土交通省財務省防衛省
|
農林水産省
法務省裁判所
|
2020年7月現在、岡崎市には日本国外に2つの姉妹都市、1つの友好都市がある[55]。
2005年に開催された愛知万博で、愛知県内の市町村(名古屋市を除く)が120の万博公式参加国をそれぞれ「一市町村一国フレンドシップ事業」として、フレンドシップ相手国として迎え入れた[59]。
2020年7月現在、岡崎市には日本国内の都市交流先として、2つの親善都市、2つの「ゆかりのまち」、1つの観光交流都市がある[55]。
都市名 | 都道府県 | 地方名 | 提携年月日 |
---|---|---|---|
石垣市 | 沖縄県 | 九州地方 南西諸島 | 1969年(昭和44年)2月 - 親善都市提携[60][60]。
|
福山市 | 広島県 | 中国地方 | 1971年(昭和46年)11月9日 - 親善都市提携[61][61]。
|
茅ヶ崎市 | 神奈川県 | 関東地方 | 1983年(昭和58年)7月1日 - ゆかりのまち提携[62]。
|
佐久市 | 長野県 | 中部地方 | 1983年(昭和58年)7月1日 - 旧臼田町とゆかりのまち提携[63]。
|
不破郡関ケ原町 | 岐阜県 | 中部地方 | 1983年(昭和58年)7月1日 - ゆかりのまち提携[64][64]。
|
常滑市 | 愛知県 | 中部地方 | 1997年(平成9年)3月27日 災害時応援協定締結。 |
金沢市 | 石川県 | 中部地方 | 2007年(平成19年)10月18日 - 観光交流都市提携[65][65]。
|
企業名 | 事業所名 | 所在地 |
---|---|---|
アイシン | 岡崎工場 | 岡町 |
岡崎東工場 | 大幡町 | |
愛知時計電機 | 岡崎工場 | 岡町 |
デンソーエレクトロニクス | 岡崎工場 | 真福寺町 |
岩谷瓦斯 | 岡崎工場 | 大門 |
カネ美食品 | 岡崎工場 | 高橋町 |
刈谷紙器 | 岡崎工場 | 福桶町 |
川本製作所 | 岡崎工場 | 橋目町 |
ジェイテクト | 岡崎工場 | 市場町 |
花園工場 | 真福寺町 | |
スタンレー電気 | 岡崎製作所 | 牧平町 |
スリーボンドファインケミカル | 岡崎工場 | 上衣文町 |
高木製作所 | 岡崎工場 | 牧平町 |
東海紙器 | 岡崎工場 | 羽栗町 |
東レ | 岡崎工場 | 矢作町 |
豊田鉄工 | 額田工場 | 中伊西町 |
トヨトミ | 額田工場 | 樫山町 |
豊臣機工 | 額田工場 | 樫山町 |
中川ヒューム管工業 | 岡崎工場 | 美合町 |
日清紡メカトロニクス | 美合工機事業所 | 美合町 |
日本エステル | 岡崎工場 | 日名北町 |
日本タッパーウェア | 岡崎製作所 | 牧平町 |
FUJI | 岡崎工場 | 恵田町 |
藤田螺子工業 | 岡崎工場 | 舞木町 |
マキタ | 岡崎工場 | 合歓木町 |
マルヤス工業 | 岡崎工場 | 橋目町 |
日名工場 | 大門 | |
三菱自動車工業 | 岡崎製作所[注 6] | 橋目町 |
ユニチカ | 岡崎事業所 | 日名北町 |
企業名 | 創業 | 所在地 |
---|---|---|
葵商店 | 1957年2月 | 牧平町(本社) |
大幡町(岡崎工場) | ||
エラステック | 1947年4月 | 岡町 |
太田油脂 | 1902年4月 | 福岡町 |
オチアイネクサス | 1900年 | 真福寺町(本社) |
矢作町(矢作工場) | ||
オリバー | 1967年8月 | 薮田 |
カクキュー | 1645年 | 八帖町 |
クラタ産業 | 1937年4月 | 羽栗町 |
栄屋乳業 | 1946年 | 東牧内町 |
三龍社 | 1897年6月 | 上六名町 |
CDS | 1980年2月 | 舞木町 |
柴田酒造場 | 1830年 | 保久町 |
セキソー | 1954年6月 | 日名北町(本社) |
岡町(葵工場) | ||
髙木化学研究所 | 1949年4月 | 大幡町 |
東海光学 | 1939年3月 | 恵田町 |
東レ・モノフィラメント | 1963年4月 | 昭和町 |
豊興工業 | 1958年2月 | 鉢地町 |
豊田バンモップス | 1947年9月 | 舞木町 |
中田屋 | 1922年 | 能見通 |
永田や仏壇店 | 1901年 | 上六名 |
中村科学工業 | 1943年5月 | 北野町 |
丹羽鉄工所 | 1919年6月 | 渡町(本社) |
中伊西町(額田工場) | ||
備前屋 | 1782年 | 伝馬通(本社) |
根石町(根石工場) | ||
フタバ産業 | 1945年11月 | 橋目町(本社) |
在家町(六ッ美工場) | ||
高橋町(高橋工場) | ||
ブラザー印刷 | 1951年2月 | 柱町 |
丸石醸造 | 1690年 | 中町 |
マルサンアイ | 1952年3月 | 仁木町 |
まるや八丁味噌 | 1337年 | 八帖町 |
三井ミーハナイト・メタル | 1964年2月 | 岡町 |
三菱自動車エンジニアリング | 1977年8月 | 橋目町 |
リコーエレメックス | 1938年4月 | 井田町 |
レッドバロン | 1972年1月 | 藤川町 |
ドミー | 1941年6月 | 大平町 |
テレビ放送は受信場所の地形に応じて瀬戸デジタルタワーまたは同市内(旧額田町の本宮山山頂)の豊橋中継局からの電波を受信している。なお、名鉄本宿駅付近では、本宿中継局の電波を受信している場合もある。
本市の市外局番は市内全域で0564(岡崎MA)が用いられる。なお、隣接する幸田町も本市と同じく0564が用いられる[注 7]。
市西部を中心に鉄道網、バス路線網が発達している。また、代表的な道路として市の中心部を国道1号が貫く。
市内には下記の3社3路線の鉄道網が敷設されており、JR東海の東海道線と名鉄名古屋本線により名古屋や豊橋にアクセス出来る。市の南郊に位置するJRの岡崎駅に対して、名鉄の東岡崎駅は市役所や中心市街地に近く、実質的な市の中心駅として機能している。 東岡崎駅北口から市の中心地である康生町にかけて大手企業の支店が多数立地し、オフィス街を形成している。
JTB時刻表には岡崎駅が本市の中心駅と記載される。しかし東岡崎駅の方が市の中心部に近く、市内一の交通結節点であるなど中核的な役割を担っている。東岡崎駅北口から市の中心地である康生町にかけて大手企業の支店が多数立地し、オフィス街を形成している。
市内完結の路線のほか、豊田市、安城市、西尾市に通じる路線がある。かつては中部国際空港への路線もあったが、2019年8月5日から休止中である。岡崎駅〜東岡崎駅や東岡崎駅~大樹寺の路線など、市の中心部や中心部に近い場所では豊富な便数が確保されている。一方、山間部などの利用の少ない路線では、路線維持のため市が補助金を給付している。
主な系統は以下の通り。
|
|
当市では1983年(昭和58年)に坂道の愛称を募集した[73]。坂の多い地形である。
従来、自動車のナンバープレートは、管轄する自動車検査登録事務所ごとに表示される地域名が決まり、当市を含む西三河自動車検査登録事務所管内では「三河」ナンバーが使用されていた。
国土交通省が2004年11月、新たな地域名表示ナンバープレート、いわゆるご当地ナンバーの導入についての要綱を取りまとめたことを受け、当市・額田郡幸田町・額田郡額田町の3市町は、2005年2月24日から3月6日に「岡崎」ナンバー導入に関するアンケートを実施した。結果、賛成意見が約7割に上ったため、国土交通省に申請することになった。
同年7月29日に認可が下り、2006年10月10日より当市および額田郡幸田町に使用の本拠の位置を置く自動車に対して交付されるナンバープレートには「岡崎」と記されることになった。
指定名称 | 所有者・管理者 | 指定年月日 | 所在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|
滝山寺三門 | 滝山寺 | 1901年(明治34年)3月27日 | 滝町 | |
妙源寺柳堂(附 厨子1基及び須弥壇1具、棟札) | 妙源寺 | 1903年(明治36年)4月15日 | 大和町 | |
信光明寺観音堂(附 棟札) | 信光明寺 | 1904年(明治37年)2月18日 | 岩津町 | 棟札は岡崎市美術博物館。 |
大樹寺多宝塔(附 棟札) | 大樹寺 | 1904年(明治37年)2月18日 | 鴨田町 | |
滝山寺本堂 | 滝山寺 | 1904年(明治37年)2月18日 | 滝町 | |
天恩寺仏殿 | 天恩寺 | 1907年(明治40年)5月27日 | 片寄町 | |
天恩寺山門 | 天恩寺 | 1907年(明治40年)5月27日 | 片寄町 | |
八幡宮本殿 | 上地八幡宮 | 1926年(大正15年)4月19日 | 上地町 | |
八幡宮本殿(附 棟札) | 土呂八幡宮 | 1931年(昭和6年)1月19日 | 福岡町 | |
伊賀八幡宮本殿、幣殿、拝殿、透塀、御供所、随身門、神橋、鳥居(附 宮殿、棟札) | 伊賀八幡宮 | 1933年(昭和8年)1月23日 | 伊賀町 | |
六所神社本殿、幣殿、拝殿、神供所、楼門(附 厨子、棟札) | 六所神社 | 1935年(昭和10年)5月13日 | 明大寺町 | |
滝山東照宮本殿、拝殿、幣殿、中門、鳥居、水屋(附 厨子、石柵、棟札、銅燈籠) | 滝山東照宮 | 1953年(昭和28年)11月14日 | 滝町 | |
旧額田郡公会堂及物産陳列所(附 門柱、棟札、銘札) | 岡崎市 | 1999年(平成11年)12月1日 | 朝日町 | 棟札、銘札は岡崎市美術博物館。 |
指定名称 | 所有者・管理者 | 指定年月日 | 所在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|
大樹寺伽藍(三門、総門、裏二門、鐘楼、大方丈) | 大樹寺 | 1955年(昭和320年)6月6日 | 鴨田町 | |
淇篆庵並水屋 | 明願寺 | 1979年(昭和54年)6月13日 | 伊賀町 |
指定名称 | 所有者・管理者 | 指定年月日 | 所在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|
真福寺仁王門 | 真福寺 | 1960年(昭和35年)3月10日 | 真福寺町 | |
切越八面塔 | 切越町 | 1967年(昭和42年)9月14日 | 切越町 | |
足利尊氏石宝塔 | 八剣神社 | 1967年(昭和42年)9月14日 | 大門 | |
久世平太夫石宝塔 | 長福寺 | 1967年(昭和42年)9月14日 | 竜泉寺町 | |
酒井広親石宝塔 | 信光明寺 | 1967年(昭和42年)9月14日 | 岩津町 | |
大久保浄源石宝塔 | 個人 | 1967年(昭和42年)9月14日 | 竜泉寺町 | |
大久保忠員石宝塔 | 個人 | 1967年(昭和42年)9月14日 | 竜泉寺町 | |
諏訪神社石灯籠 | 諏訪神社 | 1967年(昭和42年)9月14日 | 梅園町 | |
犬頭神社石鳥居 | 糟目犬頭神社 | 1967年(昭和42年)9月14日 | 宮地町 | |
弟也斎 | 明願寺 | 1978年(昭和53年)6月15日 | 伊賀町 | |
明神型石鳥居 | 菅生神社 | 1990年(平成2年)3月22日 | 康生町 | |
甲山寺本堂(護摩堂)(附 棟札) | 甲山寺 | 2005年(平成17年)12月20日 | 六供町 | |
日吉山王社本殿 | 滝山東照宮 | 2006年(平成18年)12月21日 | 滝町 | |
大樹寺本堂 | 大樹寺 | 2008年(平成20年)6月16日 | 鴨田町 | |
大樹寺開山堂 | 大樹寺 | 2008年(平成20年)6月16日 | 鴨田町 | |
伊賀八幡宮末社上総社社殿、牟久津社社殿 | 伊賀八幡宮 | 2011年(平成23年)3月23日 | 伊賀町 |
指定名称 | 所有者・管理者 | 指定年月日 | 所在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|
八丁味噌本社事務所 | 合資会社八丁味噌 | 1996年(平成8年)12月20日 | 八帖町 | |
八丁味噌蔵(史料館) | 合資会社八丁味噌 | 1996年(平成8年)12月20日 | 八帖町 | |
本光寺本堂 | 本光寺 | 2007年(平成19年)10月2日 | 上青野町 | |
本光寺山門 | 本光寺 | 2007年(平成19年)10月2日 | 上青野町 | |
岡崎信用金庫資料館(旧岡崎銀行本店) | 岡崎信用金庫 | 2008年(平成20年)3月7日 | 伝馬通 | |
旧石原家住宅主屋 | 個人 | 2011年(平成23年)7月25日 | 六供町 | |
旧石原家住宅土蔵 | 個人 | 2011年(平成23年)7月25日 | 六供町 | |
旧石原家住宅庭門 | 個人 | 2011年(平成23年)7月25日 | 六供町 | |
旧愛知県第二尋常中学校講堂 | 岡崎市 | 2013年(平成25年)3月29日 | 針崎町 | |
旧愛知県岡崎師範学校武道場 | 国立大学法人愛知教育大学 | 2013年(平成25年)12月24日 | 六供町 | |
日本福音ルーテル岡崎教会教会堂 | 宗教法人日本福音ルーテル教会 | 2013年(平成25年)12月24日 | 伝馬通 | |
旧本多家住宅主屋 | 岡崎市 | 2014年(平成26年)10月7日 | 欠町 | 2012年(平成24年)移築。 |
善立寺本堂 | 善立寺 | 2015年(平成27年)11月17日 | 祐金町 | |
善立寺七面堂 | 善立寺 | 2015年(平成27年)11月17日 | 祐金町 | |
善立寺玄関 | 善立寺 | 2015年(平成27年)11月17日 | 祐金町 | |
善立寺山門 | 善立寺 | 2015年(平成27年)11月17日 | 祐金町 | |
愛知県立岡崎高等学校正門門柱(旧愛知県立第二中学校正門) | 愛知県 | 2017年(平成29年)6月28日 | 明大寺町 | |
愛知県立岩津高等学校正門旧門柱(旧岩津町立愛知県岩津農商学校正門) | 愛知県 | 2017年(平成29年)6月28日 | 東蔵前町 | |
冨田家住宅木南舎 | 個人 | 2020年(令和2年)4月3日 | 元宿町 | |
冨田家住宅土蔵 | 個人 | 2020年(令和2年)4月3日 | 本宿町 |
指定名称 | 指定年月日 | 所在地 |
---|---|---|
岡崎城天守 | 2013年(平成25年)4月17日 | 康生町 |
六供配水場配水塔 | 2013年(平成25年)5月31日 | 六供町 |
旧石原家住宅 | 2013年(平成25年)8月30日 | 六供町 |
旧野村家住宅(米屋) | 2013年(平成25年)8月30日 | 藤川町 |
カクキュー八丁味噌 | 2014年(平成26年)10月30日 | 八帖町 |
まるや八丁味噌 | 2014年(平成26年)10月30日 | 八帖町 |
本光寺 | 2015年(平成27年)4月8日 | 上青野町 |
アイチ味噌溜店舗 | 2015年(平成27年)7月24日 | 本宿町 |
善立寺 | 2017年(平成29年)10月31日 | 祐金町 |
岡崎信用金庫資料館 | 2017年(平成29年)10月31日 | 伝馬通 |
日本福音ルーテル岡崎教会教会堂 | 2018年(平成30年)9月1日 | 伝馬通 |
十王堂 | 2019年(平成31年)3月1日 | 藤川町 |
まるや八丁味噌土蔵 | 2020年(令和2年)3月30日 | 八帖町 |
木造阿弥陀如来坐像 1躯 - 称名寺
指定名称 | 所有者・管理者 | 指定年月日 | 所在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|
高隆寺跡 | 個人 | 1962年(昭和37年)6月15日 | 高隆寺町 | |
松平八代墓 | 大樹寺 | 1962年(昭和37年)6月15日 | 鴨田町 | 8基 |
岡崎城跡 | 岡崎市・龍城神社 | 1962年(昭和37年)6月15日 2016年(平成28年)12月26日追加指定 | 康生町 | |
山中城跡 | 岡崎市 | 1962年(昭和37年)6月15日 | 舞木町 | |
松平清康墓 松平広忠墓 | 大林寺 | 1962年(昭和37年)6月15日 | 魚町 | 2基 |
本多忠勝誕生地 | 岡崎市 | 1962年(昭和37年)6月15日 | 西蔵前町 | |
上宮寺境内地 | 上宮寺 | 1962年(昭和37年)6月15日 | 上佐々木町 | |
勝鬘寺境内地 | 勝鬘寺 | 1962年(昭和37年)6月15日 | 針崎町 | |
松平広忠公御廟所(附 灯籠2基) | 松應寺 | 1962年(昭和37年)6月15日 2018年(平成30年)4月3日追加指定 | 松本町 | |
大久保忠教墓 大久保忠員墓 宇津忠茂墓 | 長福寺 | 1962年(昭和37年)6月15日 | 竜泉寺町 | 3基 |
保久城主山下家墓所 | 個人 | 1970年(昭和45年)12月1日 | 保久町 | |
甲山第1号墳 | 甲山寺 | 1972年(昭和47年)7月5日 | 六供町 | |
石田第1号墳 | 個人 | 1972年(昭和47年)7月5日 | 細川町 | |
石田第2号墳 | 個人 | 1972年(昭和47年)7月5日 | 細川町 | |
村上遺跡 | 岡崎市 | 1973年(昭和48年)5月6日 | 丸山町 | |
村上古墳 | 岡崎市 | 1973年(昭和48年)5月6日 | 丸山町 | |
松本古窯跡 | 岡崎市 | 1974年(昭和49年)1月11日 | 竜泉寺町 | |
千人塚 | 鴨田町 | 1974年(昭和49年)1月11日 | 鴨田町 | |
藤川宿脇本陣跡 | 岡崎市 | 1978年(昭和53年)10月21日 | 藤川町 | |
猿投塚古墳 | 岡崎市 | 1980年(昭和55年)7月11日 | 橋目町 | |
奥殿藩藩主廟所 | 個人 | 1988年(昭和63年)11月7年 | 奥殿町 | |
日近城跡 | 広祥院 | 1990年(平成2年)7月6日 | 桜形町 | |
雨山砦跡及び雨山合戦地 | 個人 | 1992年(平成4年)6月15日 | 雨山町 | |
小豆坂古戦場跡 | 愛知県 | 1999年(平成11年)10月7日 | 戸崎町 |
名称 | 競技種目 | 所属リーグ | 本拠地 | 運営会社・団体 | 設立 |
---|---|---|---|---|---|
マルヤス工業フットボールクラブ | サッカー | JFL | 名古屋市港サッカー場 豊田市運動公園・岩田運動公園 |
マルヤス工業 | 1968年 |
三菱自動車岡崎硬式野球部 | 野球 | JABA (社会人野球) |
三菱大府グランド | 三菱自動車工業 | 1993年 |
オカザえもんは、愛知県日進市出身の現代美術作家・斉と公平太の作品。「あいちトリエンナーレ2013」のプレイベント「岡崎アート&ジャズ2012」の出品作品である。イラストと着ぐるみ、2つのキャラクターが存在する。2012年10月31日に行われた同イベントの内覧会で初めて公の場に姿を現す[89]。
2013年4月1日、岡崎市から「岡崎アート広報大臣」に委嘱された(任期は1年間)[90]。同年7月10日には「ご当地キャラ総選挙2013」の中部地区予選で1位となった[91]。同年8月6日には決勝大会で全国2位となった[92][93]。2013年11月24日、「ゆるキャラグランプリ2013」において、全国22位となった[94]。
市内業者が作る関連商品については、作者の承諾により著作権料は発生しない[95]。その効果もあって多くの商品が生み出されるようになった。売れ行きも好調で、2013年12月に市内郵便局で限定発売された「オカザえもん切手シート」は1日で完売した[96]。また同年12月22日、日本経済新聞が発表した「ゆるキャラスイーツ・ベスト10」で、康生地区の和菓子屋が製造した「オカザえもんどら焼き」が全国5位に選ばれた[97]。
2014年3月31日、岡崎アート広報大臣を退任。オカザえもんが1年間の間に岡崎市内に及ぼした経済波及効果は約42億5千万円、新聞や雑誌への掲載による広告効果は約6億6千万円であったことが退任式で発表された[98]。2016年4月2日、市から再び「岡崎アート広報大臣」に委嘱された[99]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.