富山市
富山県庁所在地 ウィキペディアから
富山県庁所在地 ウィキペディアから
富山市(とやまし)は、富山県の中央部から南東部にかけて位置する市。富山県の県庁所在地及び人口が最多の市であり、中核市、保健所政令市、中枢中核都市に指定されている。また、中核市で最も面積の大きい市である[1]。
とやまし 富山市 | |||||
---|---|---|---|---|---|
| |||||
国 | 日本 | ||||
地方 | 中部地方(北陸地方) | ||||
都道府県 | 富山県 | ||||
市町村コード | 16201-9 | ||||
法人番号 | 9000020162019 | ||||
面積 |
1,241.70km2 (境界未定部分あり) | ||||
総人口 |
404,385人 [編集] (推計人口、2024年8月1日) | ||||
人口密度 | 326人/km2 | ||||
隣接自治体 |
射水市、滑川市、砺波市、南砺市、中新川郡上市町、立山町、舟橋村 岐阜県:飛騨市、高山市 長野県大町市 | ||||
市の木 | ケヤキ | ||||
市の花 | ヒマワリ | ||||
市の花木 | ツバキ | ||||
富山市役所 | |||||
市長 | 藤井裕久 | ||||
所在地 |
〒930-8510 富山県富山市新桜町7番38号 北緯36度41分45秒 東経137度12分49秒 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
特記事項 |
ここでのデータは2005年4月発足の新市制のものである。 旧市制のデータは#戦後(旧・富山市)に掲載する。 | ||||
ウィキプロジェクト |
富山県の県庁所在地で、同県の中央部から南東部に位置する。2005年4月1日、富山市、上新川郡大沢野町、大山町、婦負郡八尾町、婦中町、山田村、細入村の7市町村による新設合併によって現在の富山市が発足した。
この合併により、全国の都道府県庁所在地の中では2番目に広い総面積を持つようになった[注釈 1](全国の市では11位)。また、富山県の29.24%の面積を占め、ひとつの市町村が県に占める面積の割合としては全国一である。市域は富山県域に対して南北にわたっており、日本海と南側の県境いずれにも接している[注釈 2]。
広い総面積に対し、可住地面積比率は38.2%で、市域の約6割が林野地となっている[2]。また、市街化区域面積比率は5.8%であり[2]、環境モデル都市の選定を受けてコンパクトシティを目指した都市計画を進めている。また、環境未来都市、国際会議観光都市、国連エネルギー効率改善都市、レジリエント・シティ、持続可能な開発目標(SDGs)におけるSDGs未来都市、自治体SDGsモデル事業に選定されている。市内の多くは立山黒部ジオパークに、南東部は中部山岳国立公園に指定されている。同市は2011年よりインドネシア・バリ島で小水力発電施設の設置事業を推進するなど、国際的な環境事業に力を入れており、2017年(平成29年)2月2日には日本の中核都市としては初めて国際協力機構(JICA)と人材交流や技術協力などの協定を結んでいる。同市は県のプライメイトシティとして機能している。北陸電力や北陸銀行などライフラインの本社や支店が置かれ、商業・工業面において富山県の中心のみならず北陸地方の中心都市としての機能も担っている。単独の人口比較では石川県金沢市に劣るが、都市雇用圏での比較では人口・経済規模ともに金沢都市圏より富山都市圏の方が大きく、新潟都市圏とともに日本海側の都市では福岡都市圏、札幌都市圏、北九州都市圏に次ぐ規模である[3]。
合併により、「越中富山の薬売り」で知られる富山城の城下町として栄えた地域(「薬都」と呼ばれることも)、浄土真宗の古刹聞名寺の門前町として発展した地域、立山信仰の登山者たちの宿場町として人々が行きかった地域など、多様な地域が包含された。地形も変化に富み、水深約3,000 メートルの富山深海長谷から標高2,986 メートルの水晶岳までさまざまな動植物が生息し、ホタルイカやライチョウ(雷鳥)などが観光資源化されている。ホタルイカが水揚げされる富山市から魚津市にかけての富山湾沿岸は、特別天然記念物に指定されている。
隣県の新潟県の県庁所在地、新潟市とは252.5 キロメートル離れている。これは、陸続きの隣県同士の県庁所在地間の距離では日本最長である(海上隣接を含めると、鹿児島市と那覇市の764.9 キロが最長)。
富山県の中部から南東部に位置しており、県の総面積の約3分の1を占める。市の北部から中部には神通川・常願寺川などの川によって形成された沖積平野の富山平野が広がる。中西部にはなだらかな呉羽丘陵が横たわり、南部には飛騨高地が、南東部には雄大な北アルプス立山連峰がそびえる。森林セラピー基地に認定されている。富山平野の北側には、豊富な魚介類の宝庫である富山湾が広がっている。
「トヤマ」の地名は、室町幕府直臣の吉見詮頼が、応永5年5月3日に「越中国外山郷地頭職」を観勝寺に寄せた寄進状[注釈 3] が初見である。外山郷は、越中守護所放生津(現・射水市)があった射水郡の東端である御服山(呉羽山)の東麓(射水郡からみて外側)に位置する。この地形から、「外山」の字が当てられたとする説がある。「富山」字は戦国時代に初見されるが、江戸時代は「富山」「外山」の両方が使用されている。また、慶長年間以前に成立したことが確実な文献史料のタイトルに『富山之記』がある。このほか、以下のような説がある。
昭和の第二次世界大戦後に市街化区域内は土地区画整理され、東西と南北に碁盤目状に延びる道路と、富山駅を起点とした5本の放射状道路により構成された計画都市となっている。富山駅を中心に周辺には県庁、富山国際会議場、県民会館などシビックセンターが発達している。富山駅南口からはメインストリートが伸びており、路面電車でアクセスできる繁華街が発達している。かつては駅裏とも呼ばれていた富山駅北側は昭和末期に策定された「とやま都市MIRAI計画[4]」による再開発が行われ、現在ではLRTが整備され、シアター富山市芸術文化ホール(通称:オーバード・ホール)、シティーオアシスである富岩運河環水公園(カナルパーク)や富山県美術館などの施設が立地する他、企業の本社などオフィス街が発達している。同じく路面電車でアクセスできる市北部海沿いの岩瀬浜エリアには歴史情緒あふれる街並みが広がっており、かつて北前船が就航していた頃の面影が残っている。また、神通川を渡った市内西部には五福エリアに富山大学を中心に学生街が、婦中町エリアにショッピングセンター「フューチャーシティ・ファボーレ」をメインとしたロードサイドショップが点在する商業圏が発達している。また、岐阜県の飛騨・高山方面へと続く国道41号線沿いにもロードサイドショップが点在する。一方、古い町並みの残る八尾地域は「越中おわら風の盆」で全国的に知られ、多数の観光客が訪れる。
日本海側気候で、旧富山市域は豪雪地帯、市域南部の大山・八尾・山田・細入地域は特別豪雪地帯に属している。しかし、北陸地方のほかの地域と同様、緯度のわりには太平洋側と比べると気温は温暖で、年間降水日数が多く特に冬期は多量の降水を見る。富山平野は富山湾に面しているが、能登半島で日本海からの海風が遮られ、南側に飛騨高地などの山脈が連なり南〜南西の風が卓越しやすいなど内陸性ともいえる気候の側面を持つ。以上の地形的な特徴により、冬の季節風が比較的弱いものの、夏はフェーン現象の影響を特に受けやすく高温となる。
冬は雪や雨の日が多めである。年平均降雪量は253 センチで、年平均最深積雪は51 センチとである。これには前述の地形的な特徴も原因となっており、能登方面から吹く弱い北西風と、金沢市方面から吹き込み南側の山地を回りこんでから吹き降りる南風が富山平野で収束しやすいことによるものである。冬季の過去最深積雪は1940年1月30日に観測された208 センチ。近年は暖冬化により積雪が減少傾向であるが、2021年1月8日に35年ぶりに100センチを超え、1月10日には128 センチに達した[5]。真冬日は年平均0.5日と少なく、最寒月の最低気温の平年値も約0 ℃と、関東地方の郊外都市部より高い。いわゆる湿り雪で、積雪後は北海道・東北地方のような恒常的な凍結状態にはならない。北海道・東北地方の豪雪地帯と比べると比較的降雪日数、積雪量共に少ないが、JPCZの影響で猛烈な寒気が流れ込むと、短期的に大雪となることもある。
夏は日本海を台風や低気圧が通過した際に著しいフェーン現象が発生し最高気温が37 ℃以上になることがあり、2000年7月31日には最低気温が30.1 ℃と、いわゆる超熱帯夜を記録している。年平均熱帯夜日数は9.3日。ただし市内を台風が通過することはあまりない為、台風自体の影響は少ない。
富山地方気象台(富山市石坂、標高9m)の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 20.9 (69.6) |
22.5 (72.5) |
25.7 (78.3) |
32.4 (90.3) |
33.3 (91.9) |
37.2 (99) |
38.8 (101.8) |
39.5 (103.1) |
38.3 (100.9) |
33.3 (91.9) |
29.2 (84.6) |
24.8 (76.6) |
39.5 (103.1) |
平均最高気温 °C (°F) | 6.3 (43.3) |
7.4 (45.3) |
11.8 (53.2) |
17.6 (63.7) |
22.7 (72.9) |
25.7 (78.3) |
29.8 (85.6) |
31.4 (88.5) |
27.0 (80.6) |
21.6 (70.9) |
15.7 (60.3) |
9.5 (49.1) |
18.9 (66) |
日平均気温 °C (°F) | 3.0 (37.4) |
3.4 (38.1) |
6.9 (44.4) |
12.3 (54.1) |
17.5 (63.5) |
21.4 (70.5) |
25.5 (77.9) |
26.9 (80.4) |
22.8 (73) |
17.0 (62.6) |
11.2 (52.2) |
5.7 (42.3) |
14.5 (58.1) |
平均最低気温 °C (°F) | 0.2 (32.4) |
0.1 (32.2) |
2.6 (36.7) |
7.4 (45.3) |
12.9 (55.2) |
17.7 (63.9) |
22.1 (71.8) |
23.2 (73.8) |
19.1 (66.4) |
13.1 (55.6) |
7.3 (45.1) |
2.5 (36.5) |
10.7 (51.3) |
最低気温記録 °C (°F) | −11.9 (10.6) |
−11.1 (12) |
−7.0 (19.4) |
−2.2 (28) |
2.3 (36.1) |
7.7 (45.9) |
13.0 (55.4) |
14.1 (57.4) |
8.9 (48) |
1.9 (35.4) |
−2.0 (28.4) |
−8.5 (16.7) |
−11.9 (10.6) |
降水量 mm (inch) | 259.0 (10.197) |
171.7 (6.76) |
164.6 (6.48) |
134.5 (5.295) |
122.8 (4.835) |
172.6 (6.795) |
245.6 (9.669) |
207.0 (8.15) |
218.1 (8.587) |
171.9 (6.768) |
224.8 (8.85) |
281.6 (11.087) |
2,374.2 (93.472) |
降雪量 cm (inch) | 104 (40.9) |
84 (33.1) |
17 (6.7) |
1 (0.4) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
49 (19.3) |
253 (99.6) |
平均降水日数 (≥0.5 mm) | 23.7 | 19.9 | 18.2 | 13.5 | 12.0 | 12.1 | 15.3 | 11.6 | 13.7 | 14.2 | 17.9 | 23.0 | 194.9 |
平均降雪日数 | 23.4 | 19.4 | 12.1 | 1.8 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.6 | 13.1 | 71.8 |
% 湿度 | 82 | 78 | 72 | 68 | 70 | 78 | 79 | 77 | 78 | 77 | 77 | 81 | 76 |
平均月間日照時間 | 68.1 | 89.7 | 135.9 | 173.6 | 199.9 | 154.0 | 153.3 | 201.4 | 144.2 | 143.1 | 105.1 | 70.7 | 1,647.2 |
出典:気象庁(平均値:1991年 - 2020年、極値:1939年 - 現在)[6][7] |
八尾(1991年 - 2020年)の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 17.8 (64) |
20.6 (69.1) |
24.8 (76.6) |
30.8 (87.4) |
32.5 (90.5) |
35.2 (95.4) |
37.3 (99.1) |
39.0 (102.2) |
37.5 (99.5) |
32.6 (90.7) |
27.4 (81.3) |
23.1 (73.6) |
39.0 (102.2) |
平均最高気温 °C (°F) | 5.7 (42.3) |
6.6 (43.9) |
11.1 (52) |
17.5 (63.5) |
22.9 (73.2) |
25.8 (78.4) |
29.7 (85.5) |
31.3 (88.3) |
26.7 (80.1) |
21.1 (70) |
15.2 (59.4) |
8.9 (48) |
18.6 (65.5) |
日平均気温 °C (°F) | 2.0 (35.6) |
2.3 (36.1) |
5.8 (42.4) |
11.7 (53.1) |
17.1 (62.8) |
20.9 (69.6) |
24.8 (76.6) |
26.0 (78.8) |
21.8 (71.2) |
15.9 (60.6) |
10.2 (50.4) |
4.8 (40.6) |
13.6 (56.5) |
平均最低気温 °C (°F) | −0.9 (30.4) |
−1.2 (29.8) |
1.3 (34.3) |
6.1 (43) |
11.6 (52.9) |
16.6 (61.9) |
21.1 (70) |
21.9 (71.4) |
17.9 (64.2) |
11.8 (53.2) |
6.0 (42.8) |
1.5 (34.7) |
9.5 (49.1) |
最低気温記録 °C (°F) | −9.5 (14.9) |
−10.9 (12.4) |
−9.0 (15.8) |
−3.1 (26.4) |
2.5 (36.5) |
6.0 (42.8) |
13.4 (56.1) |
14.6 (58.3) |
8.0 (46.4) |
0.6 (33.1) |
−2.8 (27) |
−8.5 (16.7) |
−10.9 (12.4) |
降水量 mm (inch) | 299.6 (11.795) |
200.8 (7.906) |
182.1 (7.169) |
132.2 (5.205) |
115.9 (4.563) |
180.6 (7.11) |
255.3 (10.051) |
220.9 (8.697) |
251.0 (9.882) |
183.2 (7.213) |
237.9 (9.366) |
317.8 (12.512) |
2,577.3 (101.469) |
平均降水日数 (≥1.0 mm) | 23.0 | 18.6 | 17.7 | 13.5 | 11.4 | 11.8 | 15.0 | 11.9 | 13.5 | 13.7 | 16.7 | 22.2 | 189.0 |
平均月間日照時間 | 61.4 | 86.8 | 130.1 | 171.3 | 196.3 | 139.4 | 135.2 | 178.0 | 125.1 | 128.1 | 101.3 | 68.3 | 1,528.5 |
出典1:Japan Meteorological Agency | |||||||||||||
出典2:気象庁[8] |
猪谷(旧細入村、標高:215m)の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
降水量 mm (inch) | 224.6 (8.843) |
141.8 (5.583) |
173.4 (6.827) |
143.9 (5.665) |
135.9 (5.35) |
157.7 (6.209) |
263.2 (10.362) |
210.1 (8.272) |
225.9 (8.894) |
202.3 (7.965) |
213.3 (8.398) |
251.6 (9.906) |
2,331.1 (91.776) |
降雪量 cm (inch) | 262 (103.1) |
213 (83.9) |
83 (32.7) |
3 (1.2) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
1 (0.4) |
127 (50) |
695 (273.6) |
出典:気象庁 (降水量平均値:1996年-2020年、降雪量平均値:1991年-2020年)[9] |
富山県
富山市街地に相当する神通川下流域は、複合扇状地の恩恵により、大化の改新よりも前から、北陸道における農作地として存在していた。
神通川西岸には、古代氏族である射水臣氏が有力氏族としており、この射水臣氏は、伊彌頭国造である大河音足尼の後裔であり、利波臣などの有力氏族を分出した。呉羽山にある古墳群は、この射水臣氏の血統の祖であると考える説がある。天平期においては、現在の富山市東部(上飯野から天正寺を経て西福沢の丸山に向かう一帯を基線とする)は東大寺の階墾田「大藪庄」と呼ばれていた。また、さらに東部において、現在の滑川市を中心とした地域は「堀江荘」と呼ばれた。
平安期に入ると、新たに伊勢神宮領弘田御厨(富山市広田地区)、長講堂領新保御厨(富山市新保)、新熊野社領立山外宮(富山市太田もしくは吉岡)などの荘園が立荘された。
また北陸道における駅として、磐瀬(富山市岩瀬)、水橋(富山市水橋)が配置されていた。そのうち水橋は、「枕草子」において「わたりは、しかすがのわたり、こりずまのわたり、水橋のわたり」として記されている。
律令制度において、貴族社会を根底から支える貴族私有地制度「荘園」は拡大し、白河・鳥羽・後白河の三代院政期において、さらに増加した。当時、実質院分国であった越中国において、藤原顕隆の勧修寺一族の遠戚である宮道氏が留守役として下向していた。
白河法皇が死去すると、在地において知行国として荘園を管理する体制が現れた。堀江荘は藤原顕隆一門(勧修寺家)が、般若野荘・宮川荘を藤原公能一門(徳大寺家)が、高野荘を藤原実行一門(三条家)が支配した。勧修寺家の留守役である宮道氏は堀江荘や太田保(富山市太田)を私領支配し、その分家筋である太田氏や蜷川氏の祖となった。その他の荘園も、同様に在地の私領支配へと移っていった。
源頼朝の知行である鎌倉時代になると、南部に広がる太田保が北陸道大将軍に任ぜられた幕府の御家人、北条朝時(名越氏)所領となった。これは、平氏の知行もなかなか受け入れず、木曾義仲に与し、源義経の逃亡路となったという、幕府にとって都合の悪い越中国の国人達を牽制したものである。その一方で堀江荘における宮道氏は荘園を安堵され、太田氏も太田保を除く開発領を安堵されており、在地の者に対する御家人への道を残している。
越中国守護北条朝時(名越)は、執権北条氏における有力庶流の血統であったため、北条氏嫡流の弾圧を受け続けた。そして名越時有の代になると、六波羅探題が壊滅、在地武士の離反にあって最後は一族79人が放生津城にて割腹し、最期を遂げた。時近くして、鎌倉において北条高時が自害、鎌倉幕府は滅亡した。
南北朝時代に入り、観応の擾乱で活躍した越中守護桃井直常は、太田保布市の興国寺周辺を拠点として反幕府運動を展開した。直常は一時幕府に帰順したこともあるが、斯波氏との対立により再び越中に下向して反抗した。桃井氏は長沢(富山市長沢)などで抗戦を繰り返したが、1371年(応安4年)に砺波郡五位荘の合戦後、直常は消息不明となり、斯波氏による越中掌握が進んだ。一方、神通川と常願寺川に挟まれた地域に広く拡大した太田保は、室町幕府管領細川家領となり、太田保北部に柳町(富山市柳町)などの町が誕生する。斯波氏と細川氏は幕府内で対立関係にあり、斯波氏が越中守護として桃井氏を没落させた後も細川氏は太田保を所領し続けたため、桃井氏の残党や国人は太田保に逃げ込み、細川氏の庇護を受けた。このころ、太田保領内に富山郷が現れる。
1377年(永和3年)、越中国人の謀反が起き、守護斯波氏と合戦になった。その破れた越中国人を管領細川頼之は太田保で保護し、そこに斯波氏が攻め込むと言う事態に至った。激怒した細川頼之は代官篠本氏を派遣し斯波氏と対峙させ、事態は一触即発の状況となった。この状況が続き、やがて京における細川追い落としの動きが強まり、細川頼之は管領を罷免され、斯波義将が管領となった(康暦の政変)。ところが細川氏は太田保を手放さずにいたため、ついに越中国守護は斯波氏から畠山基国に譲られる。以降160年にわたり、越中国の守護は最後の畠山稙長に至るまで畠山氏の世襲となる。
当時の越中は、新川郡を椎名氏が、射水郡・婦負郡を神保氏が、砺波郡を遊佐氏が「守護役」から発展した分郡守護代として被官していた。守護代の下には「又守護代」や「郡使」などと呼ばれた国人たちがいた。
越中守護畠山持国の跡目争いから生じた応仁の乱の際には、これら分郡守護代達は畠山政長の臣下として従軍した。なかでも神保長誠は政長自決ののち、政長の立てた将軍足利義材を越中放生津に迎え、将軍公権を二分する幕府政権(越中公方)を構えるに至った。この際も、越中新川郡の椎名氏などを含む諸国の畠山守護代たちは足利義材の受け入れに協力し、義材が越中を離れるまで分郡守護代達の足並みは揃っていた。しかし、要であった政長を失った畠山氏は各地の国人たちを束ねることができず、求心力を失った。越中においても各分郡守護代が力を増し、細川氏の庇護を受けた本願寺による一向一揆も力をつけるなど、歴史の幕は次なる権力闘争へと移っていった。
戦国時代以降、婦負郡・射水郡分郡守護代であった神保長職によって太田保北端を流れる神通川の自然堤防上に富山城が築城され、城下町としての富山町が発展した。このころの越中国は越後上杉氏や織田氏の侵攻を受けていた。一時、越後上杉氏の侵攻を受けた後、織田信長により越中平定を命ぜられた佐々成政が入城し、一向一揆や越後上杉氏との戦いの拠点となった。
当時、佐々成政によってなされた治水事業は河川の氾濫を制えて、以降の下流域全体の発展に至った。
江戸時代に入ると南部に土方氏の布市藩が成立した。その後、布市藩は能登に移封され、加賀藩初代藩主前田利長が富山城を隠居地とした。1609年(慶長14年)に富山城が焼失したため、利長は高岡へ移った(慶長富山火災)。なお、この火災で城下町のほとんどが焼失したとする説があるが、これは元禄年間に記された『 三壺聞書』に由来する説であり、当時の史料によれば城は全焼したものの城下町は比較的軽微な被害であったとみられている[10]。
その後、利長の養嗣子となった二代藩主前田利常が隠居する際、その子前田利次に越中54万石のうち婦負郡一円の地と富山を含む新川郡の一部10万石を分封し、富山藩が成立した。
この分封により、富山城下は富山町として現在の富山市中心市街区が整備され発展した。また、富山藩二代藩主前田正甫(利次の子)が製薬を推進したため、薬の製造と販売を一括して行ったうえにそれを顧客の自宅に配置するという特殊な業態を創造し、それを中心とした産業が発展した。
2020年(令和2年)国勢調査による富山市の人口重心は小泉町交差点付近にある。
富山市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 富山市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 富山市
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
富山市(に相当する地域)の人口の推移
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||
総務省統計局 国勢調査より |
2007年(平成19年)4月1日現在の職員数は4,374人[20]。2010年度までに4,311人以下に削減(2005年時点より5.1%の削減)することを進めている[21]。同規模の都市と比べると市民1人あたりの職員数はまだ多い。現在、民間委託・民営化を進めたり、PFIの活用を行ったりしている。地区センターでは、各種申請、書類の発行が行えるようになっている(2006年11月25日現在)。
|
|
|
|
主な郵便局
|
|
|
|
代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|
歴代富山市長(1889年ー2005年)(公選前) | ||||
1 | 前田則邦 | 1889年6月2日 | 1895年5月27日 | |
2 | 市川伯孝 | 1895年6月1日 | 1901年5月23日 | |
3 | 1901年5月24日 | 1901年10月1日 | ||
4 | 加藤厚寛 | 1901年12月13日 | 1907年12月12日 | |
5 | 関野善次郎 | 1907年12月12日 | 1909年5月7日 | |
6 | 井上政寛 | 1909年8月18日 | 1915年8月17日 | |
7 | 稲垣宗正 | 1915年9月4日 | 1919年1月17日 | |
8 | 牧野平五郎 | 1919年2月17日 | 1923年2月13日 | |
9 | 1923年2月26日 | 1925年8月19日 | ||
10 | 1925年10月28日 | 1928年5月10日 | ||
11 | 井上政寛 | 1928年5月21日 | 1930年7月17日 | |
12 | 上埜安太郎 | 1930年8月2日 | 1933年3月9日 | |
13 | 金山米次郎 | 1933年3月11日 | 1934年12月19日 | |
14 | 野村嘉六 | 1934年12月20日 | 1935年5月14日 | |
15 | 平田紀一 | 1935年5月17日 | 1936年2月1日 | |
16 | 山崎定義 | 1936年2月6日 | 1940年2月5日 | |
17 | 森勇 | 1940年3月2日 | 1944年2月26日 | |
18 | 石坂豊一 | 1944年3月1日 | 1946年12月4日 | |
歴代富山市長(1889年ー2005年)(公選) | ||||
19 | 尾山三郎 | 1947年4月10日 | 1950年5月9日 | |
20 | 富川保太郎 | 1950年6月27日 | 1954年6月9日 | |
21 | 1954年6月25日 | 1958年6月22日 | ||
22 | 1958年6月23日 | 1959年2月7日 | ||
23 | 湊栄吉 | 1959年3月16日 | 1963年3月14日 | |
24 | 1963年3月15日 | 1967年3月14日 | ||
25 | 1967年3月15日 | 1971年3月14日 | ||
26 | 改井秀雄 | 1971年3月15日 | 1975年3月14日 | |
27 | 1975年3月15日 | 1979年3月14日 | ||
28 | 1979年3月15日 | 1983年3月14日 | ||
29 | 1983年3月15日 | 1983年3月31日 | ||
30 | 塩谷敏幸 | 1983年4月25日 | 1985年12月15日 | |
31 | 正橋正一 | 1986年1月27日 | 1990年1月25日 | |
32 | 1990年1月26日 | 1994年1月25日 | ||
33 | 1994年1月26日 | 1998年1月25日 | ||
34 | 1998年1月26日 | 2002年1月25日 | ||
35 | 森雅志 | 2002年1月26日 | 2005年3月31日 | |
歴代富山市長(2005年ー) | ||||
- | 中斉忠雄 | 2005年4月1日 | 2005年4月24日 | 職務執行者 |
1 | 森雅志 | 2005年4月24日 | 2009年4月23日 | |
2 | 2009年4月24日 | 2013年4月23日 | ||
3 | 2013年4月24日 | 2021年4月23日 | ||
4 | 藤井裕久 | 2021年4月24日 |
中斉忠雄(元大沢野町長)は、2005年4月の富山市(2005年ー)が発足から新市長が決まるまで市長職を代行する職務執行者を勤めた。
2007年度の当初予算規模は、約3,677億(+99億、+2.7%)である。合併して新富山市となった2005年度の当初予算(約4,410億)に比べると、約△16.6%となっている。水道事業や病院事業などの企業会計で、520億の増加が著しい。
2006年度決算(平成19年9月30日時点)は、約△63億(昨年比約△24億)で、赤字である。
市債残高は、約4,420億(前年比約△22億)である(2006年9月30日現在)。
なお、2006年度の当初予算規模は次のようになっている。
富山市議会は、定員38人。
(2019年4月19日現在)[24]
経済においても、富山市は富山県の中心地である。
富山経済は、廃藩置県後の明治期の富山県においてその基を築いた。代表的なものには、北陸最大にして地方銀行全国第二位の北陸銀行や、北陸電力の本店が富山市に所在し、富山県および北陸の経済活動の基盤を形成している。
また、富山県の経済を側面から支えている富山大学は、富山市民や団体の寄付行為によって生まれた旧制富山高等学校や富山薬学専門学校の流れを汲んでいる。
富山県は全国でもっとも農耕地における稲作率が高い県である。富山市郊外にも水田が広がる。
西部の呉羽地区では後述のナシ畑が広がっている。また、山間部の一部ではブドウやみょうがの生産が行われている。
水産業は、海岸部西部の四方と東部の水橋に漁港がある。また、かつては神通川にマスが遡上しており、それによってできた名産が鱒寿司(ますのすし)である。
富山市の果実生産の97%(2,702トン)を占めるナシは、富山市の全耕種出荷額の9%を担っている。また、県内出荷量の70%を占め、県内のナシ生産の中心である。全国の出荷量に対しては0.8%を占めている。
富山市では西部の呉羽・老田が産地であり、ここで採れるものは呉羽梨(くれはなし)と呼ばれている。隣接する射水市小杉・大門地域で作られるものも同様に、呉羽梨と呼ばれる。
呉羽の農業は、もともと稲作が中心であった。しかし、呉羽の多くを占める呉羽丘陵は水の便が悪く、日照りが続くと田が干上がってしまう土地柄だったため、1920年代からナシ作りがはじめられた。現在呉羽丘陵にはナシ畑が広がっている。
南部の大沢野地域において盛んに生産されている。
西部の婦中地域の山間部で主に生産されている。観光ぶどう園が多く、ワインの醸造も行われている。南部の八尾地域黒瀬谷地区でも、わずかながら生産されている。
コシヒカリの生産が盛んに行われている。中でも市西部でとれる米は「八町米(はっちょうまい)」という名前でブランド化されている。
磯野屋
本鋪勝屋
満寿泉
風の盆
富美菊
おわら娘
よしのとも
鷹泉
三笑楽
富山ブレンド
富山県内16の蔵の酒をブレンドした。
富山市は、日本海側屈指の工業都市である。
戦前より続く産業として、江戸期までさかのぼることができる「くすりのとやま」に代表される製薬産業や、全国屈指の製造量を誇るベアリングなどの工業機械製造業がある一方、昭和後期のエレクトロニクスやロボトロニクス関連産業の隆盛により、地域内で蓄積された先進的な微細加工技術によって精密工業製品や各種微細加工素材、精密自動車部品、高機能ロボットなどの製造業が台頭している。
これら工業の製造研究拠点としての発展を裏付けているものは、安価な電力供給と良質で豊富な工業用水を容易に得られる地理的条件、富山大学・富山県を中心とした産学官連携研究施設の充実、そして重要特定港湾「伏木富山港富山地区」や北陸自動車道、東海北陸自動車道などによる太平洋側工業地域と環日本海側諸国への交通の利便性を兼ね備えた地域であることが挙げられる。
旧来からの中心商業地は総曲輪(そうがわ)・西町(にしちょう)界隈である。しかしバブル期以後、富山駅周辺でマリエとやまや富山ステーションフロントCiCなど商業ビルの建設が相次ぎ、総曲輪・西町との客の食い合いが生じている。さらに後述する郊外型SCなどの進出による打撃も大きく、年々総曲輪・西町のステータスは相対的に低下する傾向にある。総曲輪・西町では2006年3月に大手百貨店の西武富山店が撤退し、なおも求心力低下が危惧されているのに対し、駅周辺は新幹線が開通し、富山駅の高架化・区画整理事業が進行していることから今後も発展すると考えられる。
この状況を打開すべく、総曲輪・西町一帯では市のコンパクトシティ推進政策も相まって再開発計画が複数提案され、進行している。2007年9月に移転新築の百貨店の富山大和を核とした商業施設『総曲輪フェリオ』が開店した。富山大和旧店舗跡地(西町南地区)は、富山市立図書館、富山第一銀行本店、ガラス美術館が入居する複合ビル『TOYAMAキラリ』が2015年春に完成した。総曲輪西地区においては、シネマコンプレックスやホテルなどの複合商業ビル『ユウタウン総曲輪』が2016年6月に開業し、総曲輪・西町地区では約10年ぶりの大手配給映画館の復活となった。また、中央通りF地区や西町東南地区では、マンション主体の複合施設が完成している。それ以外では、旧富山西武跡一帯は、2018年度末を目途に商業施設・マンションで構成する再開発工事が進んでおり、西町・総曲輪北地区、中央通りD北街区においても、複合施設とする再開発を検討中である。
中心商店街は総曲輪通り商店街と中央通り商店街である。この2つの商店街はアーケードで連続しており、2つを合わせたアーケードの長さは1キロにもおよび北陸最大の規模になる。反面、その長さゆえ集客効率が悪く、中央通り商店街の一部分でシャッター通りを生む一因となっている。
夜の歓楽街は桜木町である。北陸では、石川県金沢市片町地区に次ぐ集積となっている。
2000年、婦中地域(当時の婦負郡婦中町)に大型のショッピングモール「フューチャーシティ・ファボーレ」がオープンした。また、市の環状道路である草島線および国道359号沿いの新屋から婦中町速星にかけてはロードサイドショップの集積により一大商圏となっており、活況を呈している。そのため、中川原や掛尾・婦中大橋付近では、休日には大渋滞が発生する。
富山市内のおもなショッピングセンター、大型スーパーについては以下の通りである。
|
|
※ウェリントン市は旧大沢野町、残る3都市は旧富山市と締結されている。
上記のほか、富山県に系列局のないテレビ朝日、北陸朝日放送などの石川県域民放テレビ各局、読売新聞などの全国紙各紙、北陸中日新聞、共同通信社・時事通信社などが市内に拠点を有する。
国立
県立
私立
国立
県立
私立
県立
私立
国立
私立
市立
国立
私立
市立
国立
県立
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
西日本旅客鉄道(JR西日本)
東海旅客鉄道(JR東海)
■ 富山軌道線:全駅
その他
高速道路
有料道路
国道
県道
高速バス
東京線
大阪線
名古屋線
その他
新潟線(新潟交通・富山地方鉄道)
金沢線(北鉄金沢バス・富山地方鉄道)
群馬・栃木線(日本中央バス)
市内中心部ではコミュニティサイクル「アヴィレ」を利用できる。2022年2月現在、ステーション23か所[28]。
#農業・水産業も参照
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.